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初期異邦人報告書の間に挟まってたやつ
こちらは異邦人報告書を最初に書いた時に、本を「異邦人オタクのキモめの権威のあるおじさん」が書いたという体にしたくて、報告書の間に挟んでいた文章です。
第三者おじさんが勝手に妄想していることなので、合ってるかはわかりません。
でも、この世界線の中の人が書いた本ということなので、周り(おじさん)からどう思われているかわかって面白い。かもしれない。
「親愛なる隣人たちへ」
はじめに
この本は、私が長年研究してきた「異邦人」に関する資料と、考察を含むものである。
その存在が現れた時、この世は震え、歓喜し、畏怖し、その未知との遭遇を果たそうとする者、己から遠ざけようとする者が現れた。私は、このような本を出版しようとすることから分かる通り、前者の一員である。未知を探究するものとして、意思を同じくする者、恐れ触れることを躊躇う者にこの一冊が届き、「異邦人」に対する知識を持つ者が増えることを期待する。
「異邦人」という言葉に耳慣れないという人は、後述する用語解説を読んでから、本文を読むことを推奨する。
また、これは私の個人的な考察が含まれるものである。国家指定の異邦人研究機関文書を一部抜粋し、私個人が考えた「異邦人」とそれを取り巻く存在について考えたものが、この文書であるということを留意して読み進めてほしい。
「異邦人」とは
ここでは、本書を読み進めるにあたって必要な、最低限の知識を書いていく。小難しい言葉は読者を混乱させるだけだと、私も承知しているため、ここでは国家指定研究所が規定している説明よりも、大分砕いている。
異邦人(いほうじん)
人類が文化活動を行い、共同の思想を持つことによって、その思想が凝り固まって自然に発生した存在。正式名称は「非生態系所属生命体」。現在、異邦人が人類に直接的に危害を及ぼす事例は見受けられていない。しかし、万が一の時の民間人の危険察知のため、現在日本に保護、管理されている異邦人は「異邦人と分かる姿形をすること」が義務付けられている。
特別異邦区域(とくべついほうくいき)
世界各地にあるとされる、異邦人が隔離され、保護されている区域。日本では今のところ、●●県●●区に位置するとされているところのみ、確認されている。訪れてみると、トタン板が張り付けられた一室四畳半程度の二階建てアパルトマンがあるが、そこで生活しているかは定かではない。建物の名前は、通称「Apartment étranger」である。
(『人魚王』の報告書を読む)
全ての始まり·メイルストロム
本書ではこのように、異邦人に関する、国家指定研究所の報告書の抜粋、次に私の考察を述べていく形で進んでいく。
人魚王メイルストロムは、我々人類を震撼させた張本人である。本書にしても、他の異邦人関連の書物にしても、彼を冒頭に持って来ていないものを、私は未だ見た事がない。彼の登場は、言うなればはるか昔に過ぎ去った初恋がもう一度訪れたかのような衝撃を我々に与えた。それはまさしく人生を変える、「異邦人」に対する恋だったと言えるだろう。
人魚王の口ぶりからすると、異邦人というのは、我々が視認するよりもはるか昔から存在していたようだ。恐らく異邦人たちは、何らかの理由で我々人類の目を憚って生きてきたのだろう。そう考えると、人魚王メイルストロムは、この報告書から伺える以上に勝手気儘でマイペースな異邦人なのかも知れない。しかしこのメイルストロムの性格のお陰で、我々は異邦人という存在を確認する事ができたのだから、感謝しなくてはならないだろう。
