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小説「喫茶ナゴリタン」④
四 父に捧げるチリビーンズ
老人ホームには独特の匂いがある。清潔と不潔がまざった匂い。乾燥機の匂い、ボイラーの匂い、消毒液の匂い、そして、かすかに残る糞尿の匂いだ。
もちろん確実に衛生状態が守られた場所には違いない。しかし定期的に上書きされ、建物自体に染み込む匂いというのは、完全に消えることはないのだ。母がいる老人ホームには「消毒された汚臭」とでも言うべき独特の施設臭があった。
米兵と沖縄人(ウチナーンチュ)の間に生まれた母は、実の父親を写真でしか知らない。母なりに必死になって探してみたところ、帰国後すぐに亡くなっていることがわかった。その後ネットを通じて偶然が重なり、奇跡的に一人、父方の親戚にたどり着くことができた。それは父の従兄にあたる人で、かなり遠い親戚ではあったが、母は会いたい一心で渡米したのだと言う。
当初、母はやり場のない怒りであるとか、思いのたけをぶつけるつもりでいたのだけれど。父の従兄の長い長い謝罪の後に「こんなにいとおしい親戚ができたことが本当に嬉しい」と涙を流す、かすかに血がつながっているのであろう車いすの老人の姿を見たら、ただ手を握って泣くしかなかったらしい。
母自身は幸せな結婚をし、一人娘の私を育ててくれた。長年連れ添った父に先立たれた後からだろうか。母はどんどん怒りっぽくなっていった。心配になり同居も持ち掛けたが「家を守る」と言って聞く耳をもたずにいた。そんな中である日事件は起きた。
母は地元のスーパーで欲しい商品がないと店員に訴えたまま逆上し、相手の胸ぐらにつかみかかったまま失禁した。認知症からくるパニック状態だった。
警察に呼ばれて迎えに行った時のおびえた母の表情が忘れられない。顔や姿かたちのすべてが、一回り小さくなってしまったように感じられるほど憔悴していた。
「エミコか……?」
「母さん、どうしちゃったのよ……」
「怖かった……怖かったんよ……」
父の葬儀ですら気丈だった母が、大きな声をあげて泣き崩れた。まるで別の魂が入り込んでしまい、子どもが泣くようにしゃくりあげる母。ひどく震えるその体を抱きしめながら、「もう大丈夫だから…」と言うのが、私には精いっぱいだった。
呼吸すらおぼつかないほど号泣する母。その体から伝わってくる強烈な悲しみからか。いたたまれない自分の気持ちに突き動かされたのか。悲しみとも怒りともとれる激しい感情にさいなまれたまま、私はやや強引に母を立ち上がらせた。ひたすら頭を下げて何度も謝罪を繰り返し、私たちは逃げるように部屋を出た。そして私はついに来るべき時が来たのだと悟った。
今でも週に一度は母の顔を見にこのホームへやって来る。すでに最重度の認知症という診断を受けている母は、私を他人として接する。それでも会って話をしていると、たまに私の名前が出てくることがあって。そんな日は大吉を引いたような気分になった。
「あんたは若いねえ」
「あらそう?」
「あぁ、まんまるな顔して……」
母は私の両ほほをはさみ微笑んだ。まるで赤ん坊を愛でるように。
「あんたがも~っと小さい頃はおしめをかえてやったもんだよ」
半分当たっていて半分はずれているような気持ちになりながら、母の目を見るとうまく焦点があっていないように思われた。目の中にきれいな満月が浮かんでいる。白内症が進んでいるのだろうか。本当はぼやけて私の顔もはっきりとは見えてないのではないだろうか。様々な病気が進行中の母だったが、長年食堂で働き続けた健脚ぶりはそのままで、すでに2回、ホームから逃げ出したこともある。健脚で認知症の場合は介護度が高くなると噂に聞いたが。母がスムースに入所できたのもそのおかげだったのかもしれない。
「せっかく来たんだから、だー、あんたもそば食べていきなさい」
「お母さん、そば作ったの?」
「あいっ、私はそばやーだよ、何言ってる!」
「そっかあ、長いこと食堂してたもんねえ」
「そーさー麺はねー仕入れてるけどよー、だしは上等さー、ちゃーんと手間かけて作ってるよー」
「それは楽しみだわ」
「あい、あれ、厨房はどこだったかねえ」
「一階にあるさー、だー、一緒にエレベーターでいこーねー」
