小説「M&A日和」第11章
本文
第11章 契約交渉
第142話 タームシート
月曜日。
真奈美は小巻にMA推進室の打ち合わせコーナーに来てもらった。
缶詰めになってタームシートを作るために呼んだのである。
「さてさて、やりますか」
小巻は打ち合わせコーナーに入ると、早速プロジェクターにワードファイルを映し出した。
「おお、もう作り始めてくれてるの?」
「まあ、簡単な表だからね」
(やばい……やっぱり小巻は頼りになるわ)
真奈美はぽーっとそんなことを考えていると、小巻にあきれられた。
「おーい……帰っておいでー……」
(やばいやばい、集中しなきゃ!)
真奈美は気合を入れなおして、小巻が作り始めているタームシートに視線を移した。
「タームシートはね、契約の条項概要を表の形でまとめたものよ」
いきなり契約本文で交渉を始めるとお互いの労力が大きくなりすぎるので、まずは概略表で大きな目線を合わせる必要がある。と、小巻は早口で真奈美に伝える。
「で、まずはSSA(株式引受契約)のタームシートから行きましょうか」
プロジェクターに写されたタームシートの項目はあまり多くはない。
①株式発行と引受内容(発行済株数、新規発行株数、株価、新株割当先)
②引受価格の払込み方法
③株式の発行手続(クロージング手続き)
④表明保証と補償
⑤クロージング前提条件
⑥その他一般条項
大部分は交渉するというより、しっかりと手続きを規定するという内容だが、交渉が必要な部分もある。
小巻は、④と⑤を指さした。
第143話 表明保証
「表明保証は、どこまで強気で行くか悩んでるのよ。どう思う?」
めずらしく、小巻が悩んで真奈美に意見を聞いてきた。
(お!ここで私がかっこよく……)
答えようと思ったが、残念ながらそうはいかなかったようだ。
「……えっとね、表明保証って、なんとなく理解できているような、でも理解があやふやなのよね」
真奈美はやんわりと説明を求めた。
すると、小巻は(珍しく)優しく簡単に説明をしてくれた。
表明保証とは、売り手が「財務諸表は間違いはない」とか「コンプライアンス遵守している」とか、様々な事項について表明し保証すること。
表明内容が後日間違いだった判明としたら、表明保証違反となり、補償(お金を払う)する義務が発生すること。
「表明保証はRepresentation and Warranty、略してレプワラ。補償はIndemnification。インデムっていうのよ。こんがらがらないようにね」
小巻はくぎを刺した。
(やっぱり、ここでも英語略語が出てくるのね)
真奈美は苦笑しながら答えた。
「わかりやすい!ありがとう。だからこんなにたくさんの表明保証事項が列挙されているのね」
表明保証だけで、何ページにもわたっている。
「本格買収ならこれの10倍くらいは出てくるけど。今回は10%だからね」
「……どこらへんが揉めそうなの?」
「そうね。やっぱり、訴訟の恐れがないこと、偶発債務がないこと、他社の知財を侵害していないこと、あたりかな」
「あら……でも、それって、DDのときにありませんって回答されているところでしょ?だったら表明保証も受けてくれるんじゃないの?」
真奈美はこんがらがって眉をひそめた。
第144話 知る限り?知り得る限り?
「いい質問ね。これは文言の問題になるんだけどね……」
小巻は待ってましたと言わんばかりに、元気に説明を始めた。
「例えば、訴訟の恐れは本当に0%なのか?って追及されると、不安にならない?」
「……まあ、確かに0%と言い切るのは怖いわね」
「そう、それ。全く恐れがないか?って、悪魔の質問なのよ。本当はだれもそんなこと保証できないの」
小巻の目はキラキラしている。
「じゃあ、どうするの?」
「受ける側は『《《知る限り》》恐れはない』とかいう形で限定してくるの」
「なるほど……それなら訴訟されちゃっても『知らなかった』といえば免除されるのね」
「その通り。で、次に買い手はカウンターとして『《《知り得る限り》》』とすうように要求するの」
「『知る限り』と『知り得る限り』……似たようなもんじゃん」
真奈美の頭の上にハテナマークが浮かんでいる。
「似てるけどね。でも、『知り《《得る》》』となると、実際は知らなくても《《知ることができたはず》》、という場合も含まれちゃうのよ」
「ふむふむ」
「つまりね、私が『真奈美のブラはBカップ』と表明したとして、実際はAカップだったとしたら、『知る限り』の場合は知らなかったもんって言ってセーフ。でも『知り得る限り』の場合は、真奈美に聞けば知り得たんでしょ?といわれてアウトになっちゃうの」
真奈美は突然の生々しい例えに不意を突かれて慌てた。
「ちょ、ちょっと……なんてこと言うのよ」
真奈美は慌てて打ち合わせコーナーの周りを確認した。近くには誰もいなくてほっとした。
「えへへ、でも理解しやすかったでしょ?」
「それはそうだけど……私を例えに出さないでよ。今度おごってもらうからね」
「へいへい、奢りますよ~」
(ちょっとくらい大きいからって……)
真奈美はほっぺたを大きく膨らませたが、残念ながら胸は膨らまなかった。
第145話 SHA
真奈美はぷりぷりし続けていたが、小巻はさっさと次の議題へと移っていった。
株主間契約、通称SHAだ。
「では質問です。SHAは誰のためにある契約?」
(いきなり!?)