さて、メイルストロムが海の中で日常的に見ていた人間、そして初めて見た人間というのは、どう言ったものだったのか。それは明確である。前者は漂流してきた水死体。後者は恐らく、自動車で煉炭自殺を図り、何らかの理由で海中に墜落した死体であろう。彼は、海で生きていた間、一度も形を保った人間を見た事がなかったのである。自身は人間の思想から作られた種族であるというのに、自分の形を知らなかったというのも同然だったのだ。そして彼は未知の形に触れ、自分の形に触れ、陸という可能性に目を向けるようになった。それは、私たちが異邦人という存在を初めて目にした時の衝撃と似たようなものであっただろう。彼の衝撃は私たちにも衝撃を与えたのだ。
「人魚姫」と「人魚王」
メイルストロムの集落にいるという「魔女」について考察をしてみよう。
魔女とは恐らく、我々の良く知るハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話「人魚姫」に出てくる、人魚姫の歌声を奪ったあの魔女であろう。
「『それから、わたしにはらう代金のことも、忘れちゃこまるよ』と、魔法使いは言いました。『なにしろ、わたしのほしいってのは、ちょっとやそっとのものじゃないからね。おまえさんは、この海の底のだれよりもきれいな声を持っている。その声で王子の心をまよわそうってつもりなんだろうが、じつはその声を、わたしゃもらいたいのさ。
だいじな飲みぐすりをやるんだから、そのかわりに、おまえさんの持っているいちばんいいものを、もらいたいってわけだよ。なにしろ、飲みぐすりが、もろ刃のつるぎのようによくきくようにするためにゃ、わたしゃあ、自分の血を、その中へまぜこまなきゃならないんだからね』
『でも、あなたに、この声をあげてしまったら、あたしには、いったい、何がのこるんでしょう?』と、人魚のお姫さまが言いました。
『おまえさんにゃ、きれいな姿と、軽い、じょうひんな歩きかたと、ものをいう目があるじゃないか。それだけありゃ、人間の心をまよわすことができるってもんさ。
おや、おまえさん、勇気がなくなったかい? さあ、さ、その小さな舌をお出し。くすりのお代に切らせてもらうよ。そのかわり、よくきくくすりはやるからね』
『いいわ、どうぞ』と、人魚のお姫さまは言いました。
魔法使いは、なべを火にかけて、魔法のくすりを作りにかかりました。
『まず、きれいにしてとね』
魔法使いは、こう言って、ヘビをくるくると結んで、それで、なべをみがきました。それがすむと、今度は、自分の胸をひっかいて、黒い血をなべの中にたらしました。すると、そこから湯気が、もうもうとたちのぼって、なんともいえない、気味のわるい形になりました。
そのようすは、まったくおそろしくて、ぞっとするほどでした。魔法使いは、ひっきりなしに、なべの中に新しいものを入れました。やがて、それがよくにたつと、まるで、ワニの鳴くような音をたてました。こうして、とうとう、くすりができあがりました。見ただけでは、まるで、きれいにすんだ水のようでした。
『さてと、できたよ』と、魔法使いは言いました。そして、人魚のお姫さまの舌を切りとりました。これで、お姫さまはおしになってしまいました。もうこれからは、歌もうたえませんし、ものを言うこともできません。」ハンス・クリスチャン・アンデルセン「人魚姫」
このように、原作では声帯ではなく、舌を切られている。しかし、現代では、残酷な描写に対する風当たりが強く、良く出回っている話は、声帯を奪われた、歌声を奪われたなどのあえて柔らかい表現に置き換わっている事が多いように思う。代償と共に力を得る、という話が、巡り巡って「不完全な力を得る」という集落の魔女の事実になったのであろう。このことから、我々人間の時代の流れによって揺れ動く思想が、リアルタイムで異邦人たちに反映しているという事が分かる。メイルストロムに与えられた薬の力も、原作の人魚姫と違い、ただ欠陥があるというだけの物になっている。それが欠陥なのかどうかすら、我々には分からない。見様によっては、原作の「人魚姫」での薬が持ち合わせていなかった「人魚への可逆性」を持つ完璧なものであるのかもしれない。もしも完璧な薬であるとするならば、その代償は計り知れないだろうが、彼がそれを支払った様子は見えない。しかしもしかすると、彼は既に大きな代償を払っているのかもしれないが、遭遇以前の彼を知らない我々にとって、いくら考察しようとも、想像の域を出ない。
