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「間違えずにできたね」ではなく「がんばったね」が考える習慣をつくる

小学生の頃、まちがい直しをさせられるのがイヤでした。

ふつうの公立の小学校のふつうのテスト問題。

それほど、むずかしいものではなく、授業をきちんと聞いていて、宿題をこなし、ていねいにやれば、いい点が取れるようなもの。

でも、根っからの「めんどくさがり」な僕は早く解き終わったあとの余った時間、もう一度はじめから見直し、間違っていないか確認する……ようなことはせず、余白の大きなところを見つけては(なければ、机の上に)、絵を描いていたような子どもでした。

一つもミスがないことを目指し正確に解く、という考えがなく、めんどくさいから早く終わらせる、ということしか考えていなかった結果、「おしい」、「もったいない」といわれるような点数を取ったことが多かった気がします。

不思議なことに、「インターネット」というものさえ存在していなかった僕の小学生時代から、いまの子どもたちも、計算や漢字のドリル、プリント学習など、やっていることはあまり変わっていません。テストの後の「まちがい直し」も一緒です。

まちがえた問題のとなりに、赤ペンで、正しい答えを書く。

ていねいに。漢字のトメ、ハネもしっかりと。

てきとうに書こうものなら、もう一度やり直し。

時には、まちがえたものを何度も練習するためのプリント付き。

この「まちがい直し」というものが、もう、本当にイヤだったのですが、僕がイヤだったのは、書くことがめんどくさかったから。

いまとなってはわかることですが、僕にとっては「書く」ということは学習方法として向いていないというのもあるし、やることに「意味」を求めるタイプなので、意図や効果を説明されず、ただ書く、ただ何度も解くということが、苦痛以外の何物でもありませんでした。

でも、いまの子どもたちを見ていると、

「まちがえて、めんどくさいことが増えるのがイヤなのではなく、まちがえること自体がイヤなんだな」

と感じることがあります。

授業中など、自分のまちがった答えや考えたプロセスを残しておかず、それを消して、正しい答えを書いて◯をつけようとする。

宿題を出して、やってきてはいるのだけど、あきらかに答えを写している。

普段どれぐらいの理解度か見ていて、まだまだ手を動かして、間違えて、たくさん考える練習をする時期のような子が、国語の説明文の記述問題で、模範解答としてのっているような完璧な答案を、考えた形跡や書き直した形跡なしに書けていたりするのを見ると、すごく違和感を感じるんですよね。

そういうのを見ると、

今はできることが大切じゃないのだけどな……

できているのを見ることが嬉しいのじゃないのだけどな……

そんなに褒められたいのかな……と切ない気持ちになったりします。


「わからないときはわからないっていうんだよ。恥ずかしいことじゃないよ」

「×というのは、いままでのじぶんより上にチャレンジしたということだよ。どんどん間違えようね」

と、くり返し伝えているのにもかかわらず……なかなかこのクセというのは手強いものです。

それに、「まちがえないようなこと」をくり返していても、そこに成長はありません。

心理学者のキャロル・S・ドゥエックが行った実験にこんなものがあります。

数百人の子どもたちに難しい問題をやらせ、終わった後で、褒め言葉をかけました。

一方のグループには「よくできたわね」。もう一方のグループには「がんばったわね」。

最初のグループ分けをした時点では成績に差はなかったのですが、その褒めた後に違いが出てきました。

次に取り組む問題を選ばせると、「よくできたわね」のグループの子たちは新しい問題にチャレンジするのを避けました。「難しいもの、まちがえて自分の能力が疑われる可能性があるもの」を選ばなかったのです。

逆に、「がんばったわね」グループの子たちは、9割が新しい問題にチャレンジする方を選びました。

そして、その後、なかなか解けない問題に当たったときにも差が。

「よくできたわね」グループの子は解けずに「自分の頭が良くない」と思うようになったのです。「がんばったわね」グループの子は、自分の頭が悪いとは思わず、「ただ努力が足りない」と思っただけなのに対し。

さらに困ったことは続きます。

「よくできたわね」グループの子たちは、一度、難しい問題を経験した後、もう一度、できるレベルのものをやったところ、自分の能力に自信が持てなくなり、「最初よりも成績が落ちてしまった」のです。

逆に、「がんばったわね」グループの子は難しい問題にチャレンジし続けたことでスキルに磨きがかかり、成績が上がりました。

いままでより難しいことにチャレンジするとき、できないのは当たり前。それが、自分の夢だったり、どうしても叶えたいものだったりすると、たくさん失敗するのが当然です。

⚪︎×勉強というのは、○は良いこと、×は悪いこと。どちらか。

◯だと褒められ、×だとダメ出しされる。それだと、◯だけを求め、「まちがえないこと」を目的にしてしまうようになってしまいます。

「褒める」ということは大事ですが、「褒め方」も大事なのですね。

「できたことをほめる」ということは、イコール、「できていないことはダメ」というメッセージになり得ます。

子どもは、その裏のメッセージに敏感です。

「そんなにたくさんのことを知っているなんて、えらいね!」

という言葉には「知らないことはよくないこと」という裏のメッセージが、

「ひとつも間違えなくて、すごい!」

という言葉には、「私はあなたがまちがえなかったことをいいと思っている」という裏のメッセージが込められています。

子どもは、その裏のメッセージを感じ取り、「うちの親や先生はそこを評価する人なのだ」と思うのです。そして、知らないことを言わず、まちがえないようにします。

でも、まちがえないようなことをしていては、力はつかないし、何より、退屈。

心理学者のチクセントミハイは、

「すばらしい人生、幸福な人生というのは、フローによって、自分がやっていることに没頭することによってつくられる」といいます。

「できるかどうか不安」というレベルにチャレンジしているときに、人は「フロー」という状態になりやすくなるのですが、フロー体験をすることで、私たちは「自分なんてどうでもいい」ではなく、「自分は何が好きなのだろう」など自分の人生にたくさんの関心を持つようになり、「無力感」ではなく、「自分で自分の人生をコントロールしている」という感覚を持ち、「自分はダメだ」ではなく、「自分には物事を達成できる力がある」と感じられるようになります。

そして、フロー体験をたくさん経験した子どもたちは、10代の間、自分の才能を活かす活動に熱心に取り組む傾向があるそう。

先日、5年生の男の子たちがこんなことをいっていました。

「宿題やってみたけど、わからんかったわ……途中までは書いたんやけど……もうちょっと簡単なんにして!」

「ほんま難しかったわ〜RAKUTOでやる問題で簡単な問題って、1問もないよな〜」

そんな中、6年生の男の子はこんなことを。

「なあ、今日は難しい入試問題とかやる!?」

難しいのだけど、その難しさや、もうちょっとでわかりそうという感覚、解けたときの達成感がいいのだそう。

「やればできるとわかっていることはつまらない」

昔、僕が尊敬する方がいっていた言葉ですが、子どもたちにも、これからの長い人生、こんな風になりたい! こんなことしたい! と希望を持ち、難しいこと、大変なことに出会った時、

「むずかしいな〜……これは……やりがいがあるな〜」

と感じてもらえるようになってもらえたらいいな、と思っています。

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新留裕介
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