小説「M&A日和」第12~13章
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第12章 契約交渉
第163話 いよいよ正念場
6月9日月曜日。朝。
真奈美はいつも通りワンルームの洗面で化粧を終えると、鏡に向かって声をかけた。
「さて、いよいよ、これからが正念場ね」
そして、通勤電車を使い本社オフィスへ。
「おはようございます」
いつも通りの元気な挨拶。
いつも通り、山田は打ち合わせコーナー。今は違うプロジェクトの打ち合わせに入っている。
真奈美は自分の席に座ると、黙々と資料作りを始めた。
昼前になると、山田の時間が空いたようで、打ち合わせコーナーから真奈美を呼ぶ声が聞こえた。
「はい、今行きます」
真奈美は、作成中の資料をもって、山田に相談をしに行った。
「じゃあ、鈴木部長への説明の準備を始めようか」
「はい。こちらが資料です。まだ準備中なのですが」
真奈美はプロジェクターで資料を写した。
前回MOU締結時のサマリー。
DDレポートのエグサマ。
出資契約(SSAとSHA)の概要。
4つの協業プランと、それを推進するための業務提携契約の概要。
シナジー効果をあらわしたシナジーP/Lとその根拠……根拠……。
「やはり、具体的な根拠といわれると難しいな」
山田も頭を悩ませていたが、とにかく今準備できる材料はこれだけだった。
「うん、でも話の流れはわかりやすいし、これでいいと思うよ。明日にでも鈴木部長に報告しようか」
「はい、それでは、資料を完成させますね」
こうして翌日、山田と真奈美は鈴木への説明に向かうことになった。
第164話 具体性
鈴木は相変わらずのやる気がなさそうな表情だったが、真奈美の説明を最後まで聞き、真奈美の説明が終わると初めて口を開いた。
「DDの結果からすると、やっぱりこの会社単独で90億円の価値なんて見出せないということだね?」
「はい、既存事業は盤石のようですが、将来の成長にあたっては希望的観測が多いようです。ですが鈴木部長……」
真奈美の反論を制して鈴木はつづけた。
「シナジーを出せるといいたいんだろ。わかっているよ。でも、今の説明から具体的な妥当性は見出せるのか?」
真奈美は痛いところを突かれ苦しいながらに、回答を続けた。
「はい、協業策は4つ。これによって事業本部業績を底上げできると考えております」
「どう底上げになるの?」
「まずは、協業によるコストダウンの効果、それと新規技術による販売拡大を考えています」
「コストはわからんでもない」
鈴木の目は節穴ではない。
「販売拡大の具体性が見いだせない。ちがうか?」
山田も加勢する。
「鈴木部長、事業本部では営業体制のシフト計画も作り始めています。次のフラッグシップモデルとして採用されれば……」
「わからんでもない。けど、何度も言うけどこれはトップダウン案件ではない。たらればで経営幹部は納得しないぞ。下手な説明で炎上したらMA推進部の評価にも関わる」
山田は、真奈美に渋い視線を送った。
今日はこれ以上は無理、出直しのサインだった。
「わかりました。もう少し練り直してまいります」
部長室からオフィスまでの数mだけだったが、非常に長く感じる真奈美だった。
第165話 たむ・さむ・そむ
打ち合わせコーナーに入った二人は、先ほどの資料を難しい顔で見直していた。
「どうしましょうか、山田チーフ」
「……うーん、ここまでトップダウンでない案件へのアレルギーが強いと、ちょっとしんどいね」
「はい。取り付く島もなかったです」
二人はどんよりとしたまましばらく沈黙をしていたが、このままで何かが打開できるわけでもない。
「とにかく。今、できることをもっと掘り下げてみよう」
「はい。代理店や販売店との約束が取れれば一番いいのですが。そんなに簡単には取れそうにないと思います」
「そうだな……経営管理にいたときの知見で何か突破口は見出せないかな。新しいことを始めるときの説明とか」
