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和歌山への帰省 そこで気づかされたもの

2019年が終わり、2020年が始まった年末年始。
私の故郷、和歌山に帰省して、ふと感じたことがある。

東京と和歌山(地元は和歌山の中でもさらに山がちな地域)の違い、都会と田舎の肌触りの違い、
とでも言えるだろうか。

 

以下、地元にいて気づかされたことを、4つばかり書き出してみた。

 

1. 時間の流れがゆったりに感じる。

これは世間一般によく聞く感想で、もはや常識とすら言えるかもしれない。
自然の多い田舎に行くと、沖縄に旅行に行くと、ゆったりさを感じる、などとよく言われる。

自分もたしかにゆったりさを感じた。

でも、この「ゆったりさ」というのは当たっているようで、微妙にしっくりこない。
なんだろう、この正体は?

 

まず、1つ確実に言えるのは、田舎は
電車の本数もすれ違う人の数も娯楽施設の豊富さも街中に流れる広告もその地域を起点に発信されるネット情報も、
圧倒的に量が少ないということだ。

いや、都会のそれが多すぎるから、それに比べ少なく感じるだけかもしれない。

電車が多い、情報も多いというのは一見していいように思えるが、それはすなわち常に何かを考えざるをえない状況に置かれているということでもある。

 

実際、私たちは多すぎる情報や娯楽や消費行動に溺れている。
自覚していないだけで。

そういった意味では、田舎に身を置くと頭の中がスッキリし、少なくとも陸に上がって肺呼吸ができるようになるのかもしれない。

 

2. 全能感を削ぎ落とせる。

私は、いわゆるペーパードライバーだ。
ペーパードライバーではあるが、東京にいる間は電車と徒歩で大抵の移動がこと足りるので、何不自由ない生活が送れる。

時間をコントロールし、縦横無尽に動き回れるような錯覚に陥る。

 

だが、今回帰省して、自分の無力さを否応なく突き付けられた。

何しろ、移動の足は一日5往復ほどしかない町バスと、1~2時間に1本しか来ない電車くらいしかない。
車を持たない、運転もできない自分は、途方もなく「無力」なのだ

 

都会は便利すぎる。

便利すぎて、何でも自分でできるという全能感のようなものに侵されやすい。
テクノロジーや環境が整っているだけなのに、全部自分の能力で生きているように錯覚してしまう。

 

でも、本当はみな無力だ。
ポンッと何もないところに放り出されれば、圧倒的に無力な自分の姿を、まざまざと見せつけられるだろう。

それは逆に言うと、オーバースペックな自分像を正し、また常に効率的でハイスペックであれと迫られるプレッシャーから、解き放たれる瞬間なのかもしれない。

 

3. 知らない人との距離が近い気がする。

近いというか、親しみを抱きやすいという表現がいいだろうか。

 

これは、関西だから土地柄ではないか?と言われるかもしれない。

否定はしないが、やはり人が多すぎず、互いに何かしら関わりを持たざるを得ず、知らない人とも助け合ったり世話を焼いたりすることが、一つの理由ではないだろうか?

 

実際私の地元では、赤の他人にすら抵抗なく挨拶を交わす。というか、そういうもんだという意識がある。
(特に小中学生の時はそれが‘普通’という感覚で実践しているので、自然と身に付くという背景もある)

人が多すぎると、関わる人をより一層選別できるし簡単に切り離せる。
いわゆる‘スレた’状態に陥り、人間に対する愛着が薄まるような気がする。

 

都会人は、知らない人と喋る・関わることに、必要以上の恐怖を持っているような気がする。
上京して数年で、私もその雰囲気に取り込まれてしまった感がある。

ある時、朝の満員電車で急に倒れた人がいた。
倒れてから10秒~20秒ほど、周囲にいた誰もが一様におろおろするばかりだった。
私も「誰か顔ペチペチして意識あるか確認してください」と言えればよかったものの、結局何も言い出せなかった。

間もなく本人が目を覚まし、自分で起き上がり次の駅で降りられたので大事には至らなかったのだが、
車内の人が実際に起こした行動は、非常ボタンを押すことと、私を含め数人が体調を気遣う声をかけるくらいだった。

 

無論、満員電車で多くの人が緊張・ストレス状態であったこと、誰もが慌てるシチュエーションであったこと、不測の事態への対応は日頃の訓練や慣れがものをいうこと、傍観者効果等は、少なからず影響していると思う。

ただ私は、「知らない人」との関わり方が想像以上に下手くそで不器用になってしまっている私たちの実態が、如実に露呈した出来事ではないかと感じてしまった。

人が多すぎて、知らない人と関わることへの興味やそこにリソースを割く余裕が失われ、むしろ疲れや忌避感を感じている自分たちがいるのではないかと。
それにより、無意識のうちに得たいの知れない壁を築いて日々生活しているのではないか、と。

 

これは、普段通りの生活を送るだけなら問題ないかもしれない。

ただ、今回のように他人が窮地に瀕した時、他人とトラブルになった時、たまたま空間や時間を共有した他人と関わる時、
ガラガラと音を立てて私たちの未発達な部分、「ほころび」のようなものが顔を見せる気がするのだ。

 

4. 静けさがある。

東京にいて強く実感するのが、静かに電話できる場所がないこと。
地元なら、屋外に出れば大抵適度に静かな場所が見つかる。
だが、東京はどうだろうか?

屋内もうるさいが、屋外も常に何かしらの環境音に支配されている。
日常において、静けさを感じる瞬間はまずない。

毎日生活を送っていると慣れっこになってしまうのだが、常にノイズにさらされているというのは想像以上にストレスとなる。

 

以前、『静寂を求めて -癒やしのサイレンス-』という映画を観たことがある。
あ、やっぱり生きていく上で静寂って必要だな、という肌感を、久しぶりに取り戻した覚えがある。

巧みに音を楽しみ消費しているつもりでも、実のところ、音に対する人間本来の感覚や感性は、鈍っているのかもしれない。

 

このように、今回、明確な結論が出たわけではないのだが、大切な気付きを得た気がする。
総じて言えることは、触れるひと、触れるものを減らしてみると、違うものが見えてくるということ。

私たちは、人としてささやかな幸せを感じ生きていく上で、本来必要な量を圧倒的に超過した何かに囲まれて、日々生きているのかもしれない。

 

2020/01/24 最終更新

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