人の命が奪われるとは
映画『VOUS N'AUREZ PAS MA HAINE(原題)』を観てきた。
映画館に入る前、平日の昼間の平和な日本の通りの景色を見て、ああなんてのどかで人間の息遣いにあふれているのだろうと思った。
誰も血を流していないし、誰も銃を握ったり激しい口論をしている人もいない。
対極にある暴力を見て、自身の身を置く世界を正当化しているだけだろうか。マズローの欲求段階説のピラミッドでいうところの低次の何かを見て、束の間の間高次の何かを忘れているだけだろうか。
ふと、ウトヤ島の銃撃事件を題材にした映画を思い出した。
あの映画も衝撃的だった。
安全、命、暴力、テロ、人間、人生、、
どう考えれば、どう向き合えば。。
前述の2つの作品はどちらも被害者・被害社会側の視点だ。ただ、(どちらの味方をするかどうかという意味ではなく)1つの出来事に対して視点は必ず複数ある。事実は1つでも真実は複数ある。別の視点からでしか気づけないこともある。
そして、ガザを描いた『ガザ・サーフ・クラブ』も頭をよぎったり。
暴力と加害と被害と、それらが起きた場所や起こした人と、そこに絡みつくたくさんの思惑や政治的要素と、私たちはそれらを注意深く区別して考え続けないといけないわけだが。
ただ、私が(少なくとも今は)安全な場所で呼吸をしているこの瞬間にも、誰かの命が吹き飛んでいることは紛れもない事実で。
それらすべてに向き合おうとしたら、頭も心もいくつあっても足りないわけで。でも、触れないわけにも考えないわけにもいかないし。
そんなとき、「日常」というのは大きな支えになる。普段はつまらないルーティーンのように感じられることもある日常の繰り返しは、大きく揺さぶられた人間が自身を取り戻すための/保つための大きな拠り所(エンジン)となる。
'23/11/14 最終更新