【家賃からの解放】 僕の家賃遍歴①
子供のときに家賃を払うことはないと思うのですよ…払う術もないですしね
生まれたのは京都の太秦…映画村というのをご存知でしょうか?まぁ、京都にはそういう有名な観光地というか施設があるんです
嵐山というこれまた有名な観光地の手前で「ちんちん電車」と呼ばれる「嵐電」という路面電車だとか…
というか、京都は日本が世界に誇る観光地、有名なところばかりですよね…よく考えたらそれはそれでスゴいこと…
まぁ要するに京都生まれってことで
その太秦は常盤の宇多野病院の費用が最初の家賃ということになるわけですかね
それは当然のことながら親が…たぶん父が払ったと思います
父は当時たしか28歳、日本が誇る国営放送、NHK京都の職員…駆け出しの安月給とはいえ…
ただ当時は母の方が収入があったと聞いているので、そのあたりはなんともいえないのかな
母はそのときはまだプロのハープ奏者で、そもそも知り合ったのも、母が出演していたNHKの番組だと言ってましたから
そのあとは、母の実家近くの安いアパートヘと…言われてみればこれが初のお引越しとなるわけですよね
そうそう、言い忘れましたが、母は京都生まれの京都育ち
祖母がとても面倒見のいい働き者だったり、祖父が僕が生まれるちょうど一週間前に亡くなったり、子育てのことなども考えて、できるだけ祖母の近くに、と
その実家はといえば、佐野藤右衛門の枝垂れ桜が燦然と輝くような大きなお庭で…あ、その枝垂れ桜は、あの有名な円山公園の枝垂れ桜の妹にあたり…
建物自体も帝国ホテルを設計した「フランク・ライドの弟子」の手によるものらしい
このあと僕は幼少期の半分をその豪邸で過ごすことになるので、その立派さいまでもよく憶えているんです
庭にはさらに茶室に長女…つまりは母の姉が住まう離れに…裏庭には蔵…とね
ならしばらくはその実家に住まえば?と思うところですが、そこは父なりの矜持があったのだろうとおもいます
父は宮崎生まれの九州男児で「男子厨房に入らず」を、本当に地でいってましたからね
インスタントラーメンすら自分ではつくらない人でした
よしも悪しもそんなことが、当たり前で許された時代でしたよね
そのおかげ…その分というわけではないでしょうが、父は仕事においてとても活躍し、最後はNHKエンタープライズという会社の社長まで勤めあげて引退
引退後は故郷である宮崎で第二の人生を自ら掴み取り、一人、暮らしています
インスタントラーメンもつくらなかった父が、いまでは自炊している…ちゃんとゴミの分別もしていて…
牛乳パックも切って開いて洗って重ねてある…というのですから人は変わるものですよね
というわけで、人生最初のお引越しが完了
その安アパートは、いまでもあるというのだから、京都の物持ちの良さというか、そもそもなかなかしっかりとした建物だったのか
その後、父が東京に転勤となります
NHKの社宅が横浜の「たまプラーザ」というところにありました
いまでいうところの「ザ・団地」な建物が、駐車場を間に挟み、敷地内に2棟並列して建てられており、その道路側でした
東急さんが開発した新興住宅街「金曜の妻たち」というドラマで話題になった、といまでも母は言うのですが、僕はそのドラマ自体がわからない
横浜とは言っても、ほとんど川崎寄りの横浜で、皆さんのイメージするような港の横、ヨコハマではありません
それでも目の前には広い公園があり、道路側に面した棟だったので、この公園の借景の恩恵も預かれた
「美しが丘」と名付けられた住所、東急さんが野山を切り開き、まったく新しく造成された街
道も広く、街路樹が植えられ、その至る所にある桜並木はこの後、どんどん立派になっていき…
先述の京都の母方の実家もそうですが、日本は本当に桜に恵まれてますよね
この街「たまプラーザ」は時代とともにどんどん発展していきました
そのNHKの社宅は今となっては、駅近の超便利物件、なんと40年以上を経たいまでもまだ「斉藤マンション」という名で健在なのです
きっと内部はリフォームを重ねているのでしょうけれども、それでも建て直さなくても「借り手」がいるということが、この街が人気であることの証明のようなものだと思っています
引越した当時はまだ二子玉川が終点で、そこからNHKのある渋谷に行くには、大井町線から自由が丘を経て東横線で
それが地下鉄として渋谷まで繋がり、半蔵門、そして水天宮前、いまでは東武線と繋がり、栃木の鬼怒川温泉郷の手前あたりまで行けるように
この相互乗り入れが、ダイヤの乱れや、超過密な満員電車という問題を巻き起こし、一時期たいへんなことになっていた…
さすがの東急さんも、その当時、この沿線がまさかそこまでの隆盛を極めるとは思っていなかったのでしょう
もしそうならもっと線路を増やせるように、拡張できるように敷地を確保されていたとおもいますので
その過密問題も、2020年からのコロナ禍によって緩和されたとか、されてないとか…だいぶ話が逸れましたね
この「田園都市線」と呼ばれるエリアが、それだけの人気のエリアとなり、当然のことながら地価も上がって行ったという経緯は布石として書いておきたかった
そんな街「たまプラーザ」その駅近くのNHK社宅から幼稚園に通い始めるようになります
「サレジオ幼稚園」いまではもう別の場所にあるのですが、その当時はその「たまプラーザ」のお隣の駅「鷺沼」にありました
家の前の街路樹を抜け、桜並木の坂を上がっていくとその幼稚園がありましたので、通学は主に徒歩🚶♀️
送迎はいまほど安全や治安に配慮されている時代ではたりませんでしたので、母や祖母がいないときは一人で通っていたように思うのですが
