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マイ・ディアローグ あるいはわたしの偏愛年表という形として

果していままでの道程をふりかえって、これほど奇特な人生はないと言い切れるほど奇特であった。
ハイ・カルチャー、ポップ・カルチャー、サブ・カルチャー、アングラ、王道……漫画で言えば手塚治虫を読みふけりながら佐々木マキを欲しがり、小説で言えば角川スニーカー文庫を読みながら谷崎潤一郎のエロ小説に本番シーンがないことにキレ散らかす、美術で言えば横浜トリエンナーレにほとんど毎回欠かさず行きながらサロン的絵画も嗜んで、音楽で言えばクラブハウス・ミュージックを聞きながら坂本龍一の勧めるヴラド・ペルルミュテールを興じたり自らもクラシックを吹奏楽でやる、そんな人生だった。
詩に触れたのはじつに最近だ。本当に最近だ。それまでは詩や短歌のなかった世界に踏み出そうと思ったのは高校生がおわったくらいで……というのはおいておこう。
これは偏愛年表だ。あくまで年表であるいじょう、年表にしなくてはならぬ。しかしわたしの人生の密度はある一点にあつまっているのだ。これはこまった。とりあえず箇条がきで描いていくことにしよう。ついてきてくれ。これがわたしの人生だ。


幼少期:文化の洪水にただ浴して

わたしの小さいころを形容するならば、それは「オタク的カオス」といった言葉が正しい。

まず、おおよそ2才くらいに、わたしは人生で初めて横浜トリエンナーレに行った。
幼少期の住まい新横浜と地理的にも近い場所にあるみなとみらい、桜木町といったこの地区に、わたしはこのあとも郷土的偏愛を抱き続けることになる。
初めての横浜トリエンナーレはなにがなんだかわからないけどきれいで楽しかった!色々なものが積み上げられていて、お祭りみたいだった。――のちにわたしは、このトリエンナーレの計画者が磯崎新から川俣正に変更された状態でキュレートされたことと、テーマが「日常からの跳躍」であることを知る。
あと、横浜美術館は毎回とても楽しかった。工作の教室で、わたしは非常に出来がわるかったがそれでもたのしかったし、何よりかわいい卵型の聴診器?かなにかがつまったおもちゃみたいなものが大事にケースにしまわれていたのだ。――そのおもちゃのような卵型のオブジェは、中西夏之の「コンパクト・オブジェ」という作品だった。

アニメに関しては、圧倒的に仮面ライダーとかプリキュアが好きだった。プリキュアになることが不可能なことは幼少のわたしも分かっていたが、それでもあのカワイイ衣装が好きで、子供向けのコスプレ衣装も持っていた。仮面ライダーは、あのキュインキュイン鳴るベルトが大好きだった!電王はモモタロス達の掛け合いと時折挟まれるユーモアが大好きだったし、その後のシリーズも大好きだった。――それから、「新世紀エヴァンゲリオン」と「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPREX」が大好きだった。
エヴァは、普通にロボットアニメとして見ていた。使徒のデザインはすごくかっこよかったから、毎回ハラハラしながら見ていた。冷たそうなレイよりアスカのほうがずっと大好きで、わたしはアスカを応援しながら見ていた。シンジ君が泣きながら逃げる姿を見て、「なっさけねーなー」と幼いわたしは思っていた……彼の勇敢さを知ったのは中学生のころだった。
攻殻機動隊はかっこいいアニメとして見た。タチコマたちがスゴく可愛くて、草薙素子も確かにかっこいいが、それよりバトーさんとタチコマたちの愛情ある掛け合いが好きだった。ラボ送りはハラハラしながら見ていた。いま回顧してみて、覚えているのはやはりタチコマたちの姿が多い。それだけ彼らが愛らしかったのかはわからないが、タチコマがわたしの人生に与えた影響は大きいだろう。