真奈美は慌てて答えた。
「えーっと、株主間っていうくらいだから、株主全員のため?」
「うーん、20点。ざんねーん」
小巻は、予想通り、と言わんばかりにニヤニヤしながら低い点数を宣言した。
(もーーーーーっ!さっきから人のこといじり過ぎでしょ!!)
小巻はくすくす笑いながら解説を始めた。
「あのね、少数株主(マイノリティ)に与えられる権利ってめちゃくちゃ少ないのよ」
株主総会の普通決議は過半数以上の議決権を持つマジョリティ株主がすべて単独決議できてしまう。
マジョリティが2/3以上の議決権を持っていたら、特別決議すら単独決議できてしまう。
「10%しか持たないのなら……ほぼ何一つ拒否権を持てないわ。だからマイノリティはSHA交渉で必要な権利を獲得する必要があるの」
「……そうなんだ」
「わかった?だから、がんばって交渉してね」
小巻は真奈美の肩をばーんと叩いて激励した。
第146話 拒否権
「SHAの主な構成は、ガバナンス規定と株式取り扱いよ」
ガバナンス規定とは、主に役員選任権利と拒否権である。
今回は役員選任権利は主張しないこととなっているので、ポイントは拒否権に絞られる。
「定款の変更、事業譲渡の承認、解散、会社再編とか勝手にされちゃったら大変でしょ。」
「どれも協業維持に大きな影響がありそうね」
「……その通り。だから、株主総会全会一致とか事前合意必要として、マイノリティでも拒否できるように規定するのよ」
重要事項の決め方は法務と相談して交渉することと決まっている。真奈美は即断した。
「よくわかりました、小巻先生。これで行きましょう」
「うむ。よろしい。でもその前に、君の場合はまずは山田チーフの鬼指示に対する拒否権を確保してきたまえ」
先生と呼ばれ、小巻は先生口調で答える。それは真奈美から見ても、美人で知的な、ドラマに出てきそうな先生だった。
「はい、行ってきます……って、それは宮津精密との交渉より難問よ」
二人は苦笑した。
そして、議題は株式の取り扱い、すなわちEXITに関する規定に移った。
「プリエンプティブを要求し、譲渡制限を外して、タグとドラッグを規定するって話ね」
真奈美は、いつの間にか苦手だった横文字や短縮略語を無意識に使うようになっていた。
「そうね。本当は他にもプットやコールという強いオプションもあるんだけど、またそのうち教えてあげるわね」
「えー?せっかくだから教えてよ。けちんぼ」
「いいけど時間なくなるわよ?」
こうして二人は、脱線を続けてしまい、タームシート完成のために月曜日を一日全部使ってしまったのだった。
第147話 契約交渉の会議アレンジ
次の日の朝、真奈美は昨晩完成したタームシートを大津証券に送り込んだ。
Web会議で説明する旨も伝えてところ、さっそく午後にでも会議がしたいとの要請が返ってきた。
真奈美は、事業本部の佐々木企画部長に連絡を入れた。
「午後に、宮津精密のFAに対して出資関連の契約説明をするんですが、事業本部からも参加していただけますか?」
出資の責任者は事業本部である以上、出資契約交渉には参加してもらうべきである。しかし……
(事業本部は業務提携契約の協議に入っているから、『そんなん本社でやっといてくれ』って怒られそう……)
真奈美は恐る恐る佐々木の返事を待った。
すると、佐々木は意外にも快諾した。
「わかりました。じゃあ接続情報をメールしてください」
どう説得しようかと肩に入っていた力が一気に抜けて、自分から質問をしてしまった。
「あ、あの、でも、業務提携契約の方もあって大変では?」
「ん?ああ、あっちは事業部に任せた。今、事業部長自らが陣頭指揮を執って宮津精密さんと協議し始めている。事業関係は事業部に任せておけば大丈夫だ」
事業本部長の下には企画部のような間接部門だけでなく、実際の事業を推進している複数の事業部が連なっており、それぞれ事業部長達が統括している。
つまり、事業部長は片岡本部長ほどではないにせよ、その次に偉い人たちと言って過言はない。
(事業部長自ら?なんとまあ、心強くありがたい。それだけ、片岡事業本部長が本気だということね)
こうして契約交渉体制も整い、真奈美はついに契約交渉の第一歩に足を踏み入れることとなった。