「……そうですね……新規事業立ち上げのときに説明されていたのは……」
真奈美は、ホワイトボードにキーワードを書いていった。
『TAM、SAM、SOM』(たむ、さむ、そむ)
「まずはやはり、これでした」
「なるほど、基本的な市場規模の考え方だね」
「はい。特にSAMとSOMをよく使います」
TAM(Total Addressable Market)は、製品市場全ての需要の総数。
SAM(Serviceable Available Market)は、TAMの中で実際に狙う市場規模。
SOM(Serviceable Obtainable Market)は、SAMの中で自社が獲得できるであろう規模。
新規事業の市場規模を説明するときに広く一般的に使われる考え方だった。
第166話 SOMの導き方
「例えば、白馬機工のコンシューマ事業本部が新技術で新たな製品を開発し日本の家庭用ロボット市場に超ハイエンドロボットとして送り出す場合……」
真奈美はホワイトボードへメモ書きを続けた。
『TAM=全世界の人口✖ロボット普及率✖ロボット平均単価』
同じ考え方でいくと、SAM=日本の人口✖ロボット普及率✖ロボット平均単価、となるのだが……
「SAMが粗いと説得力に欠けるので、カテゴリー別、販路別のように分解したSAM分析をします」
真奈美はポンチ絵をかきながら説明を続けた。
『TAM→分野別SAM→自社獲得シェア見込×分野別SAM=分野別SOM』
分野別SOMの合計が、新規技術による合計SOM、すなわち、販売拡大が見込める規模というわけだ。
「あとは、技術開発、調達、生産、販路確保などの具体的な実行計画に落とし込んでいきます。このあたりは、事業本部がシナジーP/Lを作ったときに裏で計算されているはずです」
「いいね。それを整理してもらおう。市場規模から説明ができるなら、具体性が補完できるかもしれない」
「わかりました」
真奈美は、さっそく佐々木に電話をしようとして……振り返って質問をした。
「あの、このあたりは事業本部から直接説明をしてもらっても良いと思うのですがいかがでしょう」
悪くない考えだと思ったが……山田は渋い顔だった。
「うーん。最後はそうせざるを得ないかもしれないけど。でも鈴木部長と片岡本部長が対立しちゃうと、後戻りできなくなる。私たちだけなら何度でもリベンジができるからね。もう少し、ぼくらでチャレンジしてみよう」
第167話 リベンジ資料
早速、佐々木からTAM・SAM・SOMを試算するための詳細データを要求したところ、夕方になって真奈美のもとに膨大なエクセルデータが送られてきた。
(めちゃくちゃ細かい。しかも複雑だわ。でも、なんとか情報をたぐっていけそうね)
事業本部に感謝しつつ作業を開始。データの整理とSOM分析は夜中まで続いた。
翌日、真奈美はTAMからSOMの概要、そしてそのSOMの詳細分析をビジュアルでつかめるように整理を始めた。
経営管理時代に散々事業本部を手伝った経験が生きてくる。
午前中には4つのシナジーそれぞれのSOMについて、何枚かの資料で説明できる内容にまとまっていた。
「すごいな。さすがだ。めちゃくちゃわかりやすい」
「あ、ありがとうございます」
真奈美は照れて言葉に詰まった。
「うん、これで鈴木部長にリベンジしよう。その前に、片岡本部長にも状況を説明をしておこうか」
こうして、夕方に事業本部とのTV会議が始まった。
第168話 上を説得?
真奈美が鈴木部長への説明結果を改めて報告すると、片岡本部長は苦い顔でうなった。
「うーん、やはり計画を示すだけではだめか」
「はい。そこで、次は計画策定のバックデータとなる、SOMの説明をしようと考えてます」
真奈美は資料をもって説明をした。
「わかりやすいな。さすが酒井さんだ。佐々木さん、この資料、うちのメンバーに配って参考にするように徹底してくれ。うちの説明資料は細かすぎるだけで論点も整理できていないからわかりにくい」
