小説「M&A日和」第7~8章
本文
第7章 MA推進部部長
第80話 鈴木部長
4月28日の月曜日。
明日からGWに入るので今日が今月最終日、になるはず。
それは、鈴木部長が決裁を出してくれるか否かにかかっている。
昨日、山田はニコニコしながらこう言っていた。
『もしNGだったら……GW明けにすぐにリベンジできるように、GW中に宿題をこなさないといけないね』
(土曜日も遅くまでがんばったんだ。準備は万端。いざ、勝負!)
そうして、昼休みが明けると、山田と真奈美は部長室のドアをノックした。
「鈴木部長、先日頭出ししておりました、宮津精密への出資の件です。ノンバインディングの意向表明を出してDDプロセスに入りたいと思いますので、ご説明とご決裁を伺いにまいりました」
山田は丁寧に切り出した。
茶色の髪、すらっとした体系、赤い眼鏡の奥の鋭いまなざしが陰りを見せた。
「ああ、前に聞いたやつだね。あまり良いプロジェクトとは思えないけど?大きな案件が進んでいるところだからリソースもかけている場合じゃないと思うけど」
(……いきなり超まずい雰囲気だ。この人、話も聞く前から……)
真奈美は、自分の上司とはいえこの態度にさすがにむっとしたが、山田は飄々と話を続けた。
「はい。大きなリソースをかけるつもりはありませんが、事業本部としても本件進めたいとのことです」
「業績不振のコンシューマだよね。出資なんか検討している場合じゃないような気もするけど。まあいいや。まずは聞こうか」
「ありがとうございます。では、酒井さんから説明をさせていただきます」
山田が鈴木の好戦的な挑発をすべてさらっと受け流しているのをみて、真奈美は落ち着きを取り戻すことができたようだ。
(……大丈夫、緊張はしていない)
「鈴木部長、それでは私から説明を始めさせていただきます。まずは会社の概要から簡単にご説明申し上げます……」
こうして、真奈美にとって、自分のボスに対する初めてのプレゼンが始まった。
第81話 見抜く力
真奈美は資料にそって順々に説明し、宮津精密との面談結果まで説明を終えたところで一旦区切った。
「ここまでで、ご不明点等ございますでしょうか」
鈴木は小難しい顔をして考え事をしている。
「……ようは、この会社にプレマネー90億円を認めろってことなんだよね?」
「はい、そのような要望をいただいております」
「おれにはこんな中小企業にそんな価値があるとは思えないんだよね」
鈴木は眉間にしわを寄せながら続けた。
「売り上げ50億円、EBITDA8億円。事業計画は来年から都合よく成長しますってことだけど、根拠ないんでしょ?」
さすが、投資銀行でバリバリ働いていた実績がある鈴木はすぐに状況を見抜いた。
「その点はもう少し分析を深めておりますので。酒井さん、説明を続けてくれるかな」
山田はあえて反論はせずに、一旦すべての説明を終わらせる方向にかじを切った。
「は、はい。それでは、ご指摘いただきましたバリュエーションの分析から説明を続けさせていただきます」
ここからは真奈美にとっては自信がない領域だ。
それでも、日曜日に自宅でなんども資料を読み直し、山田からもらったエクセルファイルを見直し、参考書で復習もして……なんとか自分なりに理解したつもりだ。
(おかげで日曜日も仕事漬けだったけどね……自信持て、私!)
