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不思議なディスクール
生きていると色々な情報が否応なく飛び込んで来たり過ぎ去っていくもので、そういった行き交う情報を懇切丁寧に拾い上げていくというのは至極骨の折れる作業です。現代がポスト・トゥルースの時代とはよく言ったもので、ポピュリズムと加速主義がここまで幅を利かせているのはマルクス的進歩史観が想像したら未来からから大幅に道を違えた先へと進んだ証左なのかなとも思う今日この頃です。かつてホブズボームが唱えた長い19世紀、短い20世紀という時代概念を続けていくとしたら21世紀を形容する語には何が充てられるのでしょうか。
現代において展開される人間達の言語活動がとても興味深いものであること自体には異を唱える者も居ないでしょう。ふとした時に転び出る言葉やあまり深く考えずに使用した慣用表現など面白みのある題材だと私は思います。今回の記事はそうした表現について立ち止まって考えていく内容です。
例えば戦争行為や無差別な殺傷事件などがあり、被害者の無念さを表す語句として「何の罪もない〇〇」「まだ若いのに」「(強盗殺人などの被害者に対して)たった〇万円のために殺されて」などを私は良く目にします。耳にもします。私は口にはしません。個人的にこれらの表現はよく見る分恐ろしさを感じます。どうしてわざわざこの手の表現をするのでしょうか。
何かの罪を犯していた人が、明らかに老い先の短い人が、国家予算レベルの金のために殺された人が、被害者だったとしたらそれは許容される(仮に許容されずとも、程度の問題として何かしら薄っすらとした納得感めいた心持ちが発生する)のでしょうか。この手の表現を好む人はそこまでは考えていないのではないでしょうか。単なる悲惨さの表現技法として形式的に使用しているだけなのではないでしょうか。
誰かが殺されたとしてそれが犯罪者だろうがそうでなかろうがそれはあってはならないことですし、若かろうが老いていようが関係ないです。強盗の結果奪われた金が300円だろうが1兆円だろうが、強盗行為自体の説得材料とはなり得ませんし、してはいけないんです。人倫と人権と法治国家ってそういうことですし。
では何故そうした表現が使われるのか。これを使う人が自己都合で一部の法や人権を軽視しているということでしょうか。多分そういう人も一定数居るとは思いますが私の考える仮説は「部分集合を取り出しているだけ」なのではないかというものです。解説していきます。
自動車免許の学科試験で「夜の道は気を付けて運転しなければならない」の答えが×で、理由が「夜だけでなく日中も気を付けて運転しなければならないため」という類いの問題が度々オモチャにされます。これが論理学的にも誤りなのは散々擦られた話ですが、私の提言はこの類型に当てはめられそうです。
「何の罪もない人が被害に遭うのは許せない」という投げ掛けに対して、上記の私は「罪のある人が被害に遭うのは許せるというつもりか」と返そうとしていることが分かるでしょうか。別にそこまで言ってないのに。この解釈は明らかな誤謬であり、論理の飛躍です。ただし学科試験だとこれがまかり通るので「日中は気を付けなくても良いというのか!」と×が正答となります。実に興味深い話です。
何故書かれていないことをわざわざあげつらうのでしょうか。それは表現が「何かを書いた」と同じくらい「何かを書かなかった」や「選び取ったのが何故それ以外ではなかったのか」も同時に表すからに他なりません。「何の罪もない人が被害に遭うのは許せない」を書いたということはこの事象を特に認知して欲しいという意図と、別の何かについては書かない(もしくは書かなくても良い)という選択をしたことに他なりません。
フーコーの唱えたディスクール、日本語ではたびたび言説と訳されます。昨今における「言説」の使われ方を見るに、発話者自身はその言説自体を怪訝に捉えている(そうでなくとも否定的なニュアンスを含んでいる)時に使用されがちです。「教育言説」とかは特に顕著でこれを話題に出す時は大抵その言説への否定論が展開されます。否定的な意味で使われる「神話」と近い語釈が親しまれてるのかなと思ったりします。
直接書かれた訳じゃないけど実質書かれたのと同義な時、それは背景や文脈や含意とされます。自明とも言われたりします。時代、立場、思想、潮流、認識などを共有した上での展開される「書かれずに書かれたこと」は大きな本当に大きな範囲を対象とした内輪ネタもしくは身内ノリも言えます。パロール的に、はたまたラング的に使用されている書き言葉ないし話し言葉を過信すること自体が既に教条主義的です。こと言語活動の場において使用されるこれらについてを言語の圧縮やジャーゴンとして捉え直す必要が生じてきます。自然言語におけるマジックナンバーの側面を持つわけです。
改めて問いや発話に立ち返った時、発話者が真に述べたい事は何か。ラカンはこれを「子どものディスクール」と名付けました。言語活動に本格参入する前の状態を子どもと例えただけで、本質はやはりまだ内輪や身内としての環境認識が育まれていない者からの視点であるということです。
例えば大人が子どもに対してゴチャゴチャと御託を並べて勉強の有用性を説いている時に子どもから「で、何が言いたいの? (要は勉強しろって言いたいんでしょ?)」と刺されることがあります。逆に子どもが大人に対してその日小学校であったことを要領を得ないで長々と喋っている時も大人から「で、何が言いたいの? (汲み取ってあげたいけど本当に何が言いたいのか分からない)」と言われてしまうことも。これら実質的に問い返した内容が異なるわけですね。
「素人質問で恐縮なのですが」や「僕バカなんで」などは謙遜を装いつつも自身の知力が素人レベルもしくはバカであることを認知できるくらいには知的であるという意味も発信していますし、「彼はいい人だよ」と言うとそれ以外の特徴がなく魅力がない人という意味を発信していることになります。不思議なことに冒頭の通り、言っていないのに逆の意味が内包されてしまうことになりました。
ここまで長々とお読みいただきありがとうございます。この手の話というのは書き始めると立て板に水でそれらしい言葉が次々と流れ出て止めどないです。どうなんでしょう。noteでこの手の記事を書いたことがないのでどう受け止められるか心配です。文章書くの苦手だし、私って頭悪いんで……。(クソガキのディスクール)