第148話 契約交渉開戦
5月27日火曜日の午後、Web会議による契約交渉が開戦した。
「先日は京都のマイアミ様までご足労頂きありがとうございました。おかげさまで……」
大津証券のプロジェクトを推進している谷口D(ディレクター)が長々と挨拶を始めた。久々にカバレッジ(営業部門のこと)の今井MD(マネージングディレクター:かなり偉い人)、丸山Dも参加していた。
白馬機工は、本社から山田、真奈美と小巻、そして事業本部からは別回線で佐々木が参加していた。
いつもなら山田が雑談でアイスブレイキングを行うところだが、今日はなかなか山田がしゃべりださない。
真奈美は、なんだか嫌な予感がして恐る恐る山田を見ると……会議を進行する気などまったくないという表情でふんぞり返っている。
(社内会議だけでなく、社外会議も放り投げてる??)
真奈美は自分がこの会議を仕切らなければいけないことを悟り、冷汗がどっとあふれ出してきた。
「……タームシートのご提示、また、ご説明をいただける機会までご準備いただきありがとうございます。今日はどうぞよろしくお願いいたします」
谷口の挨拶が終わり、しばしの沈黙の後、真奈美がマイクに向かって、意を決して応えた。
「……あの、えと、こちらこそ、有意義なDDをアレンジしていただきありがとうございました。京都にお邪魔して、マイアミさんがすばらしい会社だと実感できました」
(ああ……山田チーフのような軽快な雑談トークができない。全然できない。なんで、私、こんな堅苦しい挨拶しかできないんだろう……)
別に会議における雑談なんて個人の趣味なので過剰に山田を見習う必要はないのだが、なぜか本気で頭を抱えつつ会議を進行する真奈美だった。
第149話 空気が読めない
挨拶を終えると、真奈美はSSA(株式引受契約)のタームシートを、条項順に丁寧に説明していった。
「株式の発行と引受け内容につきましては、MOUで合意した内容からの変更はありません。払込み方法とクロージングにおける株式の発行手続はブランクとしておりますので、御社にて記載をいただければと思います」
そして、いよいよ表明保証と補償条項の説明に入った。
真奈美の説明がより慎重に進む。
「……表明保証については、以上となります。ここまででご質問はありますでしょうか」
「少々お待ちください」
大津証券はマイクをミュートにして、内部相談を始めたようだ。
We b会議なので相手の会場全体の様子は見えているものの出席者の表情はつかめず、どのような議論がなされているかの雰囲気は把握できなかった。
(空気が掴めないのって苦手なのよね……)
しばらくして、大津証券がミュートを解除して一言答えた。
「一旦、最後まで説明をしていただけますか」
「わかりました。それでは続けます」
こうして、大津証券の腹の内がわからないまま、真奈美はSSAの説明を最後まで進めた。
説明が終わると、大津証券から、表明保証を中心に意図確認の質問が繰り返された。
これについては同席している小巻が、ひとつづつ説明していった。
「ありがとうございました。主旨は理解できました。表明保証と補償のところを中心にマイアミ様とも十分に協議し回答させてください」
「わかりました。それでは、ご検討をよろしくお願いいたします」
(……理解はしたけど、納得はしていないということね)
想定内の反応だった。
第150話 初戦終了
真奈美は続いてSHA(株主間契約)のタームシートの説明を始めた。
争点になると予測していたポイントは、
・株主総会全会一致義務(特に、定款変更、事業譲渡や会社再編などの拒否権)
・株式取り扱い(プリエンプティブあり、譲渡制限なし、タグとドラッグあり)
の2点であった。
真奈美は一通り丁寧に説明をし終えた後、質問を待った。
しばらくして、大津証券がミュートを解いて質問を始めた。
「拒否権の意図をお聞かせください。マイアミ様からすると、事業活動に制約を受けることは避けたいところです」
真奈美と小巻は目を合わせた。想定していた質問。回答案もできていたので、真奈美と小巻が交互に落ち着いて答えていった。