真奈美は説明を再開した。
第82話 リソース
――真奈美の説明はよどみなく進んでいった。
(やはり相当に場数をこなしてきているんだろう、プレゼンがとても聞きやすい。日曜日もかなり予習してきたんだろうな。M&A部門に来てまだ1か月なのにこれだけ堂々とバリュエーションを説明できるというのはすごいことだ)
山田は、真奈美の説明を聞きながら感心していた。
肝心の説明の内容は――
・バリュエーションの説明、妥当な企業価値はプレマネーで50~60億円
・10%であれば約6億円。10億円との差額は約4億円
・事業本部のシナジー効果の説明。DCFで3年目の途中で差額4億円の回収可能
と要所をうまくハイライトしテンポよく進み、鈴木も口を出さずに聞いていた。
「……以上から、事業本部としても十分効果を期待できるとのことで本件を進めたいとの意向をお持ちです。つきましては……」
最後の結論のところで、鈴木は真奈美の説明を遮った。
「やはり納得できないところはバリュエーションだ。売上増加の根拠がないなら現状維持を仮定するくらいシビアに見ても良いかもしれない」
鈴木は山田に視線を移し、相変わらずの嫌々そうな表情で続けた。
「このプロジェクトは社長や副社長や経営企画本部長からの指示ではないんだろ?しかも少額出資重要度も低い。リソースをかけべきではないのではないか?」
(……山田チーフに聞いていた通りだ。やはり、トップダウンプロジェクトでないから風当たりがより強いんだ)
真奈美は以前に聞いた話を思い出していた。
山田は冷静に答えた。
「DDは社内の最低限リソースで実施しようと思います。事業本部、法務と経理には協力を要請しますが、費用は最小限に抑えていきます」
第83話 数字を出すことの意味
「あと、事業本部がシナジー出すっていうけど、これも根拠はないんだよね?真剣に考えていないんじゃないかな?」
鈴木は懸念表明を続けていた。
山田は苦い表情ながら極めて冷静に応対を続けている。
「具体策まではまだ決め切れてはいません。DDを行ってからということになると思いますが、少なくともこの程度は実現できると考えているとのことです」
「とらぬ狸だな。適当に数字を置いただけかもしれないね?」
山田は、この方向で鈴木を押し切れるのか、攻め方を変えるべきかを思案し沈黙の瞬間となった。
それは短い時間の沈黙だったかもしれないが、その場にいるものにとっては長く感じられる一瞬……しかし、やがてその沈黙は意外な方向から破られた。
「あの、事業本部は……」
鈴木と山田はその発言元に目を向けた。
その視線の先には、真奈美がいた。
意を決して口を開いたものの、二人に注目され、途端に全身から汗があふれ出してきた。
「酒井さん、どうぞ、続けて」
山田チーフが優しくフォローしてくれる。
(ええい、ままよ)
真奈美は唾をごくりと飲むと、言葉をつづけた。
「――事業本部からはシナジー効果の具体的な年度別の数字の提示がありました。それを価値化したのが先ほどの3年回収です」
鈴木は変わらず不機嫌そうな表情のまま聞いている。
それでも……
(ここで恐れても仕方がない。正しいと思うことを言うだけだ)
真奈美は鈴木部長をまっすぐに見ながら説明を続けた。
「彼らは責任が取れない数字は本社には示しません。責任を取る覚悟があるからこそ、この数字を本社に示したと考えています」
「ほほう、なぜ、そうだと分かるんですか?」
「私は経営管理出身です。事業本部から数字のコミットを出させることが業務でしたから、事業本部が本社に数字を提示することの意味は十分に理解しております」
それを聞いて、鈴木は真剣な表情で沈黙し何かを考え始めた。
第84話 決裁
しばらくして、鈴木部長が口を開いた。
「ならば最終契約までに事業本部の責任で根拠を示すこと。そして、それを引き出すこと。君に責任もって推進をしてもらうよ」
鈴木の表情は、ここまでのメンドクサイ表情ではなく、部下に指示する上司の鋭さを帯びていた。
「今回の意向表明はノンバインディングだから承認することはやぶさかではない。条件付きで承認しよう。しっかり責任を果たすように」
……むしろ大きな責任を負ってしまったのではなかろうか。と、真奈美は不安になり、体中が緊張で固まっていった。
『最終契約までにシナジー効果について具体的に妥当性を説明すること』
鈴木は口で復唱しながら、決裁書の備考欄に手書きでコメントを書き、決裁者捺印欄に部長印を捺印した。
「これができないときは、おれは本契約の起案は認めないよ。いいね?」
「……はい、わかりました」
真奈美はなんとか震える声で答えたものの、今、自分の顔色を鏡で見たら真っ青になっているんだろうなと感じた。
鈴木はそのまま山田に向かってつづけた。
「あと、リソースはこれ以上はかけないこと。会社としての優先順位は考えなければいけない」
「承知しました。ご決裁ありがとうございます。尽力します」
こうして、鈴木部長からの条件付き決裁を獲得することができたが、真奈美にはその宿題を重い鉛のように感じた。
第85話 信頼関係
部長室から退出した山田は、ゆっくりとデスクに戻りながらさっそく真奈美に声をかけた。