そしてがはははと大笑いする。いつも通りでほっとする瞬間だ。
「ありがとうございます。片岡本部長。事業部の皆様から細かくデータをいただけたおかげでまとめることができました」
「うん、これで鈴木部長に説得しに行くということだね」
「はい」
片岡は笑顔をしまい、少し考えこんだ。
「この説明で市場規模はうまく説明できるだろう。その市場のシェアをどうやって奪い取るか。SOMを実現するための市場の反応が欠けているんだよな」
片岡の評価に、山田もうなづいた。
「やはり、その部分は説明が難しいですか」
「うん。製品が試作品でもできていれば、マーケティングリサーチのやりようもあるんだけど……」
片岡は頭を抱える。
新規事業の企画フェーズに対して具体性を求めること自体が本来不可能への挑戦みたいなものだ。
「鈴木さんは上からの評価がすべてだからなぁ。どこまでを求められるのか……これでも足りないとか言われるかなぁ」
頭を抱える片岡と山田。
そのとき、真奈美がぼそっと呟いた。
「上からの評価が気になるなら、その上を説得できれば鈴木部長も了解するということでしょうか……」
そりゃそうだけど……と、一笑されるかと思いきや、山田はまじめな顔で質問した。
「それって、具体的な方法って考えられる?」
第169話 経営計画
「あ、あの、ちょっと変な考えが頭によぎっただけで……」
真奈美は慌てた。思わずつぶやいた独り言が拾われるとは思っていなかった。
「聞かせてください。私も気になります」
片岡もTVの向こうから追い打ちをかける。
真奈美は恐る恐る、口を開いた。
「あ、あの、例えば、今回のプロジェクトを経営計画に組み込んでしまえば、投資委員会の前に経営会議での審議事項となるなーっと……」
片岡は、はっとした表情を浮かべた。
「なるほど……投資委員会に上申するためには鈴木さんの許可が必要。でも経営会議なら鈴木さんと関係なく直接幹部に説明できるということか」
「あ、でも、経営計画に入れれば即座に事業本部の経営ノルマとなります。未達の場合は責任問題になりますので……」
経営管理で経営会議を運営してきた真奈美は、そのあたりの仕組みは十分理解している。経営計画の達成可否は事業本部全体の部門評価に直結する。
真奈美は恐れおののいて下を向いたが……
「佐々木君、今ちょうど、下期経営計画の審議を準備していたな」
通常、6月の経営会議で次の下期経営計画の第一回審議が行われる。
「はい。13日金曜日の経営会議で審議予定です」
「……明後日か」
「片岡本部長……まさか本気で?」
通常、このタイミングで経営計画に大きな修正が入ることなどありえないのだが……
「……うん。やろう。酒井さん、いいアイデアだ。ありがとう」
「で、でも……」
「心配するな。どうせ出資したら背負わなければいけない責任だ。任せてくれ。よーし、面白くなってきたぞ。でも、鈴木さんにも仁義は切らなきゃな。事業本部は本気だと伝えてください」
がははははは。片岡は自身の責任をもって前に運ぼうとしている。
真奈美は、本当にこのような提案をしてよかったのか不安に感じ、山田に視線を向けた。
山田は『大丈夫』という笑顔を真奈美に送った。
第170話 リベンジ
翌日。山田と真奈美は鈴木部長室に入った。
リベンジである。
真奈美は臆することなく堂々とSOMの分析を説明した。
しっかりと論理だった説明を受けて、簡単には押し返せなくなってきた鈴木部長の表情は、これまでのかったるいものではなく、険しいものとなっていた。
「市場規模はわかった。それを掴んでいく方法が必要だ。市場調査や販路確保の状況は?」
山田が冷静に答える。
「それを固めていくために協業を早期に開始していく必要があります」
鈴木が苦々しい顔でうなった。
「……鶏と卵だな。出資して協業をしないと、出資妥当性判断に必要な具体的な策は見出せないか。これをCFOがどう捉えるか。やはり、具現化できなければ出資はだめだと言われるのではないか?」
(――きた!)