研究所の職員によると、彼はそのおっとりとした性格と、一族の長を務めていると言うことを加味されて、危険度をBに設定されているという。おまけに、彼の舌や臓器は青く、彼の言う「下手くそな変身」と言うものの意味がよく分かるそうだ。そう言った話を聞くと、彼が本当に人間を見た事がないまま変身し、今に至っていると言うことを実感させられる。
ちなみに最近の人魚王の趣味は、人間の現代の文化、特に甘味を追いかけることだそうだ。定期検診でも体重が一切増えていないため、気にしている人にとっては羨望もしくは嫉妬のまとになることは間違い無いだろう。
(『蛇王』と『夢魔』の報告書を読む)
放浪する蛇
実は私は、この「蛇王」バジリスクという異邦人に会った事がある。それは、ある駅の構内でのことだった。広いロビーのような、待ち合わせ目的の乗客が多く混在する場所に、私は立っていた。次の電車の時間まで微妙に空いた時間を、ホームで過ごすか、喫茶店にコーヒーを買いに行くか決めあぐねているところだったのだ。彼は、なかなか進もうとしない私を見て、ニヤニヤと満面に笑みを湛えながら「君は電車が好き?」と聞いてきた。ずいぶん派手な格好をした男がいたものだと、当時無知だった私は思う。彼は全身に白い刺青を入れていて、派手な色のジャケットと、挙げ句の果てには首に王冠を巻いていたのだから。しかし、今ならあの時の王冠が、彼を王たらしめる呪いのような要素の一つであると断言できる。突然のことに驚いている私に、バジリスクは立て続けに「君、どこまで行くの」とまた聞かれた。周囲を見回しても、どうやら彼の視線の先は私のようである。とそこまで考えた時、バジリスクは私の隣にすっと立った。その時、確かに彼から蛇のようなしなやかさを感じたことを、よく覚えている。
彼はそのホームで、道ゆく人に行き先を聞いていたそうだ。特に何と言うことはないけれど、人と会話することは、おしゃべりが好きな自分にとってみれば、最高に面白いのだと言っていた。私はそんな彼を嗜好を変えたフリーハグのようだと思ってはいたが、私からしてみたら理解し難い理由でそんな行為をしている輩を不審に思うのは当然だろうと思う。私は、適当に自分の降りる駅の一つ前の駅を答えた。すると、その瞬間、今まで気前よく話していたバジリスクは、じっと目を細め、私の頭の先から爪の先までを、読み取ろうとするような視線で見透かした後、「そう」とだけ言って、また爬虫類のようなしなやかさで去っていったのだ。その時私は分かった。彼は、私の嘘を見抜いていたのだと。私は王の興を削いだのだと言うことが、その時でもまじまじと私の全身に伝わってきた。
蛇という生き物には、ピット器官という特殊な感覚器官がある。彼はその器官を持っているのではないだろうか。人体に関する研究で、「ピノキオ効果」と呼ばれるものがある。嘘をつくと額の温度が1.5度上昇し、鼻の温度は1.2度下がるという研究だ。人の嘘に関する研究はいくつかあるが、バジリスクは、その身で私の嘘を感じていたのではないだろうか。人間と話すのが好きだという彼は、長い長い人生の中で、本能的に嘘を感知できるようになったのだ。各地を放浪する蛇は、人間の思考によって作られ、人間を言葉もなく理解する。それほど人類の波に揉まれ、分かってしまうほどに嘘をつかれていたのだろうと思うと、自分の身を守ろうとしたことのはずなのに、何かすごく悪いことをしてしまったような気がしている。
異邦人の名付け
この二つの報告書では、それぞれがお互いのことについて述べている。
バジリスクの「夢魔」ローロに対する発言からも、彼は大きな孤独を抱えているようだ。ローロのバジリスクに対する印象からも、「蛇王」はかなり手厚く育児を行なっていたようだ。