音楽は……ずっとM-froを聞いていた。父と母はそもそも渋谷系やエイフェックス・ツインが好きだった人なのだ。いまでも美容院でその手の文化に詳しい美容師さんとそういった話をするらしい、とその美容師さんに教えてもらった(実は同じ人にカットしてもらっている。下北沢の店だ。DJもやっていたりマンガに詳しかったりかなりサブカルチャーに縁のある人なのだ)。あとはアイドルソングなんかも聞いていたが、アイドルで誰が好きとかは特になくて、純粋に音楽性だけで楽しんでいた記憶がある。エイフェックス・ツイン、確かに幼少の頃に聞いた記憶があるが……どうだろう。コーネリアスの「Point of view」は確実に聞いた。このテクノ・ハウス偏重は、のちのわたしの人生に非常に大きな影響を与える。

総括して、洪水と言っても過言ではないくらいに文化に浴した。実際、わたしの人生に於いて仕事にしようと思っていたり指針になるほど影響を与えているのは間違いなくこれらの文化洪水のなかのものなのだ(例外、寺山修司)。何もかんがえずにただ浴びていたが、それでも確かに影響があったとはいえよう。

小学生:あまりにも多くの青空文庫と性の目覚め

はっきりと性に目覚めたのは幼少の頃だった。
小学校低学年の頃のわたしは、いまにして思えばかなり観念的なガキだった。例えば、「なぜ人は生きるのか」「人の価値とは何に先行しているのか」といったことを、体育の待ち時間やら全体集会のときにひたすら考えていた。のちのわたしは、この問いがサルトルに接続することを知り、フランス哲学や大陸哲学に傾倒するきっかけとなる。
あとは、結婚ということの意味を真剣に考えだした時期だった。いまは大方の答えが少なくとも人生単位では出てしまったが……結婚と生殖が、文明社会で育ったガキらしく結びついていたため、「なぜ人は結婚するのか」「結婚しないという選択はいかにして行われるか」といったことをずっと階段を登り降りしながら考えていた。結婚についての命題は、後に出会うフーコーの興味へのフックになることになる。
それで、なにかの弾みで生殖についての本、有り体に言えば性教育の本を読んで、セックスのプロセスを知り、非常に合理的だと感心したものだった。そう、感心。エロ~とかドキドキとかではなくただただ感心したわたしが19才の頃に二次創作官能小説でタグトップランナーレベルのいいねをピクシブで獲得するとは皮肉な話である。

で、小学生の頃に何を聞いていたかというと、これはTofubeatsであった。父はTofubeatsの熱心なリスナーで、ファーストアルバムをCDで所持して車でしょっちゅう流していた。あとは、Taku☆Takahashiのリミックスした「タキテリックナイト」というアルバムを熱心に流していた記憶がある。わたしがDJ文化に明るく、ご丁寧に3万円とは言えターンテーブルを所持し、あわよくばDJなぞをやろうとしているのは明確に彼らの影響である。DJへのわたしの尊敬の念はすごい。あと、何気に大きかったのは、父が居間で流していたTofubeatsのハードオフ探検記である。彼らのディグはとても楽しそうだったし、わたしがディグに抵抗がないのはあの動画群が確実に影響しているのだ。

それから、何を読んでいたかというと、普通に角川スニーカー文庫であった。それも「ぼくらの」シリーズである。……のちの左翼思想の芽生えである。「涼宮ハルヒ」シリーズや「ブギーポップ」はきっとあったのだろうが歯牙にもかけていなかったし、何ならハルヒは知っていて避けていた記憶がある。あとは『図書館戦争』とかを読んでいたので、ふつうにハルヒが子供っぽいかオタクっぽく見えたのだろう。
あとは、青空文庫を読んでいた。……これに関しては石川啄木と太宰治以外にラインナップが思い出せない。言えるだけ言ってみようか。夏目漱石、芥川竜之介、宮沢賢治……そんなものかな。太宰は『人間失格』の幼少期の葉蔵がオチンチンを振り回してウケを取るシーンの「おちんちん」をKindleアプリで検索にかけてウィキペディアで卑猥なものを見るために使っていたのでよく覚えている。iフィルターだの小賢しいフィルタリングアプリを使う親なぞに対抗するには文豪の奔放な性表現が欠かせないのだ。あのオチンチンのおかげでわたしは強制クンニリングスやギャルのクンニリングスエロ絵を見ることができたのである。ありがとう、太宰治。感謝しています。