二人は、鈴木が術中に落ちたタイミングを逃さなかった。
「鈴木部長。事業本部では、明日の経営会議にて本件の効果も含めた下期経営計画を提案しようとしています」
「ですから、経営計画の審議にて、CFOのご意見も確認できるかと思います」
鈴木は、はっとした表情で二人を見た。
決定権を自ら手放したことに気付いたが、もはや手遅れだった。
苦々しい表情、そして何かを飲み込む表情……いくつかの表情が移り変わった後、鈴木は落ち着きを取り戻して答えた。
「……じゃあ、明日の経営会議の結果を待とう。そこで合意が取れたのであれば、おれも稟議を回付する許可を出す」
それは、事実上、鈴木部長を漸くクリアした瞬間だった。
部長室からでた二人。
真奈美は声を出さないように気を付けながら、満面の笑みで両手で作ったガッツポーズを山田に送る。
山田も、右手のこぶしを力強く握って笑みを返した。
第171話 不吉な予感……
山田と真奈美は、さっそく片岡に、鈴木部長も経営会議の結果に従うことを約束したと報告した。
「そうか。それはよかった。ありがとうございます。では、経営会議については私に任せていただきましょう」
嬉しそうな片岡を見て、真奈美はほっとした。
「では、明日はよろしくお願いいたします」
「うむ。あ、あと……」
片岡は最後に付け加えた。
「ないとはおもうけど、万が一、DDや契約交渉の内容説明を求められたらMA推進部でお願いできますか」
それを聞いて山田は答えた。
「わかりました。その時はお呼びいただければ説明しに伺うようにします」
電話会議を終えると、山田は真奈美に向かっていった。
「普段は鈴木部長が説明して、ぼくが質問に答えるということが多いんだけど、今回は鈴木部長は絶対に説明しないと思うから、酒井さん説明よろしくね」
「ええ!?ちょ、ちょっと待ってください。経営会議ですよ?荷が重すぎますよ」
「うん、大丈夫。大丈夫。おそらく我々が呼ばれるようなことはないと思うから」
山田は明るい声で自分の席に戻っていった。
真奈美は、不吉な予感を感じ、万が一自分が説明することになった場合の準備を始めた。
翌日午前10時。経営会議が始まった。
もうそろそろ片岡本部長の審議が開始される時間だ。
真奈美は気もそぞろだった。
すると、小巻がふらっと顔を見せにきた。
「真奈美。そわそわしすぎ」
くすくす笑っている。
「もう、仕方ないでしょ。もう何にも手につかないわよ。とにかく呼び出されませんように」
「安心しなって。呼び出されても真奈美なら大丈夫。たとえ今日が『13日の金曜日』だとしても、うまくいくわよ」
真奈美は時計を見る。たしかに……13日。金曜日だ……
「ちょっと、縁起の悪いこと言わないでよ……」
「ははは、気付いてなかったんだ。まあまあ、気にしないで」
(ほんとにもう……)
しばらくすると、山田の電話が鳴った。
「はい……はい……わかりました。伺います」
真奈美の表情が固まり、額に汗が噴き出した。
(……小巻の冗談が現実になった……)
第172話 役員会議室
社長室と同じフロアに設置されている、白馬機工本社でもっとも立派な会議室。
『役員会議室』
この会議室に入ったことがある一般社員は少ない。
会社の最上級会議である取締役会と経営会議のために用意されている会議室である。
事務局以外は、取締役や執行役員、事業本部長クラスと会社の中枢を担う超重役しか出席を許されない。
例外があるとすれば、議案に沿って特別に招集される参考出席人だ。
真奈美は役員会議室にはなじみがある。経営管理部だったころは経営会議の事務局をしていたからだ。
しかし、参考出席人として招集されたのは当然初めてだった。
鈴木部長、山田と真奈美が役員会議室の入口に立つと、経営管理部の元同僚が扉を開けた。
「MA推進部、到着いたしました」
会議室に入ると、正面に社長以下執行役員がずらっと並んでいる。手前側には事業本部長陣営が並んでいる。右側には事務局、つまり経営管理部時代の同僚たちが座っていた。
つい3か月前の3月15日までは、真奈美も右側のその席に座っていたのだ。
でも、今日は違う。
参考出席人は、左側、大型プロジェクターが映すメインスクリーンの横に立ち、社長や執行役員、事業本部長がそろっている場で説明や質問に答えることを求められる。
3人はそこに立った。
(まさか、私がこっち側に立つなんて……)
3か月前では想像もできない非常事態だった。
第173話 経営会議
真奈美からすれば元上司である経営管理部部長が司会を務めている。
「それでは、宮津精密への出資検討状況について、MA推進部から説明をお願いします」