「今回の出資の目的は、両社の事業提携を発展させるためです。私たちも、マイアミ様の事業活動を制約する意図はありませんが、協業体制を根本から変えてしまうような大きな変更については弊社の同意をいただきたいという意図です」
「しかしグループ会社内の再編などは事業活動の一環だと考えますが」
「略式組織再編であれば株主総会は省略されますので、社内再編を阻止する意図はありません」
「……なるほど、なるほど。わかりました」
これ以上の深い突込みはなさそうだった。
その後も、質問が続き、ときには真奈美が、また具体的な内容については小巻が答えていった。
1時間ほどで質問事項は出尽くしたようだった。
「……本日はご説明ありがとうございました。理解が深まりました。マイアミ様と相談したうえで、修正案を回答させていただきます」
「わかりました。いつ頃になりそうでしょうか」
「明日にもう一度会議をさせてください」
こうして、1回目の交渉が完了した。
第151話 特攻隊
翌日、さっそく大津証券からWeb会議の要請が入った。
「宮津精密さん、もう回答案がまとまったんですね。なかなか対応早いですね」
真奈美が驚いて呟いた。
白馬機工であれば、こんなに早く方針を決めることはできないだろう。
「中小企業のメリットのひとつだね。まあ、もしかしたら我々の提案も向こうの想定内だったのかもしれないけどね」
「たしかに……であれば、受け入れてもらえるのでしょうか」
真奈美は、それなら楽ちんなのにと期待したが、山田は怪訝な表情をして答えた。
「そんなに簡単じゃ面白くないな」
「面白くないって……山田チーフ?遊びじゃないんですよ?」
「ははは、冗談だよ。まあ、向こうはFAも付いているんだから、やはり少しは強気で押してくると思うよ」
山田は冗談といったが、はたして本当に冗談だったのかは疑問だ。山田が場が荒れれば荒れるほど喜ぶ人種だということに、真奈美もうすうす感づいていた。
「FAが付いていると、強気になるんですか?」
「そうだね。本当なら取引先でもある当社相手に、宮津精密としては言いづらい強い要求でも、FA意見としてであれば気兼ねなく言うこともできるからね」
「なるほど、確かに……FAって特攻隊みたいな役割もあるんですね」
(この後無茶難題言われたりして、当社もFA雇っておけばよかった、と後悔しなければいいのだけれど……)
真奈美は頭を振って嫌な考えを振り払いながら、交渉第2回戦に向け山田と共に会議室へ向かった。
第152話 契約交渉第2戦
「昨日はありがとうございました。早速ですが、マイアミ様とも確認をしたうえで回答案を準備させていただきましたので、ご説明申し上げます」
大津証券の谷口Dが会議直前に送ってきたタームシートのマークアップ(修正履歴が残っている修正資料)について、修正部分を中心に説明を始めた。
やはり、というべきか。
これまでに社内で話題になった部分はことごとく打ち返されてきていた。
谷口の長い説明が続いているが、山田はそれを聞くこともなくマイクをミュートにして真奈美と小巻に語り掛けた。
「ほぼ全部の論点を押し返されたね」
小巻が応える。
「そうですね。想定もしていたとはいえ、全部押し返されるとつらいですね」
「さてさてどうしたものか……」
悩む二人を見て、真奈美が質問した。
「あの……うちがまた元に戻して返したらどうなるんですか?」
山田は困った顔をする。
「よほど交渉上優位であればそれでもいいけど、議論が進まなくなるし、相手との信頼関係を崩しかねないから、本来双方がいくらかは歩み寄る案を出しあうのが常套句なんだけどね」
「なるほど……確かに、交渉で平行線が続いたらになったらよくないですもんね」
真奈美が納得したようにうなづいた瞬間、スピーカーから大津証券の質問の声が聞こえてきた。
「……と考えておりますが、ハワイ様のお考えはいかがでしょう」
(ハワイは白馬機工のコードネーム。うちへの質問?やばい、聞いていなかった)
真奈美は慌てて山田をみると、山田はさっとミュートを解除し、すらすらと回答を始めた。
(……私たちと話していたと思ったのに……向こうの話も来ていたのかしら。聖徳太子並みのマルチタスク搭載AIスピーカーみたい?)