じつは小学生時代は父親にマニアックな映画を教えてもらっていた。父がにやにやしながら「これは小学5年生になったら見てもらいたいんだけど」と言って教えてきたのは今敏監督の「パプリカ」だった。
念願かなって小学5年生になった時に見たときの衝撃たるや。でも馬の骨にはならなかった。今でもあまり好きではない。

総括して、相も変わらぬ文化への耽溺具合であるが、統一感がないのに文化に詳しいかたは気づいていただけるだろう。この弱点を克服したくなるのは当然のことだ。中学生時代はこの弱点の克服の土台づくりへと向かうことになる。

中学生:アシッドな性感覚、美へのツリー欲求、創作への意欲

中学生を始めに総括してしまうと、「美への感覚と欲求」であった。
ほんとうはもっと後ろ暗い出来事が山というほどあった時期ではあるのだが、ここらへんあたりが現在の大陸哲学への意欲やイラスト描きや音楽への欲求の源泉になっているのはハッキリ言って事実だ。では何をしていたか。

小説に関しては、あれだけ大量に読んでいたのをぱったりやめてしまった(今でも後悔している)。詩集なぞがあるような高等な地区にある公立中学校ではなかったので、詩にふれるべくもなかったのは致し方あるまい。ただ、ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』はずっと読んでいた。訳に拘りが出てくるくらいには読んでいた。

それで、ここからが本番なのだが、美術に興味が出てきた。たぶんこれは、中学生になって見た目や格好に気を使うふつうの女子中学生とは違ったアシッドな美的感覚の発露だと思う。まず何をしたかというと、西洋美術史を美術の授業で個人的に満点を叩き出すくらいにまで徹底的に学習した。今でもある程度は暗唱できるとおもう。あとは、それらの絵画作品を下手で何も判らないながらに模写したりしていた。……多分あまり効果はなかった。なぜかというと、高校生時代にもデッサンをしたり、その後も不定期に絵を描く日々があったにも拘らず、伸びが一番いいのがhide channelのオンラインサロンである程度情報を集めながら練習をしている今だからだ。ただ、この偏愛がその後の哲学への興味に繋がるのなら、それはきっと無駄ではなかったのだろうと当時を回顧している。

なにかを作りたいという欲求はこの時代からあった。とは言え、漫画とか絵とかそういうのであって、小説とかではなかった。

音楽は、もう細野晴臣にぞっこんだった。坂本龍一とかではなく細野晴臣というのがわたしのパーソナルを端的にあらわしているような気がしないでもないが……この細野晴臣は音楽というフィールドに拘りながら様々な仕事をした人だ。その後の人生にも大きく色を遺すことになる。今でも好きだ。(Spotifyで流れてきた謎のトラックメイカーと仕事してたアレは80近くとは思えないクールさだ)

あとなにか言うべきことがあるとするならば……ひたすらインターネットの「キニ速」あたりでエロ画像を漁ってたあたりか。巨女からロリまで何でも漁ったなあ。男の娘もゲイコンテンツもなんでも漁った。ちんちんもまんこも全部がエロかった。貧乳も巨乳もそれぞれよかった(総合的には巨乳が好きだが)。わたしのクィア性があるとするならば、何に担保されているかというならばここらあたりのやや異常性癖っぽい画像蒐集に尽きるはずだ。

高校生~大学中退:感覚の洗練、方法論の追求、創作のつぼみ

高校に入ってから、禁止されているはずのTwitterで松下哲也氏のツイートに出会った。彼のツイートは全てが新鮮だった。松下氏が行っている、その営みを「美術批評」と呼ぶことをじきに知った。
その時わたしは理系志望だったが、軽くでいいか、という思いで人文系の学問をやろうという気持ちが起こるのは不自然なことではなかった。そういうわけで、わたしの高校時代は批評がじつは軸になっている。ただし、ポップカルチャーとハイカルチャーを漸近させたものだ。

