【272】だるまさんが転んだ
童心。
それは大人になった今でも
沸き起こる。
幼い頃には楽しかったが
現在の自分の歳では
世間体などを気にして
できないことを
羞恥心のリミッターを
解除して
弾けた時に出現する感情だ。
例えば
ショッピングモールなどに行くと
決まってゲームセンターが
存在する。
目的地ではないが
子供がはしゃいでいるのを
横目で見ると
少し自分も参加したいという
幼心がチラつかせる。
大人が遊べる
ボールプールがあれば
私はそのプールを
全力ではしゃげる力が
まだ残っていると思うが
その力を発揮できることは
まず無いであろう。
スポッチャなどの
大人が遊べる
遊戯施設が
近くに存在しない地で
生活しているため
私が市長になったら
大人版の遊戯施設を
開設して
子供厳禁なルールを
設けてみたいものである。
そんな童心がある私は
本テーマである
「だるまさんが転んだ」という
メジャーな遊びを
今でも行いたいと思っている。
だるまさんが転んだの
ルールは言うまでもなく
鬼が振り返って
動いたら負け。
動かずに鬼にタッチできるかな?
という単純明快な
ものとなっている。
しかしながら
そのだるまさんが転んだの
ルールに1つ疑問がある。
それは動いたら負け
というルールだ。
この判定は
鬼の担当になった人間の
裁量で行われるが
そもそも動いたらの基準が
曖昧すぎやしないか?
そもそも人間は
酸素を吸って
二酸化炭素を放出する
呼吸というのを行なっている。
そう。
この呼吸は
完全に動きなしでは
こなさせないものだ。
側から見れば
その動きは
微弱なものかもしれないが
確実に心肺は
動いているため
動いたら負けという
ルールには
どうしても無理がある。
かと言って
子供がメインで行う遊びで
呼吸を停止する
というものを
盛り込んだら
あらゆる公園で
事故が起こってしまうのも
現状である。
また動いたら負けといっているが
動いた人間が
発覚した際に
言葉などで
他の人間が
リアクションを取る描写も
だるまさんが転んだには付き物だ。
とすると
言葉を発した時点で
口元が動いてしまうので
リアクションすら取れない
競技となってしまう。
つまりこの
動いたら負けというルールは
レクレーションである競技において
楽しさを半減させる
役割を担っているのだ。
童心を持つ私だからこそ
だるまさんが転んだの
ルール内容を
楽しいものとして
明確にし
いつか公園で
思いっきり
だるまさんが転んだを
行える未来に
なってほしいものである。
だるまさんが転んだについて
正当化し
論破できる方は
かかってきてほしい。