助けられた自覚もなく失礼な想像をする真奈美だった。
第153話 借りを返す
山田は再びマイクをミュートにして、真奈美と小巻に呟いた。
「とにかく一旦持ち帰って相談しようか」
真奈美と小巻もうなづいた。
真奈美はミュートを解除し、今日のお礼と、白馬機工で内容検討させてもらうと回答。
大津証券からは、契約ドラフトを準備しているので、次からはタームシートではなく契約ドラフトベースに協議したいとの申し出を受け、了承し、会議は終了した。
その日の午後、山田は真奈美を呼んだ。
「実はさっき、岡野取締役から電話がかかってきたんだ」
「岡野取締役からですか」
「うん。率直に言うと、今回はゼロ回答になってしまったが、このままお互いがゼロ回答を投げ合うことは良くないので、うちから折衷案を提案できないかってお願いだったよ」
確かに、このままでは平行線になりかねないことは理解する。
でも向こうはゼロ提案だったのに、こっちから折衷案っていうのは若干引っかかるが……
「……先日のDDで借りがあるから、借りを返すという意味では、こちらから折衷案を提案することもありでしょうか」
真奈美は山田の顔色を窺うと、山田は苦笑しながら言った。
「うん、その通りだね。借りたものは返そうか。折衷案の検討、社内議論を進めてくれるかな」
「はい、やってみます」
真奈美は元気よく席に戻り、法務部のオフィスへと走っていった。
第154話 お硬いのはお好きですか?
翌日の木曜日の朝。
「おはよー、小巻、眠いよ~」
「お、その顔は、夜遅くまで契約ドラフトを読んでいた顔だね」
「はーい。全部読みましたよ。なんで契約ってあんなに難しい言語でかかれているのかしら。もっと小説みたいにわかりやすく書いてほしいんだけど」
真奈美はあくびをしながら文句を言った。
確かに、契約の文章はかなり硬い。
例えば、払い込み前提条件にしても、真奈美にとっては
『一定の条件が整ったら対価を払う』という15文字でいいんじゃないの?
と思う内容が、これを契約文章にすると以下のようになってしまう。
『投資家は、本払込期日において以下の各号に掲げる条件が全て充足されていることをその前提条件として、第1.2条に定める本株式の払込金額全額の払込義務を履行する。(経産省のひな形から抜粋)』
小巻は苦笑いをした。
「まあ、確かにね。絶対に誤解が生じないようにガチガチの文章にしていくからね。特に出資契約は独特な表現が多いし……」
小巻は苦笑の後、真顔で不気味な声を出した。
「でも、大津証券のドラフトはまだかわいい方よ?だって、一番面倒くさいプリエンプティブ、タグやドラッグの規定を全部削除しているんだもの」
それを聞いて、真奈美の顔色はさらに青ざめた。
「それって、こっちから追記しなきゃいけないの?」
「そういうこと。さあ、今日は折衷案も作らなきゃいけないんでしょ。ビシビシ行くから覚悟しなさいよ。楽しい一日になりそうね」
にっこにこの小巻に打ち合わせコーナーに監禁される一日となったのだった。
第155話 事業本部の責任と信頼
翌日の5月30日金曜日。5月度営業日最終日である。
真奈美は昨日夜から片岡本部長と相談するための資料作成を始めており、午前中には何とか準備が完了した。
現地DDを終えて、契約交渉に入って1週間。6月中旬に契約するという目標を考えると、そろそろ交渉をまとめ上げていかなければいけないタイミングである。
佐々木と相談し、午後早めに片岡本部長に状況報告、相談をすることとなった。
そして迎えた片岡本部長との会議は、まずは事業本部内の協業契約の状況報告から始めまったが冒頭から荒れ模様だった。
「1週間もたったのにまだ協業契約がまとまっていないとは、どういうことだ!?」
事業部長からの報告内容に納得できない片岡の怒号が響いた。
笑うときだけでなく怒るときも同様に大声だから、迫力がすごい。
「事業部長陣頭に仕切っているんだろ?早く協業契約をまとめないと本社の手続きも進まないだろ」
「はい、連日協議を重ねていますので……」
「結果が必要だ。加速しろ。京都に行って宮津精密の開発部隊に張り付いて内容と条件を固めてこい」