「酒井さん、ありがとう。そしてお疲れ様。決裁もらえてよかったね」
本当はうれしいはずのその言葉……でも、真奈美の頭の中では宿題のことが引っかかりモヤモヤしていた。
「……私、余計なことを言ってしまったでしょうか。事業本部の責任を増やしてしまいました……」
山田は、一呼吸置くと、落ちついた口調でゆっくりと話を始めた。
「いや、むしろさすが酒井さんだと感心したよ」
山田の意外な回答に、真奈美は思わず山田に顔を向けた。
「事業本部と信頼関係をしっかりと築けている酒井さんだからこそ、しっかりと指摘できることだったんだなって」
山田は穏やかに続けた。
「今までのMA推進部では、ぼくも含めてあんなにびしっと指摘できなかった。鈴木部長もそれを感じ取ったから珍しく1回でOKを出したんだと思う。だから――」
山田はにんまりと笑うとピースサインを見せた。
「自信もって、胸張って、片岡本部長に報告しに行こう」
――ピースサインを見て、真奈美は緊張がほぐれて力が抜けかけた。
(よかった。間違っていなかったんだ)
そして、笑顔でピースサインを返して答えた。
「はい、わかりました。ありがとうございます」
そして山田は最後に付け加えた。
「あと、プレゼンも最高だったよ。短時間であれだけしっかりと理解し説明できるようになるには相当がんばったんだろうね。本当に、ありがとう」
「い、いえ、こちらこそ。で、では、事業本部の会議アレンジしてきますね」
真奈美は、自分の感情と表情が緩んでしまいそうで、それを山田に見られるのが恥ずかしくて、慌てて自分の席に戻っていった。
第86話 がはははは
――早速、事業本部とのテレビ会議が開催された。
山田から簡単に状況を聞いた片岡は、感謝を述べた。
「ありがとう。一発で鈴木部長の決裁がもらえて本当に助かった」
「はい、今日決裁取れなかった場合は、GW中でも片岡本部長にご助力を仰がないといけないと思い冷や冷やしましたが、酒井さんが打破してくれました」
「おお、そうか。酒井さんの援護射撃があったのか。ありがとう」
片岡からの謝辞。
「……あの、片岡本部長。鈴木部長からは最終契約までにシナジー効果の妥当性、具体性を示すよう条件が出されました」
「確かに彼の立場なら問うべき要求だろうね」
片岡は想定の範疇と言わんばかりに落ち着いて聞いていた。
「私は、事業本部が数字を出してきたんだから責任もってシナジー実現するはずだと答えまして、このような宿題になってしまったんだと思います。すみません、出しゃばりました」
真奈美は頭を下げた。
それを聞いた片岡は、いつものように豪快に笑い飛ばした。
「がははははは!!」
……いつも以上の大笑いだ。
「そうか、だからあの鈴木さんも納得してくれたんか。それはよく言ってくれた。ありがとう」
真奈美は、思わず山田に顔を向けると、『ほら、ね』としたり顔だ。
「あの数字は私が承認した数字だ。私が責任をもって実現する。任せてくれ」
そのときの片岡の表情は、宮津精密の森社長と意気揚々と意見交換していた時と同じ、将来を期待するキラキラした表情だった。
第87話 ついに意向表明書提出
片岡とのテレビ会議を終えると、山田は中野に意向表明書の社印を取るよう指示した。
中野の手には、すでに意向表明書と社印申請書がクリアファイルにまとめられていて、さっそくオフィスを走って出ていった。相変わらず、手際が良い。
「ついに意向表明提出だね。大津証券も今日の結果を待っているから、さっそく会議で伝えようか。段取りしてくれる?」
「はい。わかりました」
――まもなく中野が捺印版の意向表明をpdfにして送ってきた。それを大津証券にメールで送付し電話会議のアポ入れし、すぐに電話会議が始めた。
「先日面談の機会をいただきましたので、おかげさまで弊社内でもスムーズに議論が進みました」
山田は冒頭のあいさつを終えると、早々に真奈美に意向表明書の説明を促した。
(ここまでにの道のりは長かったけど、ついに正式に意向表明を提示できる)
真奈美は感無量になりながら説明を進めた。
説明が終わると、山田が補足のコメントを入れた。
「マイアミ(宮津精密のコードネーム)様のご意向である10%10億円というご要望にそのまま応える形での意向表明を出させていただきます。ただし――」
山田は一呼吸おいて続けた。
「これは弊社として協業シナジーを織り込んだ提案となります。この後のDDや協議において、シナジーの具現化について最大限のご協力をいただきたい。これが意向表明の前提となります」
これを聞いた大津証券のFAの推進チーム谷口ディレクターは答えた。
「最終確認は必要ですが、マイアミの要求を最大限考慮いただきましたので問題なく受領されると思います。GW明けに次のプロセスの案内をさせていただきます。ありがとうございました」
大津証券も意向表明の内容には満足したようで、会議はなごやかに終了となった。
こうして、意向表明の提出というM&A前半戦の最大ミッションは無事に完了した。
第88話 嵐の前の……Part.6-1
(はぁ~、これで、GW前の仕事は無事終わったのかしら?)