真奈美のような係長レベルが経営会議で説明を担うことも、珍しいがないわけではない。
とはいえ、何しろ社長以下幹部勢ぞろいという錚々たるメンバーを相手にしなければいけないシチュエーションだ。冷汗が止まらない。
鈴木部長は当然自分から説明する気は毛頭ないらしくだんまりしている。
事務局席では、ついこの間まで一緒に仕事をしていた仲間たちが不安そうに心配している。
(これは悲劇だ。やはり13日の金曜日だからか……)
……小巻の不謹慎な発言を思い浮かべると、なぜか少し心が落ち着いた。
山田が『大丈夫』といわんばかりの安心した笑顔で真奈美を促した。
真奈美はごくりとつばを飲み込むと、意を決して説明を開始した。
「それでは、状況説明をさせていただきます。お手元の資料をご覧ください……」
宮津精密の概要。
出資契約の概要。
出資の目的、建付け。
シナジーや協業はすでに片岡本部長が話しているだろうから割愛し、現状の検討状況を正確に伝えることに注力した。
「……という経緯を経て、最終契約につきまして宮津精密様との内容合意に至りました。この後、投資委員会に向けて社内手続きを進めていこうと考えております」
報告を終えると一気に緊張の反動が押し寄せてきた。
重役を前にひとりで説明する役目は重かった。
両方の膝が震えている。でも、とにかくなんとかやりきった。
役員から質問が始まった。
これについては、山田が落ち着いてひとつひとつに回答していった。
真奈美は、役員と山田のやりとりを聞くうちに、なんとか落ち着きを取り戻していった。
(……山田チーフの安定さは、やっぱりすごい。こんなときにも緊張しないのかしら)
こうして一通りの質問が終わったかに見えたが……
第174話 担当者の意見
そっと手をあげて発言の機会をもとめたのは、CTOを務める落合常務執行役員兼開発本部長だった。
白馬機工における最高技術責任者である。
技術がわかるだけではCTOにはなれない。会社経営・執行における技術の方向性についてかじ取りを行う経営者、それがCTOだった。
「技術目線では良い会社だということは理解しています。新規技術にも期待できると考えています。ですが、出資すべきかという点については私は素人だ」
落合CTOは真奈美に視線を向けた。
真奈美は、その視線に気づき、緊張を高めた。
「実際にDDで情報精査し、契約交渉を行った、担当者の意見を聞かせてもらえますか」
担当者の意見、すなわち真奈美の意見を求められている。
会場の全員が、その質問の意図を察知し、再び真奈美に視線が集まった。
真奈美が不安そうに山田に視線を向けると、『大丈夫、しっかり答えれば問題ないよ』という表情が返ってきた。
常務からの質問だ。ウダウダ言っている場合ではない。
(……ええい、ままよ)
真奈美は落合に向かい、自分の考えを、思ったままに素直にそのまま述べた。
「宮津精密様のDDを行う中で、非常に誠意がある会社だと感じました。雰囲気も明るく、森社長も人望がある方でした。管理面もしっかりしています」
落合は表情を変えずに聞いている。真奈美は意見を続けた。
「事業本部も提携に期待しています。10億円の出資は決して軽いものではありませんが、出資を機に事業拡大に貢献できればと考えております」
真奈美の発言が終わると、落合の表情が緩んだ。
「わかりました。やはり実際に交渉にあたった方の意見は貴重だ。ありがとう」
こうして、すべての質疑応答を終えた3名は経営会議の席から退出した。
その後の議論がどうなったのか、詳しくはわからない。
あとは、幹部たちの議論の結果を待つだけだ。
MA推進部のオフィスに戻ると、山田は真奈美の肩をそっと叩いて労をねぎらった。
「おつかれさま。ベストを尽くせたね」
「はい……1年分緊張しました」
「ははは。あとは、ゆっくり結果を待とう」
そして、二人はそれぞれの席へと戻っていった。
第175話 審議の行方
しばらくして、事務局をしている経営管理の元同僚からチャット連絡が送られてきた。
真奈美は、慌てて山田にそれを見せた。
『出資については反論は出なかったよ』
「これって……」
「事実上のGOサインだね。この後、投資委員会での決議は必要だけど、もう止められることはないだろう」
山田の回答に、真奈美は、満面の笑みを浮かべた。
「よく頑張ったね。ありがとう。まだ終わってないけど。これで山場は超えたと思うよ」
「はい、こちらこそ、ありがとうございました」
そして、その直後、ふたりは鈴木部長室に呼び出された。
「今回の件は、20日に投資委員会を開催してもらうよう佐藤本部長の許可をいただいた」
鈴木はぶっきらぼうに告げた。
