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生まれた街で
僕は1972年に、
東京の武蔵村山というところで生まれた。
武蔵村山というところは、
今も昔も都内で1、2を争う辺鄙な街で、
電車は1本も走っておらず、
僕が住んでいた頃には、
バスが唯一の交通機関だった。
父親は公務員をしていて、
バスで西武新宿線の小平駅か、
国鉄の立川駅まで出、出勤していた。
当時のことは、勿論断片的に憶えてるだけだ。
最近立川へ寄る何度か機会があって、
JR立川駅周辺や玉川上水の周辺を歩きながら、
どうにも懐かしい気持になった。
それで両親に聞くと、
小さな頃に父親の自転車に乗せられて、
立川や福生、玉川上水まで
よく散歩に出掛けてたんだと話してくれた。
ひょっとしたら、大滝詠一とも
擦れ違ってたかもしれないなぁ。
昭和記念公園に行った記憶はなくて、
それもそのはずで、
1983年・・僕が新宿に住んでた時に、
米軍の立川基地の一部を潰して
開園したものだった。
断片的ながら、割と印象的なことは
幾つか憶えている。
僕の住んでいた団地の近くに、
芝生の生えた原っぱがあり、
四葉牛乳の販売所が設営されていた。
僕は牛乳は嫌いで飲めなかったけど、
なぜか四葉牛乳のヨーグルトが好きで、
「そんなに食べたきゃ、
自分で買ってきなさい」と、
母親にお金と買い物籠を渡され、
「はじめてのおつかい」よろしく、
ヨタヨタとヨーグルトを買いに行っていた。
その原っぱを挟んだ真向かいには
別の団地が建っており、
そこには母親の大分時代の友人が住んでいた。
ウェーブの掛かった肩まである髪、
デニムか、フォークロア調の
ロング・スカートを履いて、
ブラウスとベストを組み合わせた
レイヤード・スタイルが多かった。
その人とは、後に新宿へ越した時に再会した。
それとあの頃、ゴミ収集車の作業を
眺めるのが好きだった。
父親が出勤すると大抵、
僕は母親と近所を散歩していて、
ゴミ収集車に出逢う。
当時のゴミ収集車は
クレーンのついたダンプカーで、
コンテナを持ち上げて
荷台にバラバラと落としていく。
その過程を眺めるのが、なぜか好きだった。
僕はそこに4歳まで暮らしていた。
団地脇のフェンスの向こうに幼稚園があり、
5歳になったら幼稚園に通うのが分かっていたから、
「来年になったら、あそこに通うんだね」などと
母親に訊き、
母親も「そうだよ」と応えていた。
しかしそうはならなかった。
1977年が明けてすぐに、
一家は新宿へ引っ越したんだ。
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