同士少女よ、敵を撃て
これは、5月頃に書いたnoteです。大晦日の供養のために。
今年の本屋大賞を受賞したこの作品。
恥ずかしい話、普段小説はあまり読まないんですが、なぜかこの本は自然と手に取っていました。
自分が大学で、ロシア・ウクライナ戦争についてちょうど勉強しているから、というのも大きな理由だったかもしれません。
特にこの本の書評とか、あらすじ紹介をする記事ではないので(そんな事ができる頭も技量もないので)、本の中身が知りたい方はぜひ本物を手に取ってお読みください。
この本を読んで感じたのは、戦争、あるいは死の強烈な存在感でした。
この本は、基本的には主人公セラフィマの視点で書かれているため、読者たちは、ロシアの片田舎に住む純朴な少女であった彼女が、訓練や実戦を経て、「狙撃兵」という自身の肩書を内面化し、あるいは自身をそれに適合させていく過程を追体験することができます。
その過程の中で、様々な「死」が描かれていました。まだ純朴だった少女にとって、受け入れるにはあまりに悲しい母の死。彼女が初陣で目にした、戦闘における日常たる死と、それとは似ても似つかない同僚の死。狙撃兵として洗練された彼女ではもう泣くことがかなわなくなった味方の死。記録には、その甚大さ故に、ただの数字としてしか記録されない死。そして、戦後になり、戦争を引きずりながらも新しい人生を歩んでいた戦友の安らかな死。
日常の他愛もない会話や、安っぽいドラマに出てくるような安直な死ではない、残酷でただひたすらに現実としての死。
読み終えてみて、ふと自分のことに思いが至りました。
この記事を書いている今も、ウクライナでは多くの名もなき市民たちが、平和な日本で安定した暮らしをしている僕には想像もつかないような現実にさらされて、ともすれば我々が「つまらない」と形容してしまうような、平凡と安寧を求めているのでしょう。
実際にウクライナでは戦争が起こっていて、そこには紛れもない現実としての死があるわけですが、自分の周囲にある現実と、戦争という現実のあまりの格差から、それを実感できていないというのが正直なところです。おそらく多くの人がそうだと思います。(極論を言ってしまえば、そんなもの現地にいかないと得られないわけですが。)
学問を、とりわけ法学や国際関係学を学んでいると常々考えさせられるのは、教室と現場の乖離、すなわち理論と実践の乖離です。
僕は大学で、「ロシア・ウクライナ戦争」と呼ばれている(このイベントの名前日本語でなんて表現していいか難しい。英語ならRussian invasionとかで済むけど。)、2022年2月24日に開始されたロシアによるウクライナへの武力攻撃を研究対象とする授業を取っています。授業では、「なぜロシアはウクライナ侵攻に踏み切ったか」、「NATO拡大は実際どれほどロシアにとって脅威だったのか」、「ロシアはどのように国際法に違反しているのか」など、(学問においては不可欠な)客観的な問いを立て、その問いに目を向けています。
しかし、上の問いに出てくるような「ロシア」「ウクライナ」「NATO」といった主語は、いずれも幻想に過ぎません。その客観性に、現実味は薄い。実際にいるのは、我々と変わりのない生身の人間たちです。
果たして、日々の糧に困ることもなく、着るものも済むところも保障され、学費を自力で納める必要もなく、暇があればYouTubeでF1のハイライトを見ている。そんな暮らしをしながら、幻想に過ぎない主語たちを並べた問いに向き合って、「自分は戦争について考えている」とか、「将来何らかの形で世界平和に貢献したい」とか、言えるんでしょうか。
しかし、そういった幻想を並べた問いに向き合わなければならないこともまた事実です。世界はほかでもないその幻想によって成り立っているのだから。
ならばせめて、その問いに携わる一介の学生として、これらの崇高な幻想とはあまりにかけ離れた現実としての死、あるいは戦争というものを心に留めておく責務があるのではないか。
そんな事を考えながら、次回の授業への課題を終わらせることにします。
これは社会への問題提起でも、学問への批判でもなく、自分の専攻、興味関心の固まっていない一大学生の苦悩であり、小学生の時苦手だった、読書感想文ってやつです。