佐藤経営企画本部長。鈴木の上司だ。もちろん山田や真奈美の上司でもある。
今回の経営会議はあくまで経営計画の審議であって出資の決議をとったわけではない。
出資については、佐藤本部長が幹事を務め、CFOが出席する投資委員会での決議が必要だった。
「わかりました。1週間ありますのでしっかり準備します」
「経営会議で異論が出なかったということだが、投資委員会ではどのような質問にもすぐに答えられるように、質疑応答を完璧に準備するように」
山田は平然と答えた。
「はい。心得ております。投資委員会での報告は鈴木部長がなされますか」
「うん、おれの方でやる」
こうして、鈴木部長から解放され、ふたりがオフィスに戻ると、真奈美は猛然と山田に詰め寄り質問を始めた。
第176話 みんな見ている
「なんでPM(プロジェクトマネージャー)を推進してきた山田チーフじゃなくて、鈴木部長が報告するんですか?」
真奈美は、なんか理不尽だと感じた。
投資委員会は最終決裁の場であり、ある意味晴れの舞台。今まで反対派だった鈴木部長が、晴れの舞台だけしゃしゃり出て主役を演じるなんて……
「ははは、上から否定されるリスクがなくなったからね。鈴木部長も安心して自ら報告できるということだろう」
「でも、それって……おいしいところだけ独り占めって感じじゃないですか」
山田は苦笑いした。
「まあ、そうかもしれないけど。でも彼がMA推進部の部長なのだからおいしいところは食べてもらって、プロジェクトがうまく進むことの方が結果的には良いことだと思うよ」
確かに、そうかもしれない。と理性では理解しても感情は収まり切れていない真奈美に向かって、付け加えた。
「それにね、投資委員会の報告者がだれだろうが、本当に頑張って成果に導いたのは誰か、みんなきちんと見てくれているんだよ」
(ん?……)
フシギそうな顔をしている真奈美に向かって、山田はつづけた。
「片岡本部長がね。今晩一緒に食事どうかって。酒井さんもお誘いしたいらしい。一緒にお礼を受け取りに行こうか。今日大丈夫?」
真奈美は、山田を中心としたこのチームが認められたと知って、ほっとして食事のお誘いを快諾した。
でも、真奈美は気付いていないようだった。
(片岡本部長がお礼を言いたいのは、『酒井さん』なんだけどね)
山田は苦笑した。
第177話 嵐の前の……Part.11①
山田と真奈美は、片岡本部長のお誘いを受け六本木のホテルの上層階へ上がっていった。
いくつか並んでいるレストランの中から、中華料理のお店に入ると、係が個室へ案内した。
部屋の奥面は大きなガラス張りの夜景。
中央に4人用の大きめの四角いテーブル(円卓でない)
片岡と佐々木が待っていた。
「お待たせしてしまいました」
「いやいや、私たちも来たところですよ。どうぞ、今日は気楽に行きましょう」
個室のため遠慮することもなく片岡はいつもように大きな声で笑って、そして店のスタッフにコース料理を始めるように伝えた。
(片岡さんがこんな素敵なお店をご存じなんて……)
真奈美は失礼なことを考えながら席についた。
「今回は本当にありがとう。おかげさまで、なんとかゴールできそうだ」
片岡のあいさつを受け、ウエルカムスパークリングで乾杯する。
続々と運び込まれる料理は、前菜に始まり、創作飲茶と続く。いずれも大皿ではなく人数分に分けられている。
かなり高級な中華料理店だが、所謂『中華料理』にとらわれていない。
そして、どれも見た目もすばらしい料理たちだった。
真奈美の表情は一気に明るくなった。
「酒井さんはよく食べるらしいね。どんどん食べてください」
片岡が笑いながら真奈美に告げると、真奈美はせき込みながら箸を止めた。
(なんか……前にも誰かに大食いと言われた気が……デジャブーを感じるんですけど)
真奈美が山田をにらむと、山田は視線を逸らす。犯人は明らかだった。
第178話 嵐の前の……Part.11②
料理はまだまだ続いていった。
フカヒレのスープ、北京ダック、エビ、カニ、アワビ……
最高のグルメを味わいながら、片岡と山田を中心に雑談に花が咲いた。
その流れで、真奈美は気になっていたことを聞いてみた。
「あの、経営会議で私たちが説明に呼ばれたということは、やはり幹部の方から質問があったということでしょうか?」
「ああ、それな。最初から詳しい説明をMA推進部にしてもらいます、と宣言したんだ。その方が幹部も聞く耳持ちやすいだろうって山田さんにアドバイスをもらってね」
「山田チーフからですか?」
真奈美が驚いて山田を見ると、山田はぷいと横を向いた。
(おそらく呼ばれることはないだろうって、言ってませんでしたっけ??)