……あちゃー。経営管理時代もこのような場面にはよく遭遇していたので驚きはしないが、慣れることはない。
本部長の怒号は、事業責任のすべてを担い統率するものとして、部下を信頼しているからこそ発せられる非常に重いメッセージ。
事業部のメンバーはそれを理解していた。
「はい、許可をいただければ、本日からでも現地に私も張り付きます」
「許可する。このプロジェクトはうちの本部の要だ。最優先に対応せよ」
こうして、事業部長自ら週末にもかかわらず京都に押し掛けることが確定した。
第156話 すっごくやりづらいんですけど……
「で、出資契約の方はどうですか」
一通りの大騒ぎを終えて、片岡が本社に状況を聞いた。
(……あれだけの事業本部内での乱闘を見せられた後だと、すっごく報告しづらいんですけど……)
真奈美は泣きそうになりながら周りをみたが、もちろん山田も小巻も四谷も、真奈美が対応することを信じて疑わない表情だ。
(……ええい、ままよ)
「こちらも同じく順調ではございません。先日ご相談したポイントについては受け入れられないという回答を受け、打開策についてご相談をさせていただきたいと考えております」
真奈美は包み隠さず、うまくいっていないと告白した。
「……なるほど。簡単には行かかったか。説明してください」
片岡は、自身の専門分野である協業対応とは異なり、出資に関しては素人であることを理解しており、冷静に状況把握を務めようとしているようだった。
真奈美は内心ほっとしながら、冷静さを忘れないように説明を続けた。
「はい。懸念していたポイントを改めてお示ししますと……」
こうして、出資契約の方針協議が始まった。
第157話 折衷案
大津証券から押し返された主な論点は4つだった。
・SSAの表明保証:白馬「すべて」vs宮津「知る限り」
・SHAの拒否権:白馬「あり」vs宮津「なし」
・プリエンプティブ:白馬「あり」vs宮津「なし」
・譲渡制限:白馬「なし・タグとドラッグあり」vs宮津「あり」
「……で、対応策はできていますか?」
「はい、折衷案となりますが、提案をさせていただきます」
真奈美はTV会議の画面を、先ほど完成した打合せ資料に切り替えた。
「当面、両社は円満に協業が続けるための座組維持として優先順位が高い項目は当社の地位が希薄化しないこと、すなわちプリエンプティブと考えます。」
「うん」
「ただし、ある程度の期間が過ぎ協業状況が変わって両社が揉めたときはEXIT手の方が重要になります……」
真奈美は全開の打ち合わせで言ったことを再度繰り返した。
「確かに。以前もそういっていたな」
「はい。そこで、一定期間たつまではプリエンプティブあり且つ譲渡制限ありとすれば白馬と宮津の両案をそれぞれ採用できます」
「なるほど、1対1か。一定期間後は?」
「逆に、プリエンプティブなし且つ譲渡制限なし、とすることで、逆の1対1に切り替えます」
「はおー」
片岡がうなった。
「なるほど……座組を維持する期間を決める。確かに、合理的な考え方だな。どのくらいの期間がいいかな……5年ぐらいが妥当か」
「はい。ここが合意できるのであれば、表明保証は宮津案を、拒否権は当社案を提案し、こちらも1対1の形とします」
「うん。フェアな提案に思えますね」
もちろんまだ宮津精密が受け入れるかはわからないが、まずは折衷案を片岡に受け入れられ、真奈美はほっとした。
第158話 本質は早期協業の実現
「それでは、一度ドラフトを修正したうえで、来週宮津精密側に回答しようと思いますがよろしいでしょうか」
真奈美は会議のまとめを始めたが、片岡は何か引っかかているようだった。
「結局いつ契約がまとまることになるかな?」
真奈美は返答に窮した。
「宮津精密がすべて飲み込んでくれれば次で合意になるのですが……」
「でも、宮津精密さんは交渉に出てきていないんだよね?」
「はい、今のところFAの大津証券と交渉をしています」
片岡は少し考えてから……
「次は私も出るので、宮津精密さんにも出てもらおうか。一気にけりをつけたい。要請してもらえますか」
真奈美は、おどろいて山田と小巻の表情を見た。