異邦人の名付けとはどのようなものなのか、この二つの報告書を見比べれば、いくつか分かる事がある。
この文書にもある通り、ローロの名前はバジリスクがつけ、「鸚鵡」という意味を持っている。鸚鵡は、自分の番を見つけると生涯その番と共に生き、子供ができると、その子供もなかなか親から離れそうとせず、成熟が遅れるという性質を持っている。報告書にもある通り、ローロは愛の種類というものを理解していない。このようなことを述べている私は愛の種類が理解できているのかと言われると、それはよく分からないという他ないが、ローロという異邦人は確実に、家族愛というものと、恋愛感情というものとの違いを理解していないように見える。「夢魔」ローロにとって、愛とは一つしか存在していないのだ。恐らく彼が認識できるものは、彼のいう通り、「性欲」と「食欲」だけで、もっと言ってしまえば、彼にとっては性欲も食欲も、どちらも「食欲」に分類されるものなのである。「夢魔」としての本来の彼は、「食欲」だけを認識する装置であったが、バジリスクが「鸚鵡」という名付けを行なったことにより、本来の鸚鵡はどうあれ、「家族愛」のような要素を持った「鸚鵡」の異邦要素が追加されてしまったのではないだろうか。そのことにより、完璧であったはずの「夢魔」は「ローロ」になったのだ。自身の孤独を埋めようとしたバジリスクにとっては、現状はどうあれ、いつくるとも分からない最期の日に隣にいてくれるであろう存在を生み出したという、奇跡の偉業なのであろう。
(『ブラッディ・メアリ』と『家鳴』の報告書を読む)
思考の集合体である異邦人
ここに登場する異邦人の「ブラッディ・メアリ」と「家鳴」の存在は、対照的であると言える。古来より存在し、「誰かに愛されるもの」という概念が固まった「ブラッディ・メアリ」と、イレギュラーに生まれた、忌み嫌われる「騒音」という概念が固まった「家鳴」。そして彼らの、現在自身を取り囲んでいる状況ですらも対照的である。
情報提供をしてくれた研究員によると「ブラッディ・メアリ」は、あまり長時間鏡の外に出ることはできないのだそうだ。最長でも3時間。その間に鏡に戻らないと、彼女の細い腕に、誰かが掴んでいるような痣が確認されるという。「愛するもの」を自身のそばに縛りつけようとする強い執念が、彼女を離さないのである。たった一人に愛され、遠くに行けない、籠の鳥のような存在が彼女なのだ。
対して、「家鳴」ネイバーは、元は忌み嫌われる存在であるにもかかわらず、現在彼女を取り巻く環境は非常に良好である。本書を書くにあたって、私は特別異邦空域があるとされる●●県●●区に取材に行った。案外その場所は簡単に見つかり、近隣住民にも話を聞く事ができた。そして分かったのは、ネイバーという少女を非常に可愛がっている住民が非常に多く存在するということ。彼女の快活な性格と、持ち前の「既視感」が相まって、彼女は自身の周囲に良好な人間関係を築き、地域住民のコミュニティにも進出していたということである。環境庁における騒音の定義とは、以下の通りである。
環境基本法(平成5年法律第91号)第16条第1項の規定に基づく騒音に係る環境基準について次のとおり告示する。
環境基本法第16条第1項の規定に基づく、騒音に係る環境上の条件について生活環境を保全し、人の健康の保護に資する上で維持されることが望ましい基準(以下「環境基準」という。)は、別に定めるところによるほか、次のとおりとする。
第一 環境基準
《中略》
2 1の環境基準の基準値は、次の方法により評価した場合における値とする。
(1)評価は、個別の住居等が影響を受ける騒音レベルによることを基本とし、住居等の用に供される建物の騒音の影響を受けやすい面における騒音レベルによって評価するものとする。
この場合において屋内へ透過する騒音に係る基準については、建物の騒音の影響を受けやすい面における騒音レベルから当該建物の防音性能値を差し引いて評価するものとする。