「酒井さんは経営管理時代から顔が知れているし、今回の件はいろんな場面で説明をしてきたから、うまくやってくれるだろうって。ね」
片岡の説明を受け、山田はばつが悪そうに答えた。
「は、はあ、まあ、そんな感じだったかもしれませんね」
「いや、でも的確なアドバイスだったよ。落合CTOの質問に対してもあれだけストレートに返せる度胸は見事だった。ありがとう。がははははは」
「は、はあ……」
真奈美は山田を思いっきりにらんだ。
(……あなたの入れ知恵だったんですね!?)
山田はまた視線をそらしてすまし顔をしている。
(も~!二次会は絶対に高いバーに連れて行ってもらいますからね)
ほっぺたを膨らませた真奈美の機嫌を直すために、山田はまだまだこの後も付き合う必要があるようだった。
第13章 最終契約締結
第179話 鈴木部長の猛勉強
金曜日の投資委員会までは、地獄の1週間だった。
鈴木部長が自ら説明するということで、何度も呼び出されては、とにかく事細かに説明を求められた。
「あの人は、完璧を求めるからねぇ。まあ、いい勉強になると思って頑張って」
山田は完全に他人事モードで真奈美に任せっきりだった。
(ちょっとは手伝ってくれたっていいじゃない……)
真奈美は心の中で悪態をつきながらも、なんとか鈴木部長対応をこなしていった。
「森社長の経歴はもっと調査しろ。他の役員全員もだ。レジメを出させろ」
「土地の賃借条件は妥当か?相場は調べているのか?」
「工場の人数は多すぎないか?」
「在庫は全部自分の目で確認したか?」
「なんで5年目までと5年目以降の条件が変わるんだ?」
「5年目までにEXITしたくなったらどうするんだ?」
……うんぬんかんぬん。
(もう思いついたらすぐに呼び出されて質問してくる……)
真奈美はひとつひとつ交渉経緯を含め誠心誠意答え、追加調査もできる範囲で対応していった。
第180話 投資委員会
――投資委員会
今回の10%10億円のような小規模の出資や設備投資について審議し決議を行う会議である。
CFOである田中副社長執行役員をトップとした委員会で、事務局は経営企画本部が仕切っていた。
真奈美は今回初めて、鈴木部長の補佐として山田とともに同席することとなった。
TV会議で片岡事業本部長以下事業本部のメンバーも出席している。
経営企画本部の佐藤本部長の司会で会議が始まった。
「では、本日の議題、宮津精密との資本業務提携について審議を行います。鈴木部長、投資内容を説明してください」
鈴木が説明を始めた。
会社概要、経緯、事業内容、事業計画、投資採算……
鈴木部長は、最初から推進派だったかの如く見事に前向きなプレゼンを披露する。さすがの百戦錬磨ぶりだった。
「……以上から、本件出資を御裁可賜りたく、ご審議よろしくお願いいたします」
質疑応答に入ると、田中CFOはいくつか質問を投げかけた。
これに対し、よどむことなくほぼ完ぺきな回答を返す鈴木部長。
(やはり、鈴木部長の本気ってすごいんだ……)
真奈美は鈴木の饒舌ぶりに感心していた。
やがて、質問も一通り終わると、田中が結論を述べた。
「私は内容は理解した。先日の経営会議でも異論はなかったし、反対する理由はない。ほかに意見があるものは?」
沈黙が続く。少しの間をおいて、佐藤がまとめた。
「それでは、賛成多数ということで、本件は申請通り決議とさせていただきます」
深々と礼をし満足そうな表情で意気揚々と退室する鈴木とともに、山田と真奈美も会議室を後にした。
第181話 契約締結
午後になるとすぐに、宮津精密のFAを務める大津証券の谷口Dが、宮津精密捺印済みの最終契約書一式を持参してきた。
「無事に御社でのご決裁がいただけたとのこと、ほっとしました。ありがとうございました」
「はい。我々もほっとしております。ぜひ、宮津精密の森社長、岡野取締役にもよろしくお伝えください」
「わかりました。森社長からは、契約締結のために東京に出てきたかったのですが都合が合わず申し訳ない、ぜひクロージングの際はまた京都にお越しくださいとのことでした」
こうして、契約書を預かると、谷口は一度貴社。後程、白馬機工の捺印が終わったらまた取りに来るとのことだった。
真奈美と小巻は、念のため、契約書の中身に間違いがないか、一言一句の最終チェックを行った。
