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ひぐらしのうた

ここ数ヶ月、ずっとぐるぐる渦巻いていた。同時多発的に想像もできないことが沢山起こってゴッホの星月夜の景色が毎日頭の中でうねるように呼び起こされた。
結婚式というのは、普段会えない人たちと顔を合わせる特別なイベントだと思っていたけどお葬式もさほど変わらない機会に思えた。こんな時にしか顔を合わせない親戚が大勢集まって同じ気持ちを共有するなんて皮肉だと思った。それなのに何故か琴線に触れる底知れない安堵を、冷房が効きすぎた葬儀場で何度も抱きしめていた。この気持ちがどこから湧き上がってくるのか最後まで分からなかった。
「西の魔女が死んだ」なんて物語の中の話だけだと鷹を括っていたのだと思う。大変だったことや苦しかったことはなくなるはずはないのに、ずっとその日が来ることから逃げていた。

祖母は亡くなった。

お葬式が終わってみれば本当にあっけなかったけれど、まだそこに居るような祖母の名残を未だに探し続けている気がする。
祖母が夢に出てきた日。四十九日の法要が終わって初めてのことで、祖母が入院してからこれまでの日々をすこし思い出してしまった。夢の中で彼女はとても元気そうだった。祖母についてここに書けることはあまりない。というかありすぎてどれも書くに至らない。しまっておきたい大事な思い出もたくさんあるから。ただ、私たちは仲良しだった。本当にそれだけのことで、それだけで十分だった。
高校の音楽の先生が教えてくれたことには、「ハモリ」は聖歌から生まれたらしい。最初は読経するのと同様、全員同じ旋律だったのが、複数のパートに分かれて音や声の組み合わせによるハモリが誕生したということだと、たしかそういうことだったはずだ。小さい頃から家族と仏前でお経を唱えてきたわたしだから、その意味がわかる気がした。同じ念仏を同じ抑揚で読んでいるはずでも、図らずもパート分けされている瞬間を感じることがあった。誰かの低い声と高い声、幼い声、老いた声、そういうのが混ざって妙な和音に感じられることがある。それは胸の奥を焦がすようなジリジリした地響きであり、線香や畳の匂いであり、読経本の文字を追うわたしのまなざしであった。
葬儀の間、お経を何度も読み上げるとき、やけにぼーっとしてしまって、ずっとそのハモリ理論のことを思い出していた。
遺族でお経を読むという、傷跡みたいな不協和音が音楽の心地よさの源なのかもしれなくて、ひとが死ぬとき、これからの思い出を掻っ攫う代わりに、声の重なりとか数珠がぶつかる音とかそういう目に見えないもので残されたひと同士をつなぎ止めておいてくれるのかもしれない。そうだと思いたいだけかもしれない。私が会いに行ったのが最後の1人だったということを、みんな同じ残された者だと一括りにすることで何とか正当化したいだけかもしれない。

わたしはたぶん、お通夜の次の日の早朝、ひぐらしの声が山いっぱいに響き渡っておそろしかったのをこの先ずっと忘れない。たぶん、祖母は少し寂しかったんだと思う。わたしも寂しかったから。

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