真奈美が自分の席に戻ると、ちょうど定時のチャイムが鳴っていて、席に座りそれをぼーっと聞いていた。
「酒井さん、このあと予定は詰まっている?」
(……次は、何があるんだろう?でも、ここまで来たんだ。なんでもこい!GWを無事迎えるためには、なんだってやってやる!)
真奈美は気合を入れなおして席を立って答えた。
「はい、いえ、予定は詰まっていないです。何でもやります」
山田は、意外にも少しはにかんだ表情で応えた。
「そうか。じゃあ、意向表明書も出せたし、お疲れ様会の晩御飯でもどうかな?」
「え?仕事じゃないんですか?」
真奈美は、山田が24時間仕事のことしか考えていないんじゃないかと疑惑を持ち始めていたので、お疲れ様会を言い出したことに驚きを隠せなかった。
そうして山田が紹介したお店は、オフィスから近い品川の素敵な洋食屋さん。
落ち着いた内装。明るい真っ白な壁は地中海の雰囲気を醸し出す。
山田は最初から躊躇なく赤ワインをボトルで頼んだ。
「酒井さんはたくさん飲むと聞いているんで」
「ちょ、ちょっと、だれがそんなこと言ってるんですか?」
(そんなこと言うの誰だ?いや、思い当たる節が多すぎる……)
何も言えなくて赤面してしまった。
若い店員さんがサーブしてくれる。イタリアの少し軽めだが香りが豊満なワイン。
このレストランのハウスワインだという。
「酒井さん、MA推進部に来てくれてありがとう。そして、最初のプロジェクトをしっかりと意向表明まで達成できて、本当に改めておめでとう」
山田がワイングラスを片手にもって宙にあげる。
真奈美も、ワイングラスを持ち上げ軽く触れる。
二人にしか聞こえない小さな乾杯音。
なんとかうまくいったんだ、という実感が湧いてきた瞬間だった。
第89話 嵐の前の……Part.6-2
やがて運ばれてくる食事は、かしこまり過ぎず、お箸で食べるのがふさわしいと思わせるカジュアルなイタリアン。
(カジュアルだけど……なんておいしいんだろう!)
