ドン久保田はなぜベーシストなのか。
もう1月も下旬ですが、
2021年、あけましておめでとうございます。
昨年は世界的な疫禍に襲われた一年ですが、
今年も年始から大荒れの模様。
まずは皆さまの息災を心よりお祈り申し上げます。
ぴあ総研によると、2020年の国内エンタメ産業、イベント興行収益は前年に比べて8割減(!?)になるそうです。
業界内では感染リスクを最大限に減らすなどしか、収益回復に向けての対策は取れないのが現状です。
出来ることは限られてきますが、場を、市場を奪われたからこそ得られる「気づき」もあると思っています。
エンタメは表現活動を主とします。
表現活動は人間の、個人の思想、信条、志向など主観的な世界、内省に依拠する行為だと思います。
実際の世界が閉じられたのなら、それはきっとチャンスです。
自分の中に広がる無限の世界をもう一度覗いてみればよい!
なんてね。
とにかく、いち早く収束に向かって行くことを祈るばかりです。
閑話休題。
今日は、ベーシスト、ドン久保田としての自分と向き合ってみようと思います。
私は10代の頃からベーシストとして活動してきました。
その都度、サウンドエンジニアや作編曲など、様々な音楽的職能を生業に取り入れてきましたが、一貫しているのはベーシストであるということです。
かれこれ30年近くベースという楽器を弾き続けています。
大人になって読み返して愕然としたのですが、
小学校の卒業文集で、すでに将来の夢は「ベーシスト」と書いていました。
「ぼくは音楽がすきです。ロックがすきです。ロックバンドの中でベースが一番地味で、何をやっているのかわからないです。だから、ぼくはベーシストになってボーカルやギターよりベースがかっこいいロックをやりたい.......」云々。
いやはや、妙なガキです。
しかし、
なぜ、ベースなのか?
ハッキリとした理由は思い出せません。
決して、音楽的な理由や、低音に対するフェティシズムがあったからではないと思います。
私は根っからの天の邪鬼です。
これは幼い頃から変わらない質なのでしょう。
多分、本当に「地味」であるというところに惹かれてしまったのでしょう。
音楽的にベースというパートに対する理解や共感よりも、
社会的な立ち位置(過小評価)から興味を覚えたドン少年。
幸いなことに、
自分が選択したベースというパートの音楽的な意味や意義から、
大きな学びを受けることになります。
ベース(Bass)というのは、最低音という意味です。
音楽的には土台、基礎。
最低音を担う音階は、その楽曲の調性を担います。
今風に言い換えれば、
音楽アンサンブル界におけるエッセンシャルワーカーとでも言いましょうか。
音楽は「時間藝術」です。
空気と時間の流れをキャンバスとする表現フォームです。
もう一つ、アンサンブル界におけるエッセンシャルワーカーといえば、「リズム」を担うドラムなどの打楽器パートかもしれません。
音楽の三大要素は「リズム」「メロディ」「ハーモニー」です。
その中の2つ、「リズム」と「ハーモニー」を同時に担うのがベースというパートです。
エッセンシャルワーカーでもあるし、「リズム」と「ハーモニー」を繋ぐ中間管理職でもある。
実際のフォーマットとしては、
最低音部で奏でる旋律、つまり「メロディー」でもある。
打楽器のほとんどが音価(音の長さ)をコントロールできません。
(ティンパニ、スルド、タブラなど例外もたくさんあります。あしからず)
ここでは時間を点で刻むのがリズムとします。
その点と点の間を音価で表現するのが、ベースの役割だと言えるのかも知れません。
私の感覚では、リズムの点と点の間、一拍目と二拍目の間、もっと大きな一小節や二小節の間に、リズムの「フロー」のようなものを感じます。
これまた私の感覚では、この「フロー」は波に感じられます。
海の波です。潮流です。Tideです。
もしくは、砂浜の波打ち際を想像してもらえたら良いと思います。
この「フロー」をさざ波にするか、大波にするか、凪にするか。
ベースを演奏する醍醐味はそこにあると思っています。
これはGrooveとほぼ同義であると言えるでしょう。
(Grooveとは何ぞや?という詳しい話はまたの機会に)
注釈、あくまでも私の個人的な感覚なので、異論は受け付けません。
リズムの「フロー」=Grooveを奏でる。
と同時に調性(ハーモニーの基礎)を担う。
リズムでもあり、ハーモニーでもあり、奏でる音は旋律(メロディー)でもある。
低音のエネルギーは強大です。
音としての強度もありますが、
実際に発音するのにかかるエネルギーも膨大です。
低音は発音するのに大きなカロリーを消費します。
体力を使うというより、相対的に消費するエネルギーが大きいという意味です。
必然的に、質的にも量的にも一音の重みが大きいパートです。
影響力が大きい分、独善的ではアンサンブルが成立しません。
そう、各方面の顔色を伺いつつ、アンサンブルの舵取りをする、中間管理職にならざるを得ません。
音楽と人間関係、アンサンブルと実社会を同次元で語るのはナンセンスかもしれませんが、「ハーモニー」とは「調和」です。
話は変わりますが、
私は落語ファンです。
上方なら桂米朝師匠、江戸なら柳屋(柳屋さん喬師匠が好き!)と、
ベーシストになっていなかったら噺家になりたかったと思っているくらいです。
落語にはよく「粋だねぇ」なんて台詞が出てきます。
「粋」なんて価値観、雰囲気はわかるものの、なかなか言語化できない感覚だと思っていました。
最近、「粋」というのはつまり「思いやり」の事なのではないかという文章を読みました。納得です。
話を戻します。
つまり、「調和」をとるには「粋」が必要なのです。
なぜ、私がベースを選択したのか、未だに自分でもよくわかりません。
特に深い意味などないような気がしてなりません。
本当にベースが好きなのか..........
正直言って、実は自信がありません。笑
気がついたら、ベースと共に長い時間を過ごしていました。
好きか、嫌いかでは語り得ない、
沢山の事を学ばせてもらってきた気がします。
ベースを弾き、ベースと向き合っているつもりが、
結局は自分自身と向き合い続けてきたような気がします。
ベースを弾き続けてきたことによって、
多くの学びを得ました。
「調和」のためには「粋」である必要がある。
Groove & Love !!