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気分が乗ったので日記!

なにかについて悩むのはスゴく嫌な体験だ。でもなにかについて悩まなきゃ何も得られないなんてこともあったりして、なかなかうまくいかないもんだ。

7月の全体の総括としては、とにかく執筆と体調との闘いということだった。ウマ娘寺山小説、とここでは呼ばせていただく、文学フリマにて頒布予定の小説をなんとか完成させることに苦心していた。だいたい一日2000字くらいは書いていて、それでおまけに自分の演じたい台本やレジュメなんぞも書いている。

それで、今日の日記。

今日久しぶりに詩を書いてみて、投稿欄の詩人たちの身体や意味に対する問題意識に対してめがくらんだりしてた。あとは単純に、詩の長さとかに。
そりゃ確かに、ひとそれぞれ持ち味があるとは思うんだが、それにしたって長いと思う。あとでよく見ると、長さは置いておいて、選者が形式の硬直について述べているところを何度も見た。
これについて、うーんっと少し考えてみると、やっぱり荒地派の問題意識というのはかなり大きいんじゃないかな、ぱっとそのへんで読める詩に荒地派がかなり含まれてるのはスゴくおおきい影響を与えてるのではないかというきもちになったのだった。

わたしがいまあげた3つの記事の中に、雨澤佑太郎という詩人がいる。わりあい若手の書き手だと思う。多分年のころは20とか30行かないんじゃないだろうか。その詩人が、荒地派と並べて、あるいは連綿と続くものとして取り上げられてることはやっぱり大きいと思う。
彼は、

というような言葉を用いて、というかスタンス的にモダニズム詩を批判してる。
で、このモダニズム詩と荒地派の対立、かなり昔からあったようで、

この方なんかはかなり明確にスタンスの違いみたいなのをあらわしてるんじゃないかと思う。
それで、個人的な鑑賞体験として、現代は、寺山修司の荒地派批判も虚しく、まあこういう言いかたよくないしそれがわるいとはつゆほども思ってないけど、荒地派が勝利した、もっと言っちゃえば身体性の肉薄で物事を勝負する、デリダ的な観点が世の中を支配してるとおもうのだ。
というか、寺山修司が現代の価値観において敗北した原因を自分の中で最近洗い出してて、やっぱり思うのは、彼は大きな物語、あるいはもっと大事な自分自身を解体して組み替えて別のものにしてしまう、そういう運動が彼の思想の中に入ってたからじゃないかと思っていて、それは身体の超越を信じるひとからしたらとんでもないわけで。まあとんでもなくたって信じざるを得ないことはあるとはおもうけれど、彼のポンチ詩(そう、彼考えすぎて詩をつくるのが下手になったタイプなんですよね。俳句は想像を絶するほどうまい)やら変な劇~的なヤバくないところばかりフォーカスされるのは、「日の丸」のようなヤバい仕事(彼の思想から言えばこれでもヤバくない方)があまりフォーカスされないのは、やっぱりどうしてデリダ的な身体問題、わたしの厨房のころのにがーい思い出からほっくり返すと、「わたしはこれだけ特別なからだですよ」というので一等賞をとったあの作文の子を評価した先生と同じようなレンズを持っているひとがかなりの数、いや書き手がわにもかなりの数いて、それが生活詩、生活短歌、生活俳句なんかを書かせてるんじゃないかな。

わたしには生活のものがまるで書けない。それはわたしの身体性が極めて希薄だからだ。これだけ異常な人間がよく言うよ、とわたしを知る人は言うかもしれない。確かにそうなんだ。わたしは異常なんだ。でもわたしの異常性は、わたしが異常であるということを認識することが極めてむずかしいことにあって、そこにフォーカスすると、日常を侵犯するようなものしか書けなくなってしまう。あるいは、意識を変容させて。

だから、わたしは唐十郎より寺山修司がすきだし、デリダももちろん好きだがドゥルーズがもっと好きでーす。

おわりっ




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