オウム真理教信者・元信者のインタビューを読んで思うこと
『underground2 約束された場所で』(村上春樹)という本を読んだ。
これは地下鉄サリン事件のオウム真理教の信者(もしくは元信者)へのインタビュー集である。
(正確には巻末に村上春樹と河合隼雄の対談もついているが、こちらはまだ読んでいない)
以下、この本の中で個人的に新しかった知見と自分の感想(ネタバレ含む)。
知見
・大多数のオウム信者は、地下鉄サリン事件の計画を知らなかったし、事件後もしばらくは犯人は別にいると信じていた。
・信者になる人にかなり共通していたのは、幼少期から現世的価値観に対する物足りなさのようなものを感じていたこと
→どんな幸福も永遠には持続しないこと、いつか必ず死ぬこと、古今東西の神秘体験、仏教における悟りetcといったテーマにもともと子供のときから興味を持っているようなタイプ。
こいったテーマがずっと人格のコアの部分にあるために、現世的な幸福だけでは不全感が伴うような人たちである。
そして、「世間」においてそういったテーマについて深く他人と語り合うことは難しく必然的に孤独感を抱えることに。
・理屈っぽい人が多い。
→宗教信者が理屈っぽいというのはイメージに反するのではないか
感想
・多くのオウム信者は「良い人」であったのだろうと思った。素朴に修行をし、解脱をしたいという純粋な方々という印象を得た。
ただし、世界観とか価値観が世間一般とは当然かけはなれている(e.g. 外部の人間の車同士で事故を起こしても「こちらは救済のために急ぐ必要があるのだから気にする必要もない」)。
彼らに問題があるとすれば、視野の狭さ(自分たちの価値の源泉として麻原というおじさんを盲目的に信じるのが凄く危険でないか、という)やコリッコリに凝り固まった観念であるとは言えると思う。
しかし、そんな論点は著者の村上氏をはじめ色々な人がすでに考えているだろうし、ここで改めて述べる必要性はあまり感じない。
・不幸があるとすると、現世的なものだけでは満足できないように生まれてしまったこととも言えるかもしれない。
そして、死の恐怖とか無常感に取り憑かれてしまうのは、大体において生得的なものなのか、社会によって構築されるのか、どちらなのだろうと思った。
当時はノストラダムスがどうたら、といった煽りが全国的にされていたようなので、社会的な影響は決して小さくないだろうと予想している。
社会ならざるものが社会現象になったというのは矛盾かもしれないが。
・しかも、信者たちは「現世ならざるもの」に対する執着とか「無常感」に対する恐怖みたいなものがデカい。
恐怖感や不安感が強いが故に例えば安直に言葉による説明を求めるし、言葉を与えてくれる存在を盲信しもするというキライはありそう。
「お前ら、黙って死ぬまで不安なまま生きろ」と言うしか無いみたいなとこがある。
・社会からそっぽを向いた(あるいは向かれた)者たちのコミュニティというのは正直居心地が良さそうだと思った。
自分も普通の人が興味を持っていることにどうしても興味がわかず生きづらさを抱えがちな節が大いにあるので他人事ではない怖さ(半分は自分自身に)みたいなところがある。
・取り敢えずオウムと聞くだけでどうしようもないカルトのイメージを想起する人が多いだろうけど、それは非信者を見下すオウム信者と完全に同根である。
「どうすればオウムのような団体を出てこなくなるのか」という問いの立て方をしている人がいるとすれば、それは奇妙であるかもしれない。
・宗教を本当の意味で言語や論理で理解できるのか(理解しようとするアプローチ自体がどれほどの意味を持っているのか)は考えてみたほうがいいかも、と思った。それはどちらかというと言葉とか論理の原理的な限界という意味で。