1時間ほどでチェックを終えると、雑務を担当している中野に声をかけた。
「中野さん、チェック完了したから、うちの社印も捺印お願いできる?」
「はい、もう準備万端ですよ」
中野は元気に社印の捺印を取りに駆け出していた。
そして、真奈美と小巻は……打ち合わせコーナーで放心していた。
「やっぱり、契約書の印刷は自分からスタートすべきね。紙の契約書を一言一句確認するのはしんどいわ」
「……賛成。次からはそうする、絶対」
10分もたたずに白馬機工の捺印が押された契約書の束を片手に中野が元気に戻ってきた。
「はい、これで完璧ですよ」
わかっていたつもりだが、真奈美は改めて中野の実務執行能力に高さに関心し感謝した。
正直、このような雑務を自分で一からやっていたら、それだけで半日吹っ飛んでしまう。それをいとも簡単にこなしてしまう中野はMA推進部には欠かせない存在だった。
「中野さん、ありがとう。流石、段取りいいわ」
「いえいえ、今日は定時で用事があるので根回ししておきましたから」
中野にとっては、金曜日の夜は定時で切り上げて合コンに行くものと決まっているようだった。
色んな意味で超級の中野の支援のおかげで、真奈美たちは無事に、6月23日夕方に最終契約(SSA、SHA、業務提携契約)の契約締結を完了したのだった。
第182話 嵐の前の……Part.12
「契約締結、おめでとう」
「おめでとう。ありがとう」
金曜日の定時後。
ちょっと奮発してビストロを予約した小巻と真奈美は、スパークリングで契約締結を祝いあった。
オードブルには色とりどりの野菜とピンクのサーモンカルパッチョ。
「それにしても、MA推進部に入ったばっかの真奈美が、よくこの短期間でしっかり契約まで結びつけたもんね」
「いやー、小巻にいろいろ指導してもらったからだよ」
「うんうん、先生がよかったんだな」
「ははー、心得ております」
ふたりは笑いながら談笑し、飲んで食べた。
透き通ったオニオンスープ。
鯛のロースト。川がぱりぱり、身はジューシー。
そしてメインは子羊のロースト。ソースが柔らかいお肉のうまみを引き立たせる。
グラスワインも、白ワイン、赤ワインとどんどん追加されていく。
「そういえば、今週は鈴木部長と投資委員会の準備してたんでしょ?どうだった?鈴木部長は」
「……」
急に答えが返ってこなくなったので、不思議に思った小巻が真奈美を見ると……
「……しんどかったわよ~」
真奈美がテーブルに顔を伏せて呻いた。
「すんごい細かい質問や指示がいっぱいで。ごもっともな指摘なんだけど今更な内容ばっかり。それなら最初に相談したときにまじめに考えてくれてればよかったのに」
「……ああ、そういう系統のメンドクサイ人なんだ」
「うん、今週1週間はひたすら鈴木部長に走りまわされたわよ」
泣きそうな顔をしている真奈美。
小巻が頭をなでる。
「よしよし。まさか山田チーフよりさらにドSを引き寄せちゃうなんて。本当に真奈美はドMの神様に好かれているわね」
「何よそれ。そんな神様いらないわよ~」
「わかった、わかった。じゃあ、がんばった真奈美のために、二次会を準備してあげよう」
ふたりの金曜日の夜はまだまだ終わらないのだった。
おまけ:ダイジェスト第12章 経営会議
おまけ:ダイジェスト第13章 最終契約締結
おまけ:会議体制
この会社(白馬機工)の会議体制がどのように構成されているのか、説明しますね(^^♪興味ある方はご覧ください♪
株主総会
株主総会で指名された取締役が、白馬機工の会社としての経営を行います。
取締役会
会社経営における最高会議は取締役会
超重要事項を意思決定。執行役(CEOとかCFOとか)も任命
(取締役、執行役は兼任することも多いです。白馬機工においても、代表取締役社長がCEOを兼任しています)
経営会議
執行役が実際の業務を執行するうえでの最高会議が経営会議
経営計画や大きな投資などの審議・意思決定もしくは取締役会への上申
各委員会
専門的な議案の審議・意思決定もしくは経営会議への上申
(今回の出資は投資委員会で決議したのですが、事前に上位の経営会議で内諾を得るという荒技を使いましたね)
企業によっていろいろあると思いますが、白馬機工はこんな感じでした。