維新の本質
維新という言葉は全てが新しくなることを意味しますが、英語ではこれをrestoration、すなわち復元、復古と表現します。つまり新しくなったのではなく、昔に戻っただけと言うのが海外の認識です。両者はかなり乖離していますが、その実態は?というのがここでのお題目です。
学校では明治維新のところでまず廃藩置県、四民平等を習います。廃藩置県って言っても領主が知事になっただけじゃないのかと言われれば、確かにそうです。ただし知事は世襲制ではありません。そう考えると、四民平等、つまり世襲制の地方公務員であったサムライの大量リストラ、これにより無駄な人件費を国家が有効に使えるようになったと言うのが維新の一番のキモになるのかなと思います。このような改革は慶喜公が大政奉還し、将軍職を辞して幕府をぶっ壊した段階で可能になりました。だから鳥羽伏見以降の戊辰戦争は誰がその改革のリーダーになるかを決める単なる内ゲバに過ぎません。慶喜公は当初その改革のリーダーになるつもりでした。しかし改革のリーダーになると言うのは同時に色んな面倒を背負い込み時には悪者になることを意味します。頭の切れでは天下随一の慶喜公は馬鹿馬鹿しくなったのでしょう。そこまで徳川宗家に対する義理はないからです。それで急遽心変わりして、大坂から江戸に逃げ帰り、謹慎して成り行きを見守ったのでしょう。まさに元祖慶應無責任男の面目躍如です。残された部下はたまったものではありませんが、慶喜公は自己愛性人格障害者ですからそんなことは知ったことではありません。斉昭公が造った弘道館の成果がこの徳の無さかと思うと哀しくなりますが。
苟明大義正人心,皇道奚患不興起 (いやしくも大義を明かし人心を正せば、皇道なんぞ興起せざるを患わん)
これは尊皇攘夷の志士なら誰でも口ずさんだと言う藤田東湖の回天詩の一節ですが、元祖慶應無責任男にはこの大義というのが無かったようです。というか、これをファンタジーだと見切っていたのでしょう。
さて元祖慶應無責任男のおかげで棚ぼた大勝利した西郷、大久保ですが、慶喜公の予想通り世襲制地方公務員の大量リストラの後始末及びそれに対する怨念が祟って命を落としてしまいます。慶喜公はこれを知ってほくそ笑みながは子作りに励んだことでしょう。徳川から徳無になってしまいましたが、種はまだまだ十分有ったのです。