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【怖い話】草むしりのマンション(前編)【「禍話」リライト90】
世の中にうまい話はない。
Mさんが大学院生の時のことである。
夏、先輩から「短期のバイトがあるんだけど、やってみるか?」と言われた。
仕事はマンションの草むしり・草刈り、機材はちゃんとしたものを使えるし、時間の縛りもキツくない。監督する人間もいないという。
「えーっ、でも今年って暑いじゃないッスかぁ。……ちなみに、おいくらで?」
「これがな、結構もらえるんだよ……」
値段を聞いてMさんは驚いた。お金持ちの子供の家庭教師よりも高い。草むしりでもらえる額ではない。
先輩は言う。
「まぁ2人でやれば一週間で仕上がると思うよ。一週間、昼だけ働いてそんだけなら、いいバイトだと思わない?」
聞けば先輩は何度もやったことがあり、作業は手慣れたものらしい。
どう? と聞かれたのでMさんは、やります! とその場で飛びついた。
「今から考えたら、なんですけどね」
とMさんは言う。
「そんなオイシいバイトなら、友達とかよく知った後輩とかに声をかけるもんだと思うんですよ。
なんでそんなに親しくもない俺に声をかけたのか、っていうね……」
指定された日の午前中、家を出た。
歩いて2、30分ほどの距離、山を切り崩したゆるい傾斜地に建つマンションがそこだった。
日差しが強い。どこかでセミが鳴いている。
今日も暑くなりそうだった。
マンションの前、先輩は先に到着していた。
当のマンションは5階建ての、地味な外観の建物である。
「おう、こっちこっち」
先輩は呼んだが、Mさんは周りを見渡して「あれ?」と思った。
コンクリートの建物とアスファルトばかりで、刈るような草がない。芝生も木もない。
「あの~、これどこを刈るんスかね?」Mさんは聞いた。
「あぁ、ここじゃねぇんだよ」先輩は親指で後方を示した。
「裏。マンションの裏に、庭みたいなスペースがあるんだわ」
エントランスには入らず、建物の脇へをと歩を進める。
隣接する敷地に立つ壁とマンションのビルの角部分、そこにちょっとした道があった。
「隙間」と呼びたくなる道だった。小道や通路と呼ぶには狭すぎる。
太っている奴だと窮屈そうだな、とMさんが思うくらいの幅だった。
隙間の通路を抜けると、開けた場所に出た。
「うわぁ~」Mさんは思わず声を上げた。
三面が高い壁、残り一面がマンションの裏側、そんな風に完全に囲まれた空間だった。
人の背丈くらいまで成長した草が、地面と視界をぎっしりと占領している。
上は抜けるような青空なので、余計に窮屈に感じた。
「いやこれすごいッスね。これを全部綺麗に、根こそぎ……」
こりゃ大変な仕事だ、失敗したか? と思いつつMさんが呟くと、「いやそうでもないよ」と先輩は言う。
「これ、根こそぎ抜かなくてもいいの。そうだな、足首くらいまで短くしちゃえばいいんだわ。ほら、」
言いながら指さした先、草に隠れているが壁際、道具が並べてある。
大小の鎌やナタのようなもの、軍手、帽子、ゴミ袋などがきっちりと揃っている。
「あれ、業者さんが置いていった道具。これでザクザクやって、見映えが悪くないくらいに整えればいいんだよ」
「へぇ……」
「これも、考えてみたらって話なんですけど、」Mさんはまた当時を振り返る。
「本職の業者さんが入って、除草剤でも撒いて一発で終わらせれば済む話じゃないですか。おかしかったんですよね、やっぱり……」
とは言えその時は「なんだぁ、ザッとやっちまえばいいのか。よかった」という安堵しか浮かばなかった。
「じゃあさっそく、やるか? 熱中症だけは気をつけてな?」
軍手に帽子をつけて、隅の方から作業をはじめた。
休憩の時間指定はない。サボりというほどでなければ、休み休みでもかまわない、と言う。
「要は、まぁ二週間くらいで終わらせてくれれば、あんだけ出す、って話でな」
先輩は腰を曲げて鎌を引きながらそう言う。
「つまり完了が14日でも、2日でも、バイト代は同じ。じゃあサボらずにさっさと済ませた方がいい、とこういうワケよ」
なるほどな、とMさんは思った。作業速度がそのまま仕事の旨味に結び付くわけか。
しかし現場に上役がいない、ってのはいいものだな……と思う。暑さはキツいが、縛られず監視されないバイトというのは気持ちがいい。
鎌を振るったり、草を袋に詰めたりを繰り返す。生えている草より、地面を這うツタのようなものの方が厄介だ。他の草に絡んでいて、時間がかかる。
気温は高いものの、三方の壁とマンションのおかげか日差しがキツくないのはありがたい。
しかしものすごく生えてんなぁ、雑草。俺の肩くらいまで大きくなっちゃってるのもあるし……
Mさんは草の匂いに包まれながらザクザクと切ってむしっていく。
……しかし、こんなになるまで放っておいていいのかな?