音楽に関しては、相も変わらず細野晴臣天国だった(中高生時代を彼に漬かって暮らせるくらいには細野晴臣の懐と曲は多いし大きい)。しかしここにVaporwave類が加わってさらにカオスなことになる。このあたりの時期はまだArtzie music やReal Love musicなんかのYoutubeチャンネルが機能しており、ディグが下手でもうまい具合に脂の乗ったアーティストを探せたものだった。今ではもうFuture funkの良いアーティストはみんなハウス・テクノに回収されてしまった感じがあり(VantageだったかがNever Dullと仕事していてたまげた)、その他はその他でなんだか判らんことをやっているので、豊平区民氏がインタビューで言っていた「テクノのいちジャンルになる」という予言が成就したという形になるのかなと思う。ディグはYoutubeの代わりにSpotifyとかになり、本当に時代が変ってしまったなあ……と思う。

美術は、現代美術を拙いながら覚えた。どれくらい覚えたか判らんが、マウリツィオ・カテランはぎり知らない感じだ。わたしの高校時代の美術家の知識は専ら横浜トリエンナーレ出品者に偏っていて、ヘルマン・ニッチュあたりなんかはややハマった記憶がある。なんなら当時作ったキャラクターに彼の意匠を入れ込んだと思う。

ここで新しく哲学が加わる。何を読んでいたかというと、英米哲学が主なのだ。あとは小田部胤久の『美学』を頑張って手に入れた。これはほんとにいい本なので皆さん頑張って手に入れてみてください。
じつは永井均なんかにハマってた時期があるんだなァ。当時を回顧してみても懐かしい。今は恥ずかしくて売れるものはすべて売ってしまったけど。後半にもなるとレヴィナスをなぜか(友人の勧めだったかな)読んだ。骨が難くて読みづらかった!しかしこの読みづらさが単純に病状の問題であることと知識不足であることに後のわたしは気づく(ドゥルーズのシネマを通読した時間は多分1、2併せて5時間くらい)。

相も変らず小説を読んでいない。というか文学批評を重要だとまだ思っていない。なんだかわからん小説をいくらか買ったくらいだ。でもそのわからん小説のいくらかに今でも助けられている。円城塔なんかは割と好きだ。

さて、ここで高校を卒業して、大学を目指そうという段になった。本当は多摩美の批評家育成コースなんかも狙える成績だったが、家に金がない。仕方なしに上の大学を狙うことになった。当時は檜垣先生や貫先生、宮﨑先生なんぞの綺羅星を知らなかった上に彼らは旧帝に分散していたので……。まあ御子柴先生なら安心だろうと思い早稲田大学の文化構想学部を狙った。ハッキリ言うと、受かれる器ではあったろうと思う。というか健康であれば100%わたしは旧帝、もっというと東大なんぞに行けていたのだ。全日制時代の先生はわたしが京都大学を狙えると暗に言っていたし、これは疑いない事実だ(訴えたとて致し方ないが)。しかし疾患が許さなかったのだ。
戯れに参加していたフランス語学習でも、語学界隈を戦慄させる成長速度であったという。いやこれわたしのことね。マジらしいです。本当にビビっていたらしい。まあ当時のメンヘラだったわたしにみんな辟易して離れてしまったが……。しかしメンヘラ時代でもここまでの成長速度と賢さを叩き出せたのだ。わたしがアカデミアに行かないのは日本の学問にとっては勿体ない話かもしれないが、これはある種の僥倖と捉えて、インワイなことをひたすらやろうと今では切り替えている。

そして現在へ:花開く創作、奔る問題意識、追いかける背中

じつは高校生の時分に詩や短歌を詠んでいたのだ、ということに気付いたのは2023年は12月。入退院を1~3月に済ませ、トホホ~もう入院はコリゴリだにょ~となりつつ寝たきりの状態からやっと這い上がったくらいだ。

とにかく金がない。そんな意識に苛まれながら(結社に入るのには金が要る、投稿雑誌を買うには金が要る、郵便を出すには金が要る)、とにかく多媒体に出した。小説も書いた。絵はうまくなるためにオンラインサロンに入ってたくさん描くようになった。短歌はもっとたくさん調べるために図書館でたくさん本を借りた。詩作の手つきを知るために投稿作を見たりTwitterで交流するようになった。

