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Re:家路
昔は、家路という言葉はオレンジ色だった記憶がある。しかし今となっては、その家路も残業で更けた夜だったり、終電で発つライブハウスからの道のりだったりして、暗い夜の姿ばかりで目にするようになった。そういえば大好きなバンドの出した「家路」も、電線が薄く紛れた夜の姿をしている。
以前の職場でお世話になった社歴が一つ上の先輩は、いつもデスクで「帰りたい」と呟いていた。凄く良いと思った。真似をしたかったわけではないけど、自分も「帰りたい」と、毎日言うようになった。特に、「死にたい」と言いそうになった時、代わりに「帰りたい」と言うようにした。「死にたい」じゃなくて「帰りたい」。なぜなら、本当に「死にたい」と言ってしまったら、心の底ではそう思ってなかったとしても、心の底でも「死にたい」のだと勘違いしてしまいそうだったから。人間はつくづく馬鹿な生き物で、理由から結果を出すのでなく、結果から遡って理由を作り出してしまうことがあるが、それと同じように、私たちは口に出した言葉から遡って、心を決めてしまったりする。どれほどあっただろうか。死にたくなかったはずの人が「死にたい」と口にして、そのせいで心の中にあった「生きたい」を「死にたい」だと誤認してしまったことが。人間は常に言葉を操るようで、言葉に操られている。勝手に思っているだけではあるが、きっと先史時代、言葉が形を得なかった時代では、人は自死など選ばなかったのではと思う。
だからと言って、言葉の発明が呪いだったとは思わない。確かに言葉は暴力を帯びるほどに強力だ。しかし、言葉に人が操られているというのなら、私は私を操る言葉を私の手で選んでいけばいい。だから私は、これからも「死にたい」という言葉の代わりに「帰りたい」を選ぶ。痛みに破れて心の底を間違えないように。「生きたさ」を忘れないように。
ナキソラで『家路』を弾いている時、よくその先輩のことを思い出す。この曲は夜ではなく、昔見た夕焼けの色をしている。「もう全部放っておいてさ、帰っちゃおうよ」というような歌詞は、一歩間違えれば破滅に向かう自棄性があっただろう。だけどこの『家路』は、まるで母親が保育園に子どもを迎えに来たその帰りに、手を繋いで歌っているような、平和の賛美や生活の豊かさが潜んでいる。『家路』とはそういう曲だ。
あなたの普段の家路が、そして今日のライブハウスからの家路が、少しでも豊かで、美しくあってくれたらいい。ただ「帰りたい」と口にすることが、この曲を耳にすることが、あなたの「生きたさ」を照らし出してくれることをこれからも祈っている。