Mさんはマンションに目をやった。
そこには5階分のベランダが縦に伸びている。
この生え方だ、当然、1階のベランダは草に侵食されている。部屋によっては膝くらいまで。
窓からの眺めも相当に見苦しいはずだ。
Mさんは作業を続けるフリをしてさりげなく、ベランダに近づいてみた。
「……ん、あれっ?」
透かし見た一室、窓には薄いカーテンが引いてある。
部屋の中はからっぽだった。
家具もない。人の気配もない。
左右の部屋にも目をやる。どこも薄いカーテンが降りている。そういえば洗濯物のひとつも干されていない。
真夏。エアコンの室外機もひっそりして、動いていない。
……1階は全部の部屋が空いてるのか?
「ほらぁ、休むのが早い!」
背後から先輩に言われてはぁい、と返事をした。
取り繕うようにベランダの反対側、裏の敷地とこちらを仕切る壁のそばに移ってしゃがんだ。
しばらく鎌を振るって草と格闘した後、腰を伸ばそうとして立ち上がった。
ぐうっ、と伸びをした拍子に、壁のてっぺんに目が行った。
……単なる塀にしては、あまりにも高いような気がする。
「先輩~」
「なんだよお前マジメにやれよぉ。初日だぞ?」
「この塀っていうか壁、すっごい高いですけど」Mさんは壁を叩く。「この向こうってなんか、建物でもあるんですか?」
先輩は作業の手を止めた。
「そこの向こう? あーアレだよ、そこの裏はなんか、お寺の施設、みたいなのがあるよ」
寺の、施設?
曖昧な回答だったがMさんはさほど気にするでもなく、「寺だから……納骨堂かな」くらいの想像で終わった。
昼過ぎになった。
「アチーなぁおい。俺そろそろ休憩行くわぁ」
先輩が言うのでじゃあ自分も、をMさんが機材を置こうとすると、
「バッカお前、男二人で草刈りして、休憩も一緒って、一日べったりじゃねーか」
と言われた。
それもそうッスねぇ、とMさんは答える。1人の時間も欲しい。
「俺がまず1時間くらい休むから、その後でお前、休憩な。その順番でいいだろ?」
「いいッスよ。ここの坂の下にコンビニありましたけど、メシ買うのはあそこが一番近いですかね?」
「そうそう、俺も毎年あそこでメシと飲み物、買ってるんだわ。ってなワケで」
先輩は軍手を外して、汗を拭いた。
「じゃあ1時間後に戻るから。熱中症だけは気ぃつけてな」
「はぁい、わかりました」
先輩は例の、狭い通路へと歩いていく。
と、途中で足を止めた。
「あ……それからなぁ」こっちを振り向く。
「ひとりで作業中に、ここに住んでる人とトラブルになったら」
「……はい?」
「住んでる人と揉めたりしたら、必ず俺に報告してくれよな。絶対に」
そう言い残して、先輩は出ていった。
……住んでる人と、トラブルなぁ。
適当にペースを落としつつ、Mさんは考えた。
揉めるっつっても、でかい機械なんか動かしてないし、大きな声で喋ってるわけでもなし。
トラブルになる原因がないよな。
暑さの中しゃがんで、Mさんは草と格闘しながら考えを組み立てていく。
ちょっとした坂の途中にあるこのマンション。
裏庭らしきここは草も生やしっぱなしで、1階には入居者がいない。
しかも壁に囲まれていて、裏にはお寺的な建物がある。
立地条件はあまりよくない感じだ。
となると、ここは結構安いマンションなのかもしれない。
で、安いだけあってちょっと治安が良くないのかな。
ガラの悪い人が住んでいて、業者とトラブルになりやすいとか?