立場が高い人ほどなかなか交渉現場には出たがらないことが多いが、片岡は比較的機動的な思考を持っているようだった。
「せっかくの良縁なのに、議論や交渉だけで時間を浪費していても意味がない。本質は早期協業の実現。時は金なりだ。私が森社長と一気に決める。どうかな?」
真奈美は脱帽した。
「はい、ぜひ、そうしていただけると助かります」
その後、森社長との交渉時の話の持って行き方、それぞれの役割分担を決めて会議は終了した。
その日のうちにFAを通じて日程調整が行われ、6月第1週月曜日にいよいよ片岡と森のトップ対談が設定されることとなった。
第159話 サミット会議開幕
6月2日月曜日。
白馬機工の要請に即座に応じた形で、宮津精密の森社長、岡野取締役、FAである大津証券のメンバー、そして白馬機工からは事業本部から片岡本部長、佐々木部長、本社から山田、真奈美、小巻と、錚々たるメンバーがそろった。
4拠点によるWeb会議、まさにサミット会議が行われるところだった。
会議を仕切るのは大津証券。
「それでは、本日は出資契約でまだ合意できていない4つの論点につき、集中的に解決を図りたいと思います」
画面には4つの論点が映し出される。
内容は、先日真奈美が社内会議で示した資料と変わりはないが、プレゼン資料としての見た目は断然きれいなものだった。
(やはり専門家の資料は見やすくてきれいね……フォント、色使い、配置……わたしも見習おうっと)
真奈美は感心しながら大津証券の会議の進め方を注視した。
大津証券の谷口は、挨拶は長いが、本題に入るととてもスムーズなファシリテーターぶりを発揮した。
言葉遣い、話の振り方……さすがにM&Aを数多く実行してきた専門家である。
経営管理で社内を取り仕切ってきた真奈美とスキルは似ているが、レベルは格違いであった。
(これも、見習うべきところね)
「……状況の共有は以上になります。それでは、マイアミ様より、まずはコメントをいただけますでしょうか」
マイアミとは宮津精密のコードネーム。
プロジェクト関係者しかいない会議でもコードネームを徹底しているところも抜かりがない。
こうして、最初のピッチャーマウンドに立ったのは、宮津精密の森社長だった。
第160話 お互いの主張
「この度はいろいろとご検討をいただきありがとうございます。また本日は打ち合わせのご提案をいただきありがとうございました」
森社長が丁寧にあいさつを始めた。
「まだいくつかの協議事項が残っていると聞いておりますが、本日決着できるよう議論を尽くせればと思います。よろしくお願いいたします」
こうして最終交渉が開幕した。
事前の作戦通り、先制をしたのは片岡本部長だった。
「我々は事業提携が目的、加えて出資者としての権利の維持と出口も確保する必要があります。お互いの関係を良い関係で維持し続けるためにも、我々の提案を再検討いただきたい」
これは白馬機工の会社方針でもある。と、片岡は丁寧に説明を行った。
「ご提案ありがとうございます。ですが、弊社としても御社との協業を実現させるのであれば御社が保有する弊社株式の他社への売却も想定したくないところです」
森社長も瀕死の宮津精密を復活させここまで大きくしてきた切れ者である。
片岡との1対1の議論が続いた。
しばらくはお互いの主張をしあって平行線になるかと思われた矢先、片岡が打開に踏み込んだ。
「……お互いの主張はどちらも正当ですな。とはいえ、このままでは埒があかない。どうでしょう。少しお互いの妥協できるポイントがないか、目線合わせをしませんか」
「もちろん、そういう議論をさせていただけると助かります」
森も片岡との舌戦は緊張したのだろう。安堵した表情を浮かべた。
(双方、主張すべきところはしっかりと主張したうえで、満を持して折衷案の議論に入る。確かに、この方がお互い納得感が高まるわね)
真奈美としては、本部長や社長という事業責任を担う者同士のハイレベルな交渉を目の当たりにするのは初体験であり、圧倒されながら攻防を聞いていた。
第161話 協業座組を軸とした考え方
「実は弊社でもいくつか折衷案を考えてみました。担当より説明をさせてください」
こうして第二打席は真奈美に渡された。
