北へ 行こう ランララン #1
事の発端
昨年の夏頃、かつてお世話になった豊平大の深佐原准教授(仮称)から数年ぶりに連絡が来ました。深佐原先生の専攻は近代北海道史でそれについて面白い仮説を思いついたとの事での連絡。興味のあった私は、母校であり、深佐原先生の勤める豊平大へと足を運びました。
ということで行ってきました、豊平大学。校門前で先生と落ち合い、そのまま研究室へと案内されました。思い出話に花が咲きつつも本題へ。どうやら、幾つかの珍しい札幌地図が見つかった様でとても興奮気味にご教授してくれました。
第1の史料
まず最初がこちらでした。画像はスキャンしたモノです。文字が正しく読める方が建物の正面になります。北海道の主要都市はどこも計画都市。札幌も多分に洩れずグリッド状、それはこの頃から既に始まっていました。大まかに場所を言うと、
廳地(庁地)・・・開拓使庁であり、旧道庁が建築されるのは1888年のこと。
膽振通(胆振)・・・現在の西2丁目の南側。ここから西に3,4,5…と続く。
こんな感じで現在の札幌と照らし合わせて把握して下さい。
營繕局(営繕局)という建物は、開拓使庁直轄の営繕局であり、当時の官庁営繕つまり政府や公的機関主導の土木や建築工事などを司る施設でした。計画都市が所以とも言える施設であり、見てわかるように、東西に空いた空間に隣接する位置にあります。この空いた空間というのが当時の火防線、現在でいう大通公園というわけです。
第2の史料
次に深佐原先生が見せてきたのはこちら。下の方は大通駅周辺を抜粋したモノになります。この頃既に旧道庁が完成しており、近くには札幌農学校の植物園博物館がデカデカと座しています。
先生が注目したのは2点。1つ目は、1875年時点で営繕局があった場所に新しく偕行社という施設が建っている点。この偕行社というのは、陸軍将校らの交流や軍事研究を主な目的として創られた組織であり、各地の陸軍拠点に設立されていきました。札幌偕行社はその内の1つになります。
次に注目したのが大通の西端にある屯田兵本部と練兵塲(練兵場)でした。住所で示すと大通西10丁目~13丁目に該当。こちらは実践的な訓練や演習を行う施設で、それなりの広さを必要としたようです。
史料の1891年時点ではまだ屯田兵の寄せ集めで、陸軍第7師団(北鎮部隊)が設置されるのは1896年でした。
第3の史料
深佐原先生が最後に見せてきたのがこの昭和の地図でした。地図内で特に目立つのが2種類の線路です。「さっぽろ」と書いてあるのが札幌駅でそこから延びる白黒の線路は国鉄函館本線であり、国鉄の線路である事を示しています。⧺が連なったような線路はそれ以外を指し、市電や馬車軌道などの非国鉄の路線を表しています。
更に練兵場がなくなっており、これは第7師団の根拠が旭川に移った為。その代わりに第7師団の下部組織である歩兵第25連隊が札幌に残りました。大通公園周辺にある「〇に★」の地図記号と7の数字、これが聯隊區司令部(連隊区司令部)です。1891年版の地図と見比べると、元々ここが屯田兵本部のあった場所だと分かります。
そしてかつて営繕局や偕行社があった所には郵便局を意味する5があります。当時の郵便事業は今よりも圧倒的に重要度が高く、郵便・電話・運輸・建設なども担っており、それこそ陸運の目的の鉄道事業やそれに伴う土木や建設や営繕なども手掛けていました。
目新しい施設である鑛務監督局(鉱務監督局)。文字の通り炭鉱や地下資源の掘削、エネルギー資源の管理を司る組織でした。また商工省の管轄だったので商業と工業の統制も行っていました。
深佐原准教授の気付き
先生はここまでを一気に説明すると、翻って私に訊いてきました。
「ここまでの話で何か気付く事はないか」と。正直言って何も分からない、私が素直にそう伝えたところ、先生は心なしかほくそ笑んだ様にも見えたのを覚えています。
「どの時代も(現在で言う)大通公園周辺に官公庁や軍事などの国家機関が置かれているという事だよ」
それの何に先生が引っ掛かったのかよく分かりませんでした。札幌は北海道の中心であり、開拓期からの都合も考えれば何ら不思議ではない筈でした。
「それならばハブ駅の札幌駅周辺で良い。それこそ札駅と同じ並びの方が、アクセスもしやすい。しかしわざわざ南に数ブロック下がった並びに設置してある。これにはきっと意味がある筈だ」
要するに先生は『大通公園周辺には昔から国家機関が設置してある』という余りにも些細な事柄が気になった訳でした。それの何が凄いのか私にはよく分かりません。
「あのエリアは意図を持って設けられ、何かに使われたんだと思う」
気になったコト
1869年に島義勇が札幌市街地の建設を始めますが、その構想の時点で既に火防線を設ける想定だったようです。そして2年も経たずに開拓資金を使い潰してクビに。西村貞陽・岩村通俊 が開発の後を継いだので1871年に火防線が完成。同年、開拓次官だった黒田清隆はお雇い外国人をスカウトする為、欧米へ出向いたそうです。その時ホーレス=ケプロン米農務長官と出会い、開拓顧問として迎え入れました。
都市計画は開拓長官となった黒田が握って、1874年には中将に昇格し屯田憲兵事務総理を拝命。軍事・政治共に北海道の頂点となりました。ケプロンは1875年に帰国するまでに影響を残しており、麦の生産や魚介の加工販売、効率的な道路の敷設、農学校の創設、鉱山や地形の詳細な調査などを献策します。これらが北海道の産業や在り方を形作る事になったようです。
「改めて説明したのにはちゃんと意味がある。ここまでの話を聞いた上で質問だ。火防線つまり大通公園を造ったのは誰だと思う?」
島が都市を計画し、それを引き継いだ西村と岩村が完成させた。率直にそう答えると再び訊き返されました。
「では島が辞めた後、岩村達はどの様に引き継げたんだろう。計画のトップが挿げ替わっても、滞りなく計画を進める方法は?」
計画に携わった官僚達がそのまま続用されるなら、新しいトップが来ても対応できる。これは会社でも政権でも同じ事です。
「つまりトップが替わってもずっと札幌開発に携わっている人物がキーパーソンという事だ」
長々とそんな話をしているといつの間にか日も落ちまして、その日の晩餐は先生の奢りと相成りました。
後日、再び深佐原先生からの連絡で呼び出される事となるのですが、それについては次回のnoteに綴りたいと思います。
※記事タイトルは Four Seasons『北へ』よりサンプリング