……やだなぁ~、怖いオッサンとかヤンキーみたいなのから怒鳴られたりしたら……
勝手にそんな想像をめぐらせていた時だった。
上の方から、視線を感じた。
はっと見上げると、マンションの上の階のベランダから人が身を乗り出していた。
こっちを見下ろしている。
4階、太陽光のせいか全身が黒く、性別や容姿はわからない。
一瞬驚いたものの、無視するわけにはいかない。
被っていた帽子のツバに手をやって、「あっ、どうも」といった具合に軽く頭を下げた。
向こうは動かない。
仕方なしにもう一度、「ご迷惑かけます」の意味を込めて深く頭を下げた。
目を当てられている感覚は消えなかったが、大声で挨拶するのもはばかられる。それこそ他の住人とのトラブルの元だ。
最後にまた軽く頭を下げて、足元の草へと視線を戻した。
しばらくザクザクやってから顔を上げると、人影は消えていた。
……今のは、トラブルかな? とMさんは考えた。
何も言われなかったし、こっちはわかりやすく会釈したし……まぁ大丈夫だろ、と思った。
しかし4階の人が草刈りに気づくなんてなぁ。ここ割と音が響くのかな……?
先輩が戻ってきたので、Mさんは入れ替わりに休憩をとった。
「はぁ~ハラへったぁ」
強さを増す日光、暑さ、それに空腹感のせいで、裏の寺のことも4階の住人のこともすっかり忘れていた。
休憩明けの午後、作業をはじめて少し経ったときのことだった。
無駄口を叩くだけでも体力を消耗するので、先輩とMさん共に黙々と草を刈っていると。
壁の裏。
「お寺の施設」があるという壁の向こう側から、
ぽん。
とんとんとん、とん……
なにかが弾むような音がした。
ぽん。
とんとんとん、とん……
……ボールかな?
Mさんの頭には、ゴムでできたボールが思い浮かぶ。
幼稚園児くらいの子供が遊びそうな、やわらかいボールだ。
空気が入りきっていなくて、ふにゃふにゃしている。
「お寺の施設」の中庭みたいな場所で遊んでいる子供が、ボールを壁に投げる。
壁に当たる。
ぽん。
ふにゃふにゃのボールはあまり弾まず、ほとんど転がるようにして子供の足元に戻ってくる。
とんとんとん、とん……
子供が拾い上げて、また投げる。
ぽん。
戻ってくる。
とんとんとん、とん……
そういった平和な光景がMさんの中で再生された。
……しかし、同じことばっかりやってるなぁ。
壁の向こうの子供は、他の遊びをするつもりがないようだった。
いつまでも ぽん。とんとんとん、とん…… を繰り返して、飽きることがないようだった。
ボールひとつあればもうちょい、他のこともできそうだけどなぁ。たとえば……
あ~ダメだな。暑すぎて何も思い浮かばん。
ぽん。
とんとんとん、とん……
その音は日が傾いて、夕方の涼しさが来る時間帯まで延々と続いた。
草との格闘と暑さにばかり気持ちがいって、Mさんは壁の向こうの音についてそれ以上考えなかった。
太陽が赤くなってきた頃、知らないうちにボールの音は止んでいた。
一日目はそのように、見かけは平穏無事に終わった。
Mさんは汗だらけでくたびれた体を引きずって、家へと帰った。
二日目のことである。
空には雲ひとつない。昨日並みに暑い。
遠く抜けるような青空の下、Mさんと先輩は淡々と草を処理していく。
今日ははじめた直後から、壁の向こうでボールの弾む音がしていた。
昨日から刈って、むしっていた草がかなりの量になっていた。
緑でいっぱいのビニール袋が壁際にたくさん積んである。
「これ、このまま置いてあると邪魔だなぁ」鎌を下ろして先輩が言った。
「外に出しちゃうか。通路の外に積んでおくと持ってってくれるんだわ。あの、台車どこやったっけ?」
「へ? 台車、ありましたっけ?」
Mさんは前後左右を確かめる。
「ないッスよ、台車とか」
「えーマジで? ……管理人さん出し忘れたのかなぁ。面倒くせぇなぁ」
「えっじゃあこのゴミ袋、両手で二つずつ持って運ばなきゃダメですか?」
ただでさえ草むしりで大変なのに、仕事が増えるのは勘弁してほしい。
それは先輩も同様なようだった。
「いやー無理無理。へばっちゃうよ。えーっとどうしようかな。M、お前さ」
先輩はポケットからキーホルダーを取り出した。
「ほらこれ。よっ、と」
Mさんに放ってよこす。
「このマンションの5階に、用具入れがあるんだわ」
先輩はエレベーターから用具入れまでの道順を話す。
「で、これが、」Mさんが下げてみせる。「そこの鍵ですか」
「そうそう。お前5階まで行ってさ、台車、押してきてよ」
慣れない仕事に二日目にしてバテ気味だったMさんにはちょうどいい「休憩」だった。
わかりましたぁ、と返して、狭い通路を抜けてマンションの正面へと向かう。
自動ドアが開いた。
マンションの中はしん、と静かだった。
外の蝉の声、草刈りの音、ボールがとんとん弾む音が一気に聞こえなくなったので、余計に静かに感じる。
エレベーターに乗る。5階を押す。
どの階にも止まることなく、箱は最上階まで上がっていった。
ドアが開く。ここも静かだった。
教えられた道順を辿ると、それらしい扉があった。
鍵を開けると日常の掃除用具やバケツ、隅に台車が押し込めてある。
出して、畳んであった取っ手部分を立てる。
よっと、と呟いて押しはじめた。
ガラガラと押しながら、廊下の前後を見渡す。
屋内に入ってからずっと、人の気配がない。
Mさんはエレベーターの手前まで来た。
何気なく向こうを見やると、廊下の先に大きな窓があるのを発見した。防災用の窓だろうか。
ええっとあそこからこう来て、この位置、ということは……
あの窓はちょうど、自分たちが作業している場所の真上に当たる。
……見てみよっかな?
