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小説「喫茶ナゴリタン」⑦
七 冷めてもうまいコーヒー
カウンターの奥でマスターと話している女性には気品があった。特に着飾っているわけではなかったが、コーヒーを口に運ぶ佇まいに、それがにじみ出ていた。
一番印象的だったのはその声の良さだ。ラジオパーソナリティのように、穏やかな艶のある声。何か周波数にでも秘密があるのだろうか。心地よい声というのは離れていても自然と耳に届く。
「占いって仮に当ってなかったとしても、ある程度効果があるものなのよ」
「えっ、そうなんですか?」
「運勢を言い当てることなんかより、本音を引き出してちゃんと聞いてあげることの方がむしろ大事というか……」
「あぁ、カウンセリングみたいなことなんですかねえ」
僕がこの店に来たのは、学生時代の彼女と一緒に来て以来だと思う。少し座席のレイアウトは変わったような気がするが、雰囲気は記憶のままだ。
「お待たせしました、ブレンドになりますねえ」
「ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
コーヒーを持ってきたママは何も語らなかったけれど、少し含みのある笑顔を見せた。前に一度来たことを覚えているのかもしれない。
「あっ、あの時のお兄さんか」
マスターは急に思い出した様子で、こちらを見た。つられて良い声の女性もチラッと振り向いた。僕は反射的に軽く会釈した。
「いや、ほら、彼女がちょいちょいこの店来てくれてた……」
とマスターがママに目を向けると、
「わかってますよ……もう!そういう野暮な事は口に出さないでいいの!」
そう言うとママは少しわざとらしくうなだれて見せた。
その二人のやりとりがおかしかったのと、一度しか来たことのない自分のことを覚えてくれていたのが、僕はなんとなく嬉しかった。とはいえそれも元カノが常連だったおかげに他ならないのだけど。
「マスミのことですかね?今は内地で看護師してる……と思うんですけど」
「へぇ、そうなんだ」
「はい、でも最近は連絡してないんで、よくわかんないっす…」
「え?あぁ、そういうことだったのか……」
マスターはようやく状況を把握したらしい。
「なんか変な事聞いちゃってごめんねえ」
「いえ、もう三年以上?前のことなんで…さすがに気にしてないですから……」
声の素敵な女性は何も言わずに微笑んでいた。
確か三年くらい前にこの店に来た時は、ちょうど選挙期間で。その時の選挙で僕の親父は県議会議員に当選したのだ。
しかしすぐ数か月後に親父は辞職した。地元支援者の収賄スキャンダルが発覚したのだ。親父自身は潔白だったのだけど、大きくメディアに取り上げられたことで、党に迷惑をかけた責任をとらざるを得ない状況まで追い込まれた。
当時の僕は将来親父の後継となるべく、見習い秘書として働き始めたばかりの頃だった。だから新卒早々無職になったわけだ。しかもそれだけではすまない。顔見知りばかりのこの狭い街では「悪徳政治家の息子」というレッテルを張られて一生過ごすことになる。誰よりもその生き辛さを知っている父は、辞職の会見へ出かける前に僕にこう言った。
「お前には軍資金を少しやるから、しばらく県外でも海外でも行って何か好きなことを勉強して来い」
少し口ごもっている僕を見て、さらにこう続けた。
「大丈夫、これはちゃんとキレイな金だからさ」
作り笑顔を浮かべてそう言うと、僕の肩を叩いて玄関を出て行った。僕はあの日の親父の後姿が忘れられない。優しさと強さと、大きな悔しさを全部背負った後姿を。
その後僕は、比較的すぐに段取りをつけてオーストラリアへ向かった。学生時代に果たせなかった留学という夢が、こんな形で実現するとは夢にも思っていなかった。
「自分はちょっと海外に行ってたんすけど、急に親父が倒れたって聞いて急いで帰ってきて」
「あれぇ大変だったね……で大丈夫だったの?」
「はい、おかげさまで一命はとっくにとりとめてたみたいで。もう割と落ち着いた感じでした」
「そっかぁ。でも病院って居るだけでもちょっと緊張するような場所なのに、海外から駆け付けたんじゃ…心配したでしょう?」
「まあ、はい……だからほっとしたら、なんとなくコーヒー飲みたくなって」
「そうだ、お兄さんもユキコさんに見てもらったら?うちのダンナのおごりでいいから」
「えっなんで俺が!?」
「あったりまえよ、デリケートな話をズケズケ聞いたんだから」
「別に悪気はねーっつーのに……」
ママにやり込められ閉口したマスターを見て、ユキコさんという名の女性はクスクス笑っていた。
「あのー、ユタの方とかなんですか?」
「いえ、私はただの占い師ですよ、霊感とかその類はないんです」
どこか謙遜したような表情で、ユキコさんは首を横にふった。
カウンターの向こう側にはバツが悪そうに閉口したままのマスターと、目をそらしたままのママがいて。リアルな夫婦ゲンカの緊張感が漂っていた。そんな小さな沈黙をやぶるべく、僕は切り出した。
「あのー、ちゃんと自分でお支払いしますんで、見て頂いてもいいですかね?」
「えっ?本当に?」
「はい、ご迷惑でなかったらぜひお願いします」
「あぁ、私は大丈夫だけど……本当にやります?」
