多様性
サンモニで張本さんがボクシングは嫁入り前の若い女性がやるもんじゃないと発言した。するとボクシング連盟は癪に障ったのか、多様性を尊重しないけしからん発言と抗議した。そしてネットはそうだそうだの大合唱となり、結局放送会社のTBSは謝罪に追い込まれた。私はTBSや張本さんを擁護するつもりはさらさらないが、最近多様性というキャッチコピーを矢鱈と耳にし、それに違和感を覚えている。ここではそんな自分の気持ちをちょっと書いてみた。
ボクシングの歴史は結構古く、古代ローマで奴隷戦士同士を大勢の観衆の前で殴り合いの殺し合いをさせていたのがその起源の一つとされている。奴隷戦士の大半が男で、女奴隷同士の戦いは滅多になく、またある皇帝はそれを禁止している。つまり女同士を戦わせてそれを観て娯楽とするのをよしとしない精神がすでに古代ローマにはあったのだ。そしてその精神は現代まで踏襲されている。女子ボクシングが日の目を見るようになってからまだ30年くらいしか経っていないので、高齢者のなかに女子ボクシングを否定的に捉える方が少なくないのも肯ける。
さて、多様性の話に戻ろう。何をもって多様性の尊重になるのだろうか?女性であっても男と同様のスポーツをすることを禁じられることはないという考えをボクシング連盟は多様性の尊重という言葉で表現した。つまりいろんな女性がいてもいいじゃないかというわけだ。一方、先ほどの話から分かるように高齢者の中には嫁入り前の女性がするもんではないと思っている方が多い。張本さんの発言もこれに沿ったものだ。ただし、張本さんはお勧めできないけれどもそれを禁止せよとまでは主張していない。張本発言を不適切として謝罪させるということは、そんな意見を持つことを禁じるということになる。つまり意見の多様性、言論の自由は尊重しないわけだ。TBSが張本さんに謝罪させたということは、マスメディアが言論弾圧に進んで与しているということになる。
何も大騒ぎする話ではないだろう。ちょっと気の利いた司会者なら「張本さんは嫁入り前の女性にはやらせたくないそうですね。しかし世の中にはいろんな女性がいますよ。張本さんのような昔の人が思う女性ばかりではありません。いろんな考えがありますから。」とでも言うだろう。それで済んだ話だろう。
寛容さがない人間が多様性の尊重を主張するというシュールな光景を目にすると、日本人はいつからこんなに幼稚になってしまったのか、そんな幼稚な大衆に迎合する、あるいはそれを煽る日本のマスメディアには失望を通り越して薄気味悪さを感じてしまう。私は長生きしすぎなのだろうか。