Mさんは台車を寄せておいて、廊下の先に足を向けた。
窓に着いた。ぴったりと貼りついて、首をウーン、と曲げる。
視界の下の隅ギリギリで、「裏庭」が見下ろせた。
緑色の草地の中、先輩が道具を握ってよいしょとばかりに頑張っている。
「いやぁ先輩、暑い中大変だなぁ~」と、数分後にはそこに戻らねばならないことはさておいて呟く。
「あ、そうだ」
Mさんは眼下から、遠くへと視線を転じた。
ここは5階である。この高さなら、例の壁の向こうも見下ろせるはずだ。
子供がボールで遊んでいる、寺の施設とかいう壁の向こうの建物……。
「……は? え?」
Mさんは困惑した。
お寺の施設、と説明されていたそれは、建物ではなかった。
壁の向こうには、まず屋根がない。
四方が完全にコンクリートの壁で囲まれた「空間」だった。
打ちっぱなしの灰色の壁が、東西南北をふさいでいる。地面もコンクリートを流して固めただけだ。
蓋のない箱のように見えた。
その真ん中に、ずんぐりと大きなものがあった。
丸い岩だった。
コンクリートの床が、そこだけ楕円に切り抜かれたようになっている。
Mさんは首を左右に振った。
壁の端に小さなドアのようなものがあるが、ぴったりと閉ざされている。
壁の上、部分的に金網がしつらえてある。
人が簡単に入れないようにしてあるし、誰も覗けないようにしてある。
あの岩を閉じ込めておくための、誰も知らない空間。
理由もなく直感的に、そのように思った。
Mさんはぞわぞわするものを感じた。
存在意義のわかる建物や空間ならいい。たとえば荒れ果てたお墓でも、朽ちた石碑でも。
しかし、岩を囲っているだけだ。
なんの意味があるのだろう?
足早に窓を離れて台車を押し、エレベーターに乗って1階へと降りた。
戻ってすぐ、先輩に尋ねる気にはならなかった。
聞き方も難しい。「お前、覗きとかよくねーぞ」などと叱られる気がする。
どう聞こうか思案しながら袋を運んだり、草刈りを再開したりする。
ぽん。
とんとんとん、とん……
壁の向こうからは相変わらず、あのボールの音が響いてくる。
……入れない、よな? ここの壁の向こう……
子供が忍び込める穴でも開いているのだろうか。
いや、それ以前にこの子供、えらく静かだな。
子供ならもっとキャッキャとはしゃいだり、「わぁー」とか「よいしょ」くらい、言うよな?
夕方になるとフッと聞こえなくなるし、親が迎えに来たようなやりとりも聞こえない……
何か……変だな……
昼過ぎになり2人ともくたびれてきた頃合に、Mさんは先輩にさりげなく声をかけた。
「先輩、ここの向こうって、」壁を指さす。「お寺の、施設でしたっけ?」
「おぉ、そうそう。俺も詳しくは知らないんだけどさ」
「施設、ってなんか、納骨堂とかそういうんですかね?」
自然に聞けたと思った。先輩も不審そうな顔にならず、こう答えた。
「あ~何だっけなぁ。昔の、墓石みたいなのがあって、そのままにしてるらしいよ」
昔の、墓石?
