3-08「『作者』を編集する ―J.G.バラードの『自伝三部作』」
7人の読書好きによる、連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。
前回は屋上屋稔の「ミナミのマリリン・モンロー」でした。
【杣道に関して】
https://note.com/somamichi_center/n/nade6c4e8b18e
【前回までの杣道】
3-06「収集家たち」/蒜山目賀田
3-07「ミナミのマリリン・モンロー」/屋上屋稔
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1. 作者は死ななかった
評論家ロラン・バルトによる1968年の文章「作者の死」は、それまでの「作者」のイメージを覆し、その後の文芸評論に大きな影響を与えた。「作者」は、作品を所有もコントロールもしていないし、作品の唯一の帰属先ではない。よって批評もまた、作品に隠された作者の意図を見つけ出す営みではない。この論によって、作品は「作者の意図」という単一のメッセージから解放され、読者による多用な解釈の可能性へとひらかれる。
例を挙げてみよう。カフカの「変身」を、彼自身の保健局での勤務体験から「官僚社会の抑圧」と見ること。「新世紀エヴァンゲリオン」の結末を「内向的な少年が成長することの象徴」へ還元すること。これらの解釈を「論証」するために、「作者」の体験や発言を収集し引用すること…これらは「作者」が作品の単一の意味を絶対的に決定している、という前提に基づいている。しかしバルトは、むしろ作品=テクストが発表され、そこから遡及的に「作者」が作られていくと論じ、作者の絶対性を切り崩してみせた。
こうして現在につながる「テクスト論」が出発し、文芸批評は新しい段階に入る、とバルトは予見する。ところが「作者」はそう簡単には死ななかった。「作者」概念は近代の「独立した個人」と結びついているし、もっと卑近なところでは著作権や、作品が「商品」となることを通じて資本主義とも関わっている。そしてまた一方に、「わかりたい」という読者の欲望がある。これについて、哲学者フーコーはバルトの論の直後、1969年に、「文学上の匿名性はわれわれには耐えられないのです。われわれはそれを謎というかたちでしか容認しないのです」と述べている。
日本の文学をめぐる状況を考えると、死ぬどころか、「作者」の概念は様々な形で延命されている。太宰治はじめ、作者のこころや世界の見方を焦点に据えた私小説の流れ。大江健三郎は知的障害者の息子との「個人的な体験」を繰り返し描き、村上春樹の最新短編集『一人称単数』では、語り手の「僕」=作者であることが繰り返し示される。「当時の僕は小説家になるつもりなんてまるでなかった」(「石のまくらに」)
メディアの変化やインターネットの登場もこれを後押しする。いまや作者はTwitterやFacebookでひっきりなしにつぶやき、イベントやインタビューに登場し、自身の作品について語り続け、それはファンたちによって集積され、そこから「作者の意図」の解釈をめぐった二次的な文章が溢れている。
こうした「作者」をめぐる状況において、独特の戦略を取った作家がいる。イギリスの作家、J.G.バラードだ。
2. J.G.バラードの戦略
バラードの日本での知名度はまちまちで、「SF作家」として紹介されることがある。短編ではSFが多いが、長編小説ではSF的作品は初期の5年ほどに集中しており、その後の40年ではほとんど書かれていない。映画化作品では、スピルバーグが監督し、クリスチャン・ベールが13歳で初主演した『太陽の帝国』や、2016年に公開された『ハイ・ライズ』等がある。
バラードの長編作品は、類似したテーマを持つ作品が「3部作」として紹介されることが多い。地球滅亡とその後を描いた初期の「破滅三部作」、都市機能を題材にした中期の「テクノロジー三部作」、大衆心理を描いた後期の「病理社会の心理学三部作」。
ここで論じるのは「自伝三部作」…という括りは僕が勝手に設定したものだが、「自伝的小説」と呼ばれる『太陽の帝国』と『女たちのやさしさ』の2作に、『人生の奇跡 J・G・バラード自伝』を合わせた三冊。
『太陽の帝国』は、バラードの少年時代、第二次大戦時の上海での経験を描いたもの。そして『女たちのやさしさ』では、少年期から作家となり、老年に差し掛かるまでを描いている。二度描かれる上海での体験は、この二つの作品で大きく異なっている。『太陽の帝国』のクライマックスで印象的に登場し、「破滅三部作」のビジョンを予感させる「原爆の光」は、『女たちのやさしさ』には全く言及されなり。代わりに登場する「駅で惨殺される中国人」が、その後の「テクノロジー三部作」の作品に影響を与えたことが明示される。
ふつう、「自伝的小説」といえば、実際に起きた出来事=自伝を物語的に、ドラマティックに脚色する小説、という形式を思い浮かべるだろう。だがバラードの場合は目的がこの逆に、小説のために、自伝を利用して自身の人生と作品の両方を「編集」しようとする意図に満ちている。例えば『女たちのやさしさ』の中で、「自動車事故に性欲を感じる」というとりわけ奇妙な設定の小説『クラッシュ』は、妄想ではなく、自身の事故の体験をもとにしたノンフィクション的なものと示される。あるいは、彼の妻は現実では「スペイン風邪」で亡くなるのだが、小説中ではスペインでの転倒事故で死ぬ。その喪失感の中で、彼は彼女の姉と一度切りのセックスをする…のだが、「自伝にそんなことを書く必然性がない」と気づいた瞬間、もはや何が真実なのか、というよりも「なんのための自伝なのか」が分からなくなる。自伝以外にも、彼の作品には同名の人物が繰り返し登場する。これが自伝的小説と結び合わされると、まるで彼の全ての作品が一つの巨大な自伝であるかのようにも見えてくる。
バラードはこの「自伝的小説」を用い、自分の人生を「編集」することによって、それを小説群と強固に結びつける。そこでは作品の「種明かし」とも言えそうな自己解釈が行われているが、同時に複数の「自伝的小説」を書くことで、その「人生」自体が編集されたものであることも示す。そしてまた、そこから浮かび上がる、虚構―現実、意味―無意味のメタ構造は、後期のバラード作品の大きなテーマにもなっている。
バルトが論じた「作者が死んで誕生する読者」が最初にしたことは、その死=意味の不定に耐えきれず、作者を墓場から呼び戻すことだった。バルトはおそらく、この読者による欲望を軽くみつもっていた。バラードはその欲望を逆手にとって、いわば、作者の蘇生と再びの殺害を同時にやってのけた。
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次週は4/4(日)更新予定。お楽しみに!