そんな、立ち上がれるようになったわたしの現在の好みは以下の通りだ。

まず小説。これはときを超えて再び読むようになった。江國香織が好きなんだろうなァとなんとなく江國の重複から察している。あと古典的で好きなのは岡本かの子とか川端康成、あとは圧縮の手つきが何気にすごいのは北杜夫だと思っている。武田泰淳は読書会で知って好きになった。あとは鈴木光司の小説がうまい!ことに気づけたのも読書会に参加してよかった点かな。

つぎに、アニメ。2月から声優の教室に入って、多少なりとも演劇にふれるようになってから演劇としての側面を理解するようになった。『魔法少女にあこがれて』は凄まじい傑作だと思うし、『ぼっち・ざ・ろっく』はよく髪を切りにいく下北沢が舞台で親しみやすいのと、あとは後藤ひとりが超人的なギター練習時間で(これより上の人間はレッド・ツェッペリンのギタリストとかあとはジミ・ヘンドリックスくらいではないか)圧倒されたなあという感覚、声優の演技の質感、あとは空間形成の妙が絶妙に混じった傑作といった感想だ。アプリでハマりすぎたウマ娘はうーんといった感じ。『逃げ上手の若君』はもう言う事ないでしょう。アニメーターが自分の仕事上げてるアニメは神ですよ。劇場版ウマ娘も絶対に神でしょう。わたしはウマ娘の仕事をその時しててイレ込んでたから見なかったけど。

映画なんかも実は見ていた。U-NEXTは安定して傑作を見られるが、アマプラはたまに上がってくる傑作が面白い。
フェリー二は安定に『道』と『8 1/2』が好きです。というかあれは作品が好きというよりカメラワークが好きというべきだ。あの画面すべて(エキストラまで!)支配してしまう媒体はどこか短歌的というか。寺山修司の最もよく知られた仕事の内ひとつが映画であるのはさもありなんといった感じだ。
あとは勅使河原宏作品『砂の女』を見た。安定に好き。勅使河原宏はあれは結構有機的であったり作為的であったりするカメラワークの使い分けが面白いと思う。まあ他にも色々見られるし見ているがとりあえず一旦はこんな感じ。

音楽は、もう今までの遺産を食いつぶしている感じなのです……まあディグ自体はちびちびやっていて、YaejiというなんかBoiler RoomでWiiのテーマ流したすごいDJのトラックは割とすき。ハウス・テクノをほっていますね。自分の好きなやつが4つ打ちの伝統テクノというよりはブレイクコアであったり陽キャっぽい音楽であることに気づいたので、DJとしていずれ花開くときのためにハコの研究をするつもり。ちなみに、渋谷系時代からDJをやっていた(コロナでやめちゃった)美容師さんの意見的には、「Mograが一番音を聞くハコでおすすめだぞ」とのこと。しかしインターネットの民はモグラはカップルがいちゃついていて居られたものじゃなかったというのだ。ちょっと判らんよなあ。とりあえずいろいろ行きます。

短歌はね、吉田隼人の第一歌集が好きだ。あとは葛原妙子的な歌人がいないかと募ってみたら上がってきた水原紫苑とかあたり(春日井建の門下らしいので春日井の短歌も読むつもり)の詠みが好きだ。

あと詩に関しては、蜆シモーヌ、帷子耀、広瀬大志、安定の伊藤比呂美、あと諸々……といったかんじだ。

最後に、これだけは言及しておかなきゃならないけど、寺山修司にふたたび出会ったことは大きい。始めは競馬エッセイのおっさんていどの扱いだったのだ。それが、やりたいことが明確かつ多岐化するにあたって、寺山修司の問題意識にぶち当たることが多くなったのだ。わたしがかかえている問題意識の多くは寺山修司と共有されている。つまり、乗り越えなくてはならない壁として、あるいは愛すべき背中として、寺山修司がそこにいる。
きょうもきっと国会図書館のデジコレで、寺山修司の対談を探してしまうのだろう。でもきっとそれは、未来への超克であって、わたしの現在の偏愛なのだ。

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