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『The Last of Us Part II』考察・感想 ― 復讐心の憑依・呪術としてのゲーム

※作品の重大なネタバレを含みます。ゲームを未プレイ・未クリアの方はご了承の上お読みください。

1 呪術としてのゲーム

 公式サイトに「復讐を求めるエリーの無慈悲な旅」「凄惨な連鎖」とあるように、今作のテーマは「復讐・報復の連鎖」と考えて間違いはない。ただしそれは、客観的な復讐の物語を語ることではなく、「プレイヤーに復讐心を内面化してもらう」こと、復讐心に憑りつかれるというのはどういうことかという内面・主観的な部分に最大限フォーカスしている。

 僕が大学で学んでいた文化人類学では、「憑りつかれる」という状態がしばしば語られる。「憑依」や「呪術」という語からは迷信のようなイメージが浮かぶが、その実際は非常に心理的なプロセス。精霊や神をシンボルとして用い、ある物事が頭を離れないようにする、折に触れそれが付きまとう、という精神状況を作り出し、相手をコントロールする方法。現代においても、被害妄想のような深刻なものから、例えば友人からの悪口を聴いたとき、あるいは恋愛感情で、多かれ少なかれこうした「感情に付きまとわれる」経験を誰もがしているかと思う。『The Last of Us Part II』(以下「今作」)は、プレイヤー本人にこうした「復讐心の憑依」を目的とした呪術をかける。具体的には、プレイする手を止めてベッドに入った後も、ゲームのことを思い出し眠れなくなってしまうといった、ネガティブな体験を目指しているように思える。

 ストーリー中でも、明確にこうしたトラウマ状態が描かれる。アビーは父親の死の場面を繰り返し夢に見る。エリーがジョエルの死のフラッシュバックを見るのはラスト近くの農場のシーンのみだが、例えばノラと対峙したときの「今も叫び声にうなされる?」というセリフがトラウマの反復を暗示している。(英文には still …「今も・まだ」の語がある)

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 この復讐心はエリーとアビーを苦しめるだけでなく、愛するという行為、ひいては未来そのものを奪ってしまう。アビー編過去、水族館でオーウェンの愛を受け入れられなかったシーンと、農場でエリーがディーナの愛を感じながら再び復讐へと向かうシーンは相似形となっている。ジェシーと共にトミーを助けに行くシーンはさらに明確で、出発前に「アビーは諦めトミーを助けてジャクソンに戻ろう」と口で言いながら、選択を迫られた際にエリーは迷うことなく復讐を優先している。ここでは、理性が感情=復讐心に完全に従属してしまっている。「なぜ復讐を行うのか?」「復讐は何も生み出さない」といった定型句には意味がない。復讐を果たさなければ二人には未来はない。

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 陰鬱な今作には、前作にあったようなユーモアが非常に少ない。前作には例えば印象的な「キリン」のシーンがあるが、今作は博物館の回想シーンに頼るしかなかった。ジョエルの死後、エリーが笑うシーンは皆無で、ディーナの前でギターを弾くシーンでわずかに微笑む程度。任務に没頭し、復讐を果たした後にも父の死の映像が止まないアビーにも笑いは見られない。彼女がようやく本心から笑えるのは、ヤーラの治療を終え彼女と微笑み交わす場面。ここにたどり着くまでプレイ時間はゆうに20時間を超えている。

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2 システム化された復讐心喚起装置

 ゲームのシステム自体もこうした「復讐心の憑依」を強化しているように思える。 ①ストーリーと戦闘パートがシームレスに繋がっていて、なかなか区切りがつかない。あと1場面だけプレイしよう、と思っていたところ数時間もの戦闘を継続させられ、プレーヤー自身の身体がへとへとに消耗し、判断力を引き下げたところで、暴力シーンのムービーが心に深く差し込んでくる。(※この点から、難易度はHARD、できればsurvivorでプレイすることをお勧め。プレイでの苦しみそれ自体がストーリーの語りと結びついているから) 