その桜並木は桜の時期はほんのひと時、夏場は毛虫でたいへんなことになっていた…
ところがある時期から毛虫を見かけなくなる…それだけ農薬などが発展したということなのでしょう…そこはとても違和感があったことをいまでも憶えています
そうそう、この時期から僕は京都の実家と、この街を行ったり来たりすることになります
父は永遠に無くなることはないであろう「ニュース」を取り扱うジャーナリスト、母はプロのハープ奏者を続けていました
祖母が横浜に来ることで賄っていたとのことなのですが、母の姉が病弱なこともあり、5歳からは僕が京都に行くように
5歳にして一人で新幹線に乗り、京都まで行っていたというのですから、そのあたり自由な時代でしたよね
新横浜の駅までは母が送り、新幹線のホームにて車掌さんに僕を渡す、京都に着いたら祖母がホームで待っている
ちゃっかりと他の乗客の方から「おもちゃ」やお菓子をもらっていたとか
幼稚園も通いなれた年長さんのおり、佐藤家の家賃遍歴は大きな転機を迎えます
マイホームの獲得
それがその当時のブームでもあったそうです
場所はその坂の上、サレジオ幼稚園の隣のライオンズマンション
ライオン…その咆哮は勝ち名乗りなのか、30代前半にして…それから何十年も続くローンへの嘆きなのか…
このローンが組めたのも、天下のNHKだからこそ成せるワザ…
僕はラッキーなことに幼稚園の隣に引っ越せた…
いま思えば「通勤」というものが「無駄の極み」だと感じるようになった「職住近接」という価値観はここで芽生えたのかもしれません
マンション自体はすぐお隣…幼稚園への道すがら…通学路ですらあったのわけですが、住所は横浜市から川崎市に
そのマンション、東名の東名高速道路の脇の崖の上につき
騒音…いまほど拝ガス規制が厳しくない…あげく台風によるガケ崩れ事件で、それこそサレジオ幼稚園の体育館に避難する、だとか
二重サッシという騒音対策…排ガスなどの住環境…公害問題など環境への意識はここで芽生えたのかもしれない…アレルギー性鼻炎に悩まされだしたのもこの時期でしたし
そんなライオンズマンションも「田園都市線」の人気に伴い、のちに買った値段よりも高く売れることになる
時代は「バブル」に突入して行ったとはいえ、そのあたり母の先見性は否めない
というのも、佐藤家はこのあと常にマイホームを手に入れ続けるわけですが、転居のたびにその購入額を上回り続けていくので
さて…このライオンズマンションで無事「鷺沼小学校」にて小学生となり、3年生となったときに、また大きな転機を迎えます
父のフランスはパリへの転勤です
ジャーナリストとしてニューヨークを希望していた父…フランスに行っても美術館のドキュメンタリばかり撮ることに…と嘆いていたわけですが
蓋を開けてみれば「超激動のヨーロッパ」が待っていた…チャウセスク政権の崩壊にはじまる東欧諸国の民主化…そしてベルリンの壁の崩壊…チェルノブイリもありましたね…
パリでの生活も、アルジェ解放戦線やアイルランド解放戦線など「解放ばやり」日々「爆弾テロ」が周りで起こっていました
ジャーナリストとしてはガッツポーズな日常が…ホントにガッツポーズしてた…
そういえば宮崎に赴任したときも「そのまんま東」さんとか…そういう意味で「嵐を呼ぶ男」…その引き寄せ力は「ジャーナリスト冥利」に尽きる
家賃に関してもここで大きく変わります
家賃を会社が払ってくれる、つまりは「借り上げ」という仕組みが登場するわけです
組織の都合で「特殊な環境への移住」を要求される場合、この「借り上げ」という「家賃からの解放」が存在する
「住み込み」とはまた違い「自分で住みたい場所」を探しだすことができる
きっと「家賃に上限」など条件はあると思うのですが
ちなみにパリは16区のパッシー(Passy)という駅から徒歩で15分ほどでしたか
パリの中では珍しく近代建築…大きな窓からはセーヌ側の自由の女神を望む
なにより欧米ならではなのか「広い!」
隣が駅の工事をしていて、またまた騒音があるのはご愛嬌
パリの日本人学校はトロカデロ…パッシーの隣の駅にあり、なんだかんだでまた徒歩で通っていたのは、なんとなく「たまプラーザ〜鷺沼」に図式が似ているのもご愛嬌
このあと、日本人学校に通っていたがために「せっかく海外にいるのに言語は日本語のまま」ということが、なにかしら「もったいない」とでも思ったのでしようか
突然「これからの時代は英語が必要となる」とか言い出して自らイギリスの寄宿舎…要するに「寮生活」に飛び込んでいくのだそうですが…
小学校5年生にしてそんなこと言いますかね…言いましたかね…いまでは父と母の証言が残るのみ
家賃からの解放
「借り上げ」というシステムが出たところで、頃合い、記念すべき第一章はこのあたりでキリたいと思います
このあとのイギリスでの寮生活…帰国後の高校生活は…バイト先で知り合った年上の女性の家に…
そのあたりのところから第二章をカキたいと思っています
そうそう、この連載を機に僕が生まれてはじめて書いた本をKindleにアップしてみました…
無名にして宣伝なし…にも関わらず4000部以上売れたという…
これが僕の20代…社会人人生の前半戦のすべてなので、ある意味「第三章」ともいえる
Kindle Unlimitedを契約されている方なら無料で読めます!☟
「家賃からの解放」は連載なのでマガジンにしました☟
それではまた第二章でお会いしませう
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