香港でカギを落とした
大学生の頃、小説にハマった。それまで全くと言っていいほど勉強はしなかったから、読書なんてもちろん皆無。それが活字を読むことの楽しさを覚えた。そんな私は、年々何かを書きたいと思うようになった。30歳になったことと、noteを久しぶりに見たことが重なり、今回初めて何かを書いてみる。
私は二十代の約半分を中国や香港で過ごし、30歳になった今も、長期出張で香港にいる。新型コロナの影響で、帰国の目処が立たない。独身なので帰国できなくても誰かに迷惑をかける訳ではない。けれども、やはり底が見えないストレスは大きい。
ストレスはそれだけではない。実は、香港、私にとってすごく住みづらい。奈良の片田舎で自然に触れながら育った私は、コンクリートジャングルで生活することになかなか慣れない。それだったら、香港より生活水準が低い中国の方がまだいい。ご存知の方も多いと思うが、香港は家賃が非常にお高い。世界で一番高いと言ってもウソではない。物価も安くない。だからみんなお金を稼ぐことに必死で、心に余裕がない。香港に住んでいるからこそ、そのプレッシャーは嫌でも理解できるが、いつもみんな不機嫌そうにせかせか歩いてる。コロナ禍の今はそれが余計に顕著。もしかしたらこれが私にとって一番のストレスかも。
そんな状況なので、ストレスを溜め込まないようにと、半年前から始まった今回の出張で、ジョギングを始めてみた。これがまた素晴らしい!いつも海辺のジョギングコースを走るが、いつもビルに囲まれているからか、余計に解放感があり空気も新鮮に感じる。
その日は平日休みだったので、久しぶりに日中にジョギングを楽しんでいた。そこで大切な部屋のカギを落としてしまった。いつもは音楽を聴きながら走り、スマホとカギは腰とお尻の間にある専用ポケットに入れる。そのポケットを閉め忘れていたため、カギだけ落ちたと思われる。幸いそれに気付いたのは折り返し地点。そのカギは大き目だっので、来た道をたどって帰れば見つかるかも、とその瞬間は楽観的に考えた。しかし、よくよく考えると、もし見つからなければ結構な費用を支払わなければならないことに思い至り、落胆を絵に描いたように首をおり、カギを探し始めた。
そこに突然ある女性がこちらに向かって手を振ってきた。大学生だと思わしきその女性は、走ってきたのか息が上がっている。呼吸を整えながら、笑顔(感染予防のためマスクをしているが、私にはそう見えた)で「もしかしてカギ探してる?」と聞いてきた。私の想像では事の成り行きはこうなっている。
折り返し地点から約1キロ手前で、私はカギを落とした。その地点で、曖昧だが誰かが大声で叫ぶような声がイヤホン越しに聞こえたような記憶がある。そんな事は香港では日常茶飯事なので、私は見向きもしなかった。そこで近くにいた男性がカギを拾い、警備員の女性に預けてくれたようだ。しかしそれだけでは心配になったのか、その大学生は私を追ってきてくれたor探してくれた。
その大学生の優しさが心に沁み、もしかすると彼女からすれば大した事ではないかもしれないけど、困っている私からすると、大袈裟かも知れないが涙が出るほど嬉しかった。結局、警備員の女性にも会うことができ、無事にカギを受け取れた。嬉しさと安堵で、意気揚々と帰り道についた。途端、またまたある男性が私を待っていたかのように「カギ見つかったか?」と笑顔(この人もそう見えた)で声をかけてきた。これも私の想像だが、多分この方がカギ落とした時に大声で呼んでくれた人で、私が無事に受け取れたか心配だったのか、落とした地点で待っていて下さったようなのだ。そして続けて「あの彼女、色んな人に声かけて必死で探してくれてたよ。あんな子そうそういないから、嫁さんにしなよ!」って。
カギ一つ落としたら、こんなにも多くの人の優しさに触れることができた。普段は余裕なんてほとんどないように見える人たちでも、一人の優しさがまた優しさを呼ぶ。なにかこれこそが、人間がコロナの中でより良く生活するカギなのかも知れないと思った。自分も生きるために必死だけど、ちょっと心を落ち着けて周りの困った人に手を差し伸べるぐらいの余裕を持ちたい。優しさの連鎖の起点になりたい。