 ②暴力の引き金をプレイヤーの手に渡す。以前『デス・ストランディング』の感想でも書いたが、単にゲーム的に敵を倒するのではなく、例えばFF7やメタルギアVでも、明確に「殺すためだけにボタンを押す」というシーンが存在する。今作はさらに一歩進み、ノラを拷問するために繰り返しボタンを押させ、ラストバトルではアビーの首を絞め、溺れさせるためにボタンを連打することが求められる。(これは半分冗談だが、もしPS4のコントローラーにリングコンのような「締め付ける」動作を受け付ける仕組みがあれば、首を絞めるシーンでそれが要求されただろう。FPS/TPSで銃を発射するボタンが、引き金と同様、人差し指のRボタンに割り当てられているように)

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 ③シームレスさ、ということで印象的だったのが、エリーパートで殺される病院地下のアジア系の女性と、水族館で殺される軍用犬。犬の殺害後、エリーは戦闘シーン同様「stupid dog!」と悪態を付くが、アビーパートで、この犬にはアリスという名前がある存在であることが明かされる。アジア系の女性もアビー編で再登場し、その死の直前に話しあう様子が描かれる。この1人と1匹は、ジャクソンでのジョエルの死には全く関わりがない。ムービーと戦闘がシームレスにつながっているがゆえに、実際にはイベントとして殺されるこの二人の死にも、プレイヤーである自分の責任が発生してるような錯覚を抱かされた。同時に、ゲーム中で殺してきたすべての敵兵士(あるいは犬)、その一人一人に物語があるということが押し寄せてくる。今作では敵兵全員に名前があり、誰かを殺すと味方がその名前を呼ぶ、というシステムが採用されている。現実の9.11テロ・メモリアル博物館にある、被害者一人一人のパーソナル・ライフを表示するデータベースを思い出させる。

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3 復讐の果てに

 では、今作の目的は、プレイヤーを怒りと暴力とトラウマの奈落に突き落とすことだけなのか。その果てには何があるのか、というと、これには明確に答えが与えられており、それは前作『The Last of Us』で既に語られている。物語の中盤、アビーが主人公として登場すると、最初は単なる相対化の試みか…と違和感を感じた。しかし「守るべき存在」としてのレブ(とヤーラ)が登場すると、その物語構造が前作のジョエル-エリーと同型だと気づく。アビー編では前作を思わせるシーンが随所にあり、ロープに吊られたアビーをレブが助ける出会いのシーンからしても、前作のジムの罠にかかったジョエルを思わせる。スナイパーとの対決。ヤーラを抱きかかえ移動するシーン。治療薬の探索。何よりも、最初はぎこちないレブとの交流。

 「復讐」というテーマだけを見ると、実は前作でも語られている。ジョエルが「ハンター」と呼ばれるグループのメンバーを撃退した後、雪山でエリーは、仲間を殺した男を探すデビッド=復讐者に出会う。エリーに「最低の人間」と言われ醜く描かれるデビッドだが、今作ではエリーがその最低の存在へと変貌していく。ラストバトルでの醜さは衝撃的だ。アビー編のラスボスとして登場するエリーとは、前作のデビッドとの対決シーンによく似た1対1のステルス戦で戦うことになる。

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 他者を守るという行為によって、娘=未来を失ったジョエルが救われたように、アビーもまたヤーラとレブを守ろうとすることで自らも救われる。ヤーラの命を救った夜、悪夢の中の父親は初めて微笑みを見せる。直接的には語られないが、アビーのジョエル/エリーへの怒りへの背景の一つは、「私ならば世界のために命を差し出した」という思いが見える。しかし、サンタバーバラで出会ったアビーは、仮にレブの命で世界が救われるとしても、おそらくジョエルと同じ行動を取っただろう。この『The Last of Us』での決断が、『The Last of Us Part II』を悲劇的な結末からすくい上げる。

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 他者こそが救いに他ならない、というこの構図は、前作の影響元の一つとして挙げられる『ザ・ロード』の一節を思い出させた。

「彼は少年を抱いていた。ひどく細い身体だった。お前はおれの心だ、と彼はいった。おれの心だ。だが彼は仮に自分がいい父親だとしてもそれでも彼女のいったとおりかもしれないと知っていた。彼と死の間に立ちはだかっているのは少年だけだということを」
コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』