あの大きな岩ひとつが?
……そんなわけないだろ……?
この二日で、嫌なことをいくつも見聞きしている。
とは言え、無視しておけば単なる「割のいい短期バイト」のままだ。
院生にはありがたいくらいのバイト代が貰えるのだ。
Mさんは腹の底に疑念をしまいこんで、余計なことは考えないようにしながら、緑あざやかな雑草を刈っていくのに没頭した。
断続的に聞こえる ぽん。とんとん…… は完全に無視しようと心に決めた。
何も考えず、何も調べない。これで一週間、あと5日を乗り越えようと固く誓った。
そのようにして、二日目も終わった。
作業に没頭していたおかげか、終わり頃には裏の空間やボールのことなどは「とにかくそういうこと」として呑み込めていた。
「いやぁお疲れ……」先輩は日焼けのある顔でMさんの肩を叩く。
「今日も暑かったッスね……」
「お前スジがいいなぁ。今までの誰よりも順調だわ。ホントに一週間で終わりそうだ」
「え~、一週間で終わるってウソだったんですかぁ?」
「いやいやまぁ、な? でもマジで順調だよ。他の奴らとやった時はもっとかかってたし……」
などと言い合いつつ、先輩は道具を壁際に立てて簡単に片付けている。
ふと、上の方からまた視線を感じた。
見上げる。
また、ベランダから住人が身をぐっと乗り出している。
今日も光の加減か、よく見えない。
先輩は壁を向いて道具を並べているので、気づいていない様子だ。
Mさんは昨日と同じように「あ、どうも。今日は終わりましたよ」といった手つきで帽子のツバをつまんだ。
ベランダの住人は夕暮れの影の中、身動きひとつしなかった。
帰途、Mさんはあることに気づいた。
……今日の住人、別の階の人だったな……。
昨日は4階のベランダだった。これは間違いない。
しかし今日の人はひとつ下、3階からこっちを見下ろしていたような気がする。
別の人、だったのかな?
昨日の人物のシルエットは思い出せなかった。
とは言えMさんは疲れていたし、深く考えまいと心に決めていたので、ベランダの人物のことは頭の中から追い出してしまった。
Mさんは実家住まい、父親母親、それに妹との4人家族である。
主婦のお母さんと夏休み中の妹は家にいた。父親は仕事、夕方なのでまだ帰っていない。
「ただいまぁ~、いやあ疲れたぁ」
Mさんが玄関で言うと、おかえりなさいと母親が出迎えた。
「来る頃かと思ってね、お風呂わかしておいたから。汗すごいでしょ?」
「うおーありがたい……」
靴を脱いで居間に向かう。
「じゃあ一番風呂、もらっちゃうかぁ」
居間には妹がいた。彼女はMさんの言葉を聞いて立ち上がった。
「えーっヤダ。私最初に入る」
「なに言ってんだよ、俺は汗水流してきた労働者だぞお前? スッキリさせてくれよ」
「えーっだってぇ……」と妹さんは口ごもった。「言っていいのかな、これ」
「何がだよ」
「昨日、お兄ちゃんが先に入って、次に私だったでしょ?」
「そうだっけ? まあいいや、で?」
「お兄ちゃんが入った後だとさぁ、なんか、くっさいんだよね」
Mさんはえっ……と呟いた。
「お前……人間に向かって『臭い』って言うのは、心へのダメージが大きいんだぞ?」
「いや違うくて」妹さんは手を振る。
「前からじゃなくて昨日だけ。なんか、何? ヘドロ? みたいな臭いがしたんだよね」
「ヘドロぉ?」
そこに母親が入ってきた。
「あぁそういえばあんたの服ね、確かにそういう臭い、するんだけどね」
短期のバイトで、そういう大変な作業してるのかなって思って。
川さらいとか側溝の掃除とか、そういうのを頑張ってるんでしょ?
頑張ってる人に「臭い」って言うのも悪いなぁ、って……
けど服に染みつくまで働いてねぇ。バイトとは言え偉いもんだわ、あんた。
妹と母親に言われたMさんは、当惑した。
「いや……バイトは、そういう水回りの掃除じゃないんだけど。庭の草むしり……」
「え? でも川とか沼とかの近くでしょ?」
「いや町中で、水気とかはない所だけど……」
「じゃあ、どうしてそんな臭いが体につくの?」
Mさんはその問いに答えることはできなかった。
【つづく】
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