真奈美は、この二人が築いた議論の礎にほんの少しの亀裂もつけないように、慎重に話を進めていった。
「……ということで協業座組を維持したいと考えておりますが、協業の役割が変わっていくこともあり得るでしょう。ですので、例えば5年間の協業座組は固定する案を提案させていただきます」
真奈美は具体的な内容の説明を行った。
・最初の5年間は譲渡制限あり(宮津精密案)、プリエンプティブあり(白馬機工案)
・6年目以降は、譲渡制限なし+タグ・ドラッグあり(白馬機工案)、プリエンプティブは解除(宮津精密案)
これを聞いた森社長はまんざらではない雰囲気だった。
「確かに、協業座組を軸に考えるのであれば、合理的な提案です」
「ありがとうございます。それともう一つ、重要事項全会一致とSSAに関しては弊社案を再検討いただきたいと思います」
「少々お待ちください」
森社長はしばらくミュートにして内部で相談をした後、マイクを戻して回答した。
「正直にいいますと、SSAの表明保証はやはり限定を考えていただきたい」
それを聞いて、片岡が割って入った。これも事前の予定通りの流れである。
「森さん。それであれば痛み分けにしませんか。表明保証は御社の要求をのみましょう。重要事項全会一致は弊社の要求を呑んでもらえませんか。ここは両社の協業を維持するためにも、弊社としては譲れないポイントです」
それを聞いて、森の表情は少し和らいだ。
「わかりました。片岡さんのご提案を受け入れさせていただきます。折衷案の提案ありがとうございます」
交渉が山場を越えゴールが見えた瞬間だった。
「とんでもない、こちらこそありがとうございます。それでは早く契約をまとめていきましょう。協業の契約も、そちらに事業部長を送らせてもらいましたので、こきつかってください」
がはははという片岡の笑い声を伴い、トップ会談は円満に終了することとなった。
第162話 嵐の前の……Part.10
月曜日にトップ会談で折衷案に合意した後は、大きな争点は発生しなかったものの、契約文言は意外にも細かい文言のやり取りが続きかなりの時間を要した。
修正案の投げ合いが何度か続いた末に、ついに金曜日、SSA、SHAともに契約書の内容合意に至り、タイミングを合わせたかのように事業本部からも事業提携契約合意の連絡が入った。
「お疲れ様~」
「お疲れ様~」
真奈美と小巻の二人は新宿のにぎやかなスペインバルのカウンターで乾杯した。
「ああ、この2週間よく働いたわ。でもよかったわね。合意できて」
「ありがとうね。小巻が頑張ってくれて助かったわ」
「ふふふ。法務がここで頑張らないとどこで頑張るの?って言われちゃうからね」
二人は談笑しながらワインを飲み干していった。
スペインのスパークリングワイン。
タパスの皿がどんどんなくなっていく。
「お、きたー」
「これこれ、待ってたのよ」
アツアツのパエリアが運ばれてきた。
エビ、イカ、ムール貝……
ふたりはハフハフ言いながら食べまくる。
二人の食はとどまることを知らない。
「おいしいわぁ……ムール貝って、なかなか近くのスーパーで売ってないのよね。だからいつも貝抜きパエリアしか作れなくて少し寂しいのよね」
それを聞いた小巻が驚いた顔で真奈美を見る。
「え?真奈美、パエリアなんて作れるの?」
「失礼ね。作れるわよ。小巻も少しは料理くらいできるようにならないと……」
「いいんだもん。外食と弁当で生きていけるし。料理できなくても彼氏もいるし。料理できても彼氏がいない人もいるらしいけど……ね?真奈美ちゃん?」
「……私はたまたま、《《今だけ》》フリーなだけだもん。そんなこという小巻は飲みが足りなーい」
(憎たらしーい、今日はとことん飲ませてやる)
こうして、二人の夜は深夜まで続くのであった。
おまけ:ダイジェスト第11章 契約交渉
おまけ:交渉論点総まとめ
今回の出資に関する契約の構成・論点の総まとめです。
トップ会談でまとめた論点が緑色のところです。
両社の要求をうまく組み合わせた折衷案で決着しました(^^♪
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