4 犬、子ども兵、無垢なる存在を殺すということ

 ここからは別の話。今作発売前に、ゲーム内の敵として「犬」が登場することが分かり、これを殺さなければならないのか、という議論が起こった。もちろん愛犬家であったり、動物愛護的な視点としてのみ見ることもできそうだけど、例えばこの犬を「子ども兵」に置き換えてみるとどうか。10歳程度の少年少女の姿をした敵に対し、ライフルのスコープを覗き、引き金を引き、その頭を吹き飛ばすことを迫られるとしたら? 『メタルギアソリッドV』では、子ども兵は敵ではなく救出する存在として登場し、「子どもを殺したら俺たちはおしまいだ」と語られ、一人でも死ぬと即時ゲームオーバーになる。今作では、スカーの手記の中に、「年齢制限は撤廃」という文字があり、戦場への子どもの投入が示唆されているが、エリーやアビーが接敵することは一度もない。

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 犬や子ども兵を「自分の意志で戦うことを決断していない存在」として括ると、この問題がより一般的になるように思える。この議論は「妊婦・胎児」という、世界に未だ全く責任を持たない存在によって臨界点を迎える。エリーの復讐が中断させられたのは、殺害したメルの妊娠を知った場面だった。アビーの報復を押しとどめたのも、妊娠したディーナを見たレブによる静止だった。ここでは、過去=復讐に対し、未来=愛すること=子どもの存在が対置されている。作中の言葉でいえば「光」であり、ここに倫理の特異点が置かれている。

 ただし、そうしたテーマ的なものを脇に置いて、もっと現実的なところから、たとえフィクションであっても、「子ども兵を殺す」「妊婦を殺す」ことを留意や抵抗なく行えること。そうしたシステムを許すことは作品の倫理として難しいだろう。つまりこれは、ストーリー内の倫理だけでなく、現実世界での倫理の限界点とも言える。

5 フィクションの「悪影響」とそれに対する反論

 倫理に関してもう一点:このゲームが一種トラウマ的な「ネガティブな体験」を目指していると書いたが、僕は今作をプレイして、実際に何らかの精神的な症状を受ける人が出たとしても驚かない。あるいはその帰結として、何らかの犯罪につながる可能性も想像できる。「暴力の感情の憑依」を描いたゲームとしては、『ひぐらしのなく頃に』が現実で起きた事件を受けて放送中止になったり、最近では『ジョーカー』の暴力性が騒がれたりした。しかし、こうした「フィクションの悪影響・非倫理性」を語る際には、その明るい面、作品によって救われた心にも焦点を当ててほしいと思う。

 よりリアルで剥き出しの暴力を描くことに注力し、物語の99%を復讐で埋め尽くすことによって、ようやく1%の強い愛と赦しを描くことが出来る。極論ではあるが、精神を傷つける可能性があるような作品だけが、精神を救う力を持ちうる。単に人を苦しめるために作られたのではない。『The Last of Us PartII』はこうした擁護が成り立つ作品だと思う。

6 ごく個人的な感想

 僕はメディアに関しては小説至上主義者で、美術だろうが映画だろうが舞台だろうがゲームだろうが、小説の与えてくれる体験に勝るものなんてねーよ、と(ケンカになるので口には絶対出さないが)普段から思っている。その要因の一つは、小説が単に感情移入させるだけでなく、その感情に憑りつかれ、現実に苦しみ、救われるような没入感を与えてくれること。本の世界を実際に「生きる」ことができるということ。ラスアス2は、こうした小説だけが与えてくれる体験に近づいている傑作かもしれない。これは危ない。ゲームをやめよう。小説を読もう。ラスアスに影響を与えた『ザ・ロード』辺りはどうか。感情の憑依を味わうにはドストエフスキーの作品がお勧めだ。素晴らしい復讐劇ならピンチョンの『逆光』がある。「復讐は我に任せよ。我は仇を討たん」(トルストイ)小説様の牙城を崩させるな。小説を読め。小説を書け。

あらすじ

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