一瞬だけ、ユキコさんはマスターとママの顔色をうかがった。
「あぁ……でもすみません、ちなみにおいくらくらい……なんですかね?」
僕は慌てて財布を取り出しながら訊ねた。
「ん~、そしたら三〇〇〇円だけ頂いてもいいかしら?」
財布には五〇〇〇円札と一〇〇〇円札が数枚入っているのを確かめていた。
「よかった、それくらいなら大丈夫です。いきなりすみません、お願いします」
するとママが小声で教えてくれた。
「ユキコさんって普通に見てもらったら倍はするし、予約とれるの数か月先の凄い方なのよ……」
「えっ?そうなんすか?そんな方に……なんか不しつけにお願いしちゃったみたいで、すみません」
「ん~ん、気にしないでね。ここでお会いしたのも何かの縁だし、占いは思い立ったタイミングで受けるのが一番いいんですから」
そう言いながら、ユキコさんはカバンから黒皮のファイルを取り出した。
「じゃあ、まず生年月日と生まれた時間、場所をわかる範囲で教えてもらっていいですか?」
僕が生年月日を伝えると、ユキコさんは何かをスマホに入力してからメモを取り、皮の手帳をパラパラめくり始めた。
それから鑑定を受けていたのは三~四〇分程度だっただろうか。ユキコさんは僕の性格はもちろん、成育歴や、親父やマスミとの関係性、オーストラリアへ行った意味などを言い淀みなく言い当てた。時々どこを見ているのかわからないような表情を浮かべ、焦点の合っていないような視線を僕の方に向けてみたり、時折、何か深い記憶を思い出すように目をつぶったまま話をしていたのが印象的だった。
「大変だったと思うわ……」
そんな何気ない言葉をかけられた時に一瞬、胸を突き上げる強い感情が沸き上がった。気を抜いたら涙がこぼれてしまいそうだったが、少し口角を上げてごまかした。その一言で僕は、家族のことも、マスミとの出会いも、留学も、すべて深いところで肯定してもらえたような気になった。
自分は感情の起伏が少なく、比較的冷静な部類の人間だと思って生きてきたのだが。本当は自分の気持ちにフタをして、ちゃんと他人と向き合うことから逃げていただけなのかもしれない。冷静さというのは心をフタする重石のことであって、感情の起伏が少ないことと同じではないのだ。
「でね……今から六年後かな、ちょっと先だけど……当選するかも」
「父がですか?」
「いいえ、あなたですよ」
「え?は?マ、マジですか?」
「フフ…あなたが本当に政治に真剣になるなら、チャンスが回ってくるタイミングっていうだけのことよ」
「はあ……でも正直、自分は政治家って向いてるんですかねえ?」
「ええ、ちゃんとそういう星を持っているわよ。とにかく自力で生きていきたい気持ちの強い人だから……。逆に言うと、たとえ親であっても、お膳立てされた通りに進むことには抵抗感が強い面もあるかもしれないけどね」
「はぁ、確かに。でも六年後…か…近いような遠いような…」
「そうよね、だからあくまで目安にして下さいね、しょせんは暦の話だから、いいようにとらえるのが一番ですよ」
僕は親父が辞職したときも、地元の人達から後ろ指を刺されることを恐れ、親父を擁護し、自分の正義を貫くことから逃げたのだ。だからさすがに議員として生きていくビジョンなんて、描けるはずもなかった。いや、考えないようにしてきたと言った方が正しいのかもしれない。そんな気持ちを見透かしたようにユキコさんはこう続けた。
「いいんですよ、別にそんなナーバスにならないでも。ずっとどん底のままの運勢なんてないんですから」
「はあ……」
「軽く人生破綻してるくらいがちょうどいいんだから!意外とその方が人に優しくできたりするもんだしね」
上品なユキコさんがあんまりあっけらかんと言い放つものだから、その言葉に僕らはみんな笑ってしまった。きっとみんな何かしら思い当たる節があったのだろう。その場所にいた僕たちはどこか破綻したものを引きずったまま、生きてきた者同士だったのかもしれない。
「さすがユキコさん、良いこと言うわ!前に私が言われた〝判断の根拠は自分の外じゃなくて内に求めなさい〟って言葉。あれ本当に私の指針になってるんですよ」
「あー、それはお兄さんも一緒ですよ、エミコさんと同じ星持ってますから」
「それって僕とママさんは似たところがあるってことですか?」
「うん、全部一緒ってわけじゃないけどね」
確かに僕は「代々引き継いできた伝統」とか「道徳的に正しいこと」とか「支援者が望む経済発展」という他人目線の理由。つまり「自分の外」に判断理由を持ちすぎていたのかもしれない。自分の外に判断理由を置くことで、自分の本心と向き合うことから逃げるクセがついてしまっていたのだろう。
もちろん僕の人生が本当にユキコさんの占い通りになるかどうかなんてわからない。でも「破綻してるくらいでちょうどいい」という主旨の言葉に、その場にいた全員に救いが生まれていたことは確かだと思う。そして何より、あの日たまたま喫茶ナゴリタンに立ち寄ったことが、占いの信ぴょう性を抜きにして、僕にとっては一番の大当たりだったと思う。
「人生破綻してるくらいがちょうどいい」
妙にすがすがしい気持ちでその言葉を反芻しながら、僕はすっかり冷めてしまったコーヒーを飲みほした。その時飲んだコーヒーは、不思議と冷めてもうまかった。