母が食堂で働いていた頃、よく食堂で売れ残った麺をもらって帰ってきた。それを具材と一緒に炒めて作ってくれたケチャップ味のやきそばが、我が家では定番の夕食だった。パスタの国イタリアのナポリじゃなくて、沖縄そばの街・名護で作るからナゴリタン。おやじギャグをためらわない、生前の父がそう言い出してからは、我が家ではその名前が定着していた。
思えば母は味付けに関しては、ちょっとハイカラな感覚を持っていたような気がする。いわゆるアメリカンテイストだったのだろう。基地の解放イベントへ行ってはアメリカの味付けを覚え、その材料を仕入れてきては試作していたから。のちに私が旦那と開いた喫茶店の看板メニュー「ナゴリタン」にのせたゴーヤーの付け合わせも、元はと言えば母のアイデアだった。一瞬驚くような組み合わせなのだけど見事にマッチするのだ。母の料理センスはそんなところでよく光る。
数ある母の得意料理の中でも、特にチリビーンズは絶品だった。父はそれをあてに、シークヮサーをしぼった泡盛を飲むのが定番のスタイルだった。今思えばその組み合わせはテキーラとタコスみたいな、ある意味メキシカンな組み合わせだったことに驚く。
母は圧力鍋を毛嫌いしていて、決して使おうとしなかった。どんな煮込み料理であっても使い古したボコボコの鍋を使い、決して具材が煮崩れない程度に火をとどめた。何時間も煮込んで混然一体となった味というより、一個一個の素材の味がちゃんとする料理が好みなのだとよく言っていた。
だから母のチリビーンズの豆は、いつも普通の鍋を使ってまめまめしく炊きあげられていた。子どもの頃は、その豆のグスグスした感じが何とも言えず、あまり好きじゃなかったような気もする。豆自体の甘さが感じられ、ちゃんとスパイシーだけど辛すぎない。そんな母のチリビーンズおいしさがわかるようになるには、いくらか年を重ねる必要があったのだろう。島トウガラシや島ニンニクといった沖縄食材もふんだんに使っていたこと、クミンやコリアンダーという本格的なスパイスを多数入れていたことも、ずいぶんあとになってから知ったことだ。パンにのせたり、タコライスの具にしたり、翌日のカレーのベースに使ったり。我が家では常備菜のように重宝していた。
母の料理はチャンプルーでもなんでもケチャップやトマト味が多かったような気がする。家のゴミ箱の脇にはいつもトマトの空き缶が転がっていて、電話の横にある鉛筆立てもそれだった。私の誕生日なんかにも、内地の喫茶店で味わったらしいナポリタンや、厚切りにした食パンのピザトーストをよく作ってくれたものだ。
エレベーターが開くなり母は、介護スタッフたちの詰め所をのぞき込んだ。
「ごはんはまだでしたかね?」
「あいっ、キヨさん、まだあと2時間くらいかかりますかね?」
すでに「沖縄そばを作りに厨房へ向かう」という目的は母の記憶から抜け落ちていて、晩御飯を待つという内容に書き換えられていたらしい。スタッフの女性は私の姿を見つけると軽く会釈をした。もちろん認知症の母の不安感をいなす対応も慣れた様子で、スタッフの女性はにこやかに対応してくれていた。それは職業病的な作り笑顔なのかもしれないが、豊富な介護経験と日々の疲労の上にはりついた、とても良い表情のように私は思えた。
「じゃあ母さん、私そろそろ帰ろうね。ちゃんとごはん食べてたっぷり寝てよ、また来るからね」
私は母の手をとり両手で握った。母は一瞬「はて、この人は誰だったかね?」という様子であったが。そのことを悟られまいとするかの様に愛想笑いを浮かべると、しっかりとした握力で握り返してくれた。
以前、ホームの面談で、担当職員に言われたことがある。
「一度でいいから父さんに会いたい」
そう言いながら母は夜中に泣き出すことがあるのだそうだ。私はその時初めて職員に母の生い立ちを説明をし、少ししんみりしたのだけれど。その晩、自分たちの夕飯を作りながら、私はふとある考えに思い至った。母の料理がハイカラだったのは単に料理が上手いからとか、味の感性が豊かだったからという理由だけではなかったのかもしれないと。
「会ったことのない父の口に合うように…」
そんな憧れにも似た気持ちが、胸の奥にあったからではないだろうか。基地の解放イベントに足しげく通っていたのも、ひょっとしたら父に会えるかもしれないという、淡い期待があったからではないだろうか。
まめまめしい豆とケチャップ味、そして会えない父への思いが隠し味。
そう思ったとき、私がどんなにチリビーンズを上手に作ったところで、母の味には絶対かなわないような気がした。