環境庁が定めている通り、騒音というのは家屋に侵入する音のことである。推測するに、ネイバーはその特性を引き継ぎ、家屋、つまり人の家庭に入り込んでいく特性を新たに獲得しているのではないだろうか。先に述べたように、名付けによる効果も考えられるだろう。ネイバー(Neighbor)つまり隣人。彼女は生まれたその時から全人類の隣人であり、愛されるものになりうる可能性を秘めていたのだ。そして、彼女は実際に人々からの信頼を獲得し、現在進行形で愛される存在になったのである。
「かつて誰かに愛されたもの」マリーと、「今、誰かに愛されているもの」ネイバーは、出会うべくして出会った、対照的な存在だと言えるかもしれない。
生活を営むもの
彼女らは、特別異邦区域、アパルトマン・エトランゼの唯一の女性陣である。政府組織である非生態系所属生命体管理局に所属する唯一の女性局員、姫川氏に話を聞いてみると、彼女らは互いに姉妹のように接しているという。マリーが姉、ネイバーが妹である。彼女らのそんな姿を見ていると、異邦人であるということはどうでもいいのではないかと思う、と姫川氏は言う。そこに存在しているという事実が、今生きている人にとって最も大切なことなのではないか、その平等な面を見ていくべきなのではないかと考えているようだ。
アパルトマン・エトランゼでは、普通の人間と同じ、とまでは行かなくとも、確実に生活が営まれている。異邦人たちが我々と同じ生態系に所属していなかったとしても、隔離までする必要があるのだろうか。そう思うことは私にもある。しかし、異邦人という存在は、その根拠も解明されておらず、野放しにしていいという確証もない。我々は彼らのためにも、いち早くその存在を解明していかねばならないのだ。
最後に
我々と異邦人の関係は、非常に密接であると言える。私が、鮮烈な恋のような感情と対象に対する興味を覚えたのは、彼らと言う存在が、人類の文化活動の残滓のような存在であったからなのかもしれない。人間が嗜好を凝らして作り上げた、何千何万という域には収まらないほどの文化の中で、人々に多く知られ練り上げられてきた存在というのが、異邦人なのだろう。彼らは、文化という知性を獲得した人類への、神からの贈り物なのだと私は思っている。
本書を作るにあたって、私は数え切れない人と対話をした。その中には当然ながら、恐れる人もいたし、私の書籍化という行為について咎める人もいた。この未知の事象をそもそも文章化すべきではない、不吉だと、その時点から私と意見が食い違っている人もいた。しかしそれでも、私が本書の執筆をやめなかったのは、異邦人という文化の結晶を、人類が認めない理由がないと思うからである。異邦人とは文化そのものであり、決して不吉などではない。隅に追いやられるべき存在ではないのだ。
私の人生において、二度目の大きな春をもたらしたこの存在は、私にとって大きな存在であると言わざるを得ない。そのことによって、この恐ろしげで未知の存在を贔屓目に見ていると思われても仕方がないだろう。それでも私は、限りある人生をこの春のために過ごしたい。私が生きている間は彼らが生きていて、追いかけることでいつまでも人生に春が来るというのなら、私はずっと追いかけていたい。生きる文化、と言って差し支えない彼らは、私の夢だ。人類の誇りだ。文化、伝承、伝説、神話という共通認識が形作る生命は、一夜では辿り着けない。我々の先祖が考えた物語が、我々の代になってついに形を見せた。時代を超えた絆が、今この世界で結ばれているのだ。これ以上の奇跡が、どこにあるというのだろうか。私は、今この時代に生を受けた事に非常に感謝している。異邦人という存在が、今の私の人生を照らしている。
文化的価値のあるこの存在を日陰においておくことは、人類にとっての損失であり、愚行である。いち早く日の目を見せるため、私はこの筆を取った。願わくば、本書を手に取り、私のこの暑苦しいほどの情熱は抜きにしても、「異邦人」という存在をより知ってもらいたい。