河瀬直美さんにイチャモンつける馬鹿学者
映画監督の河瀬直美さんが東大の入学式に招待され述べた祝辞が学者さんたちから批判されていると言うニュースを読んだ。以下はその祝辞の問題箇所を抜粋したものだ。
今、世界はあるひとつのバランスを失って、かけがえのない命が奪われる現実を見ることとなりました。「戦争」を世界から無くしたい。その想いは映画を撮り始め、世界で上映される機会が増えた頃に願った気持ちでした。しかし、ひとつの映画で戦争は無くなりません。残念ながら、世界は小さな言葉を聞いてくれません。そう思わざるを得ない出来事が起こっています。
先ごろ、世界遺産の金峯山寺というお寺の管長様と対話する機会を得ました。本堂蔵王堂には、山から伐ってきたままの大きな樹の柱が御堂を支えています。それらの樹は全て違う種類で、それはまるで森の中に自らが存在しているかのような心地になるとのことでした。なるほどその存在を確かめてみると、それぞれの柱がそれぞれの役割でそこにあって、どれひとつとして何かと比べられることなく、そこにきちんと自らの役割を全うしているようです。この世界観、精神性が今の自分に大きな希望を与えました。元来、宗教や教育の現場には、こういった思想があり、それを次の世代の人たちに伝える大切な役割があるのでしょう。あなたが今日ここにあって、明日から、かの大木の柱のように、しっかりと何かを支え、しっかりと何かであり続ける人であってほしいと願います。また、この管長さんが蔵王堂を去る間際にそっとつぶやいた言葉を私は逃しませんでした。
「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」
金峯山寺には役行者様が鬼を諭して弟子にし、その後も大峰の深い山を共に修行をして歩いた歴史が残っています。節分には「福はウチ、鬼もウチ」という掛け声で、鬼を外へ追いやらないのです。この考え方を千年以上続けている吉野の山深い里の人々の精神性に改めて敬意を抱いています。
管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないので、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか?例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。
これに対する批判として
慶應義塾大学の細谷雄一教授は、ロシア軍がウクライナの一般市民を殺戮している一方で、ウクライナ軍は自国の国土で侵略軍を撃退していると解説。 河瀬監督の祝辞を念頭に「この違いを見分けられない人は、人間としての重要な感性の何かが欠けているか、ウクライナ戦争について無知か、そのどちらかでは」と厳しく批判した。 今回の祝辞があった東京大学の池内恵教授も「通俗的な理解するとこうなるという例。新しい学生が変えていってください」とTwitter上で批判。「侵略戦争を悪と言えない大学なんて必要ないでしょう」と、東京大学の入学式のあり方にも疑問を投げかけた。
という記事。
なんだかため息が出てくる。どうしてこんな浅い読み方しかできないのだろう?河瀬さんの言ってることを一言でまとめれば
「侵略戦争を悪としてしか言えない大学なんて必要ない」
ってことになるのは、私からすればアホでもわかる。ところがこの方々は偏差値が高いと言われる大学の教授だ。こんな幼稚な人間が大学教授としてサラリーもらって学生さんを指導しているんだから、まああんまし老後の年金は期待しちゃあいけないってことになっちゃいます。もし私が今KOか東大の新入生なら、こんな先生のゼミには行きたくないと思うでしょう。恥ずかしくないのかな?このNoteにはKOや東大のOB,OGがそこそこおられると思うが、こんなのが先生やってて大丈夫?