「お料理はいかがですか?はい、ありがとうございます!!あ、ワインお注ぎしますね」
若い店員の気が利いていて、山田がボトルで頼んだワインをどんどんグラスに注いでくれるので、手酌する暇もない。
「山田チーフ、良いお店をご存じなんですね。お店の皆さんもとても気が利くので居心地も良いですね。よく来るんですか?」
それを聞いて、山田も笑顔がこぼれる。
「そうか。雰囲気も落ち着いているし、ここは夜も遅くまでやっているからね。女の子一人でも安心して入れるから、気に入ったのならまた来たらいいよ」
そうして素敵な雰囲気と料理とお酒の力を借りて、二人の会話は……やはり仕事の会話だった。
「片岡本部長が宿題をすんなりと受け入れてくれて助かりました」
「そうだね。片岡本部長は、今日のことがあろうがなかろうが、いずれにしても最後は事業本部がシナジー具現化を説明しなければいけないことを理解していたんだと思うよ」
「そうなんですか?」
「うん、M&Aはシナジーのために実行する場合、最終的には事業を担う責任者にきちんと妥当性を説明する義務が課せられるんだ」
「では、MA推進部にいる限り、事業本部に最後の責任をお願いせざるを得ないんですね」
「うん。逆にいえば、事業から望まれる仕事をしっかりしていくことが大事なんだ。M&Aを実現させるのはぼくたち、そのあとしっかりと成果を出すのが事業本部。一蓮托生だよね」
(一蓮托生……そっか、これなんだ)
真奈美は、その言葉を聞いて、ものすごく気持ちが固まった。
経営管理では実現できなかったこと。事業推進と管理の立場。
これに対し、一蓮托生で新しいことを成し遂げる。
(やっぱり、MA推進部に来て、よかったな……)
第90話 嵐の前の……Part.6-3
ふたりは二次会と称して、銀座のおしゃれなバーに場所を移していた。
「鈴木部長、いつもあんな感じなんですか?あれじゃトップダウン以外はすべてやるなと言わんばかりですよ」
「ははは……鈴木部長からすると、評価につながらないことにはあまり興味みたいだからね」
相変わらず仕事ネタばかりで、せっかくのバーの最高の雰囲気が台無しだが、二人とも楽しそうだから仕方がない。
真奈美がこれまでに部内のメンバーから聞いていた話だと、
・鈴木部長は、トップダウンプロジェクトについては自らヘッドを務め、
ナンバー2の山田が実働部隊の指揮を任命される
・ボトムアッププロジェクトや大きな課題があるプロジェクトには
自らは手を出さず後処理を部下の誰かに押し付ける
・結果として、そのようなプロジェクトのフォローも
山田が請け負うことになり、一番忙しく立ち回っている
「山田チーフ、今いくつのプロジェクトに関与しているんですか?」
「うーん……今は4つかな?」
「そんなに?」
「うちは人数少ないからね、でもまあなんとかなってるよ」
元々MA推進部は鈴木部長、山田チーフ、その下に課長1人、そして課員数名だった。
それぞれ投資銀行やコンサル出身で個人能力はすごいのだが、社内調整を仕切るまでには育っていないので、結局山田が走り回ることになっていた。
そこに飛び込んだ真奈美は、肩書きは係長だが経営管理部出身で社内調整も得意となれば、山田としては期待したくなる。
(山田チーフはGW中も仕事が続くのかな?)
でも、山田はそのようなことは一切話題にせずに楽しそうに飲んでいる。
真奈美は、そんな山田の横で仕事雑談しながらカクテルを飲む時間をとても幸せに感じていた。
第8章 キックオフ
第91話 DDプロセス
5月6日。GW明けの初日。
真奈美は出社早々に山田のところへあいさつに行った。
「十分リフレッシュできましたか?」
「はい、おかげさまで。温泉旅行を満喫してきました。あとでお土産配りますね」
「ありがとう。うん、満喫できてよかったね」
「はい、思いっきり羽を伸ばしてきましたよ」
にっこにこで語る真奈美。
すでに山田の術中にはまっていることに、まだ気づいていない。
「うん、じゃあ、リフレッシュもできたことだし、今日からのんびりリスタートしよう。早速、大津証券からこの次のプロセスについて提案が来ているから、レビューしようか」
「わかりました。メール確認したら打ち合わせコーナーに行きますね」
こうして、GW明けの業務が始まった。
大津証券からのメールでは、宮津精密も意向表明には感謝していること、表明内容に異論はなくDDプロセスに参加してほしいことが記載されていた。
そのDDプロセスは、ざっくりいうと、
・5月8日(木)VDR開設
・5月12日(月)宮津精密でマネプレ
・5月12日~16日(金)現地集中DD
・5月下旬~6月上旬 DDのQAセッション、出資契約の協議
・6月中旬 出資契約の締結
・7月1日 出資実行
というものだった
山田は、真奈美に軽い口調で言った。
「つまり、来週は宮津精密に乗り込んで1週間現地DDが必要だね。そのためには明日にでもキックオフして準備を整えないと。忙しくなるね」
山田の笑顔とは裏腹に、またも厳しいスケジュール。しかも、あの山田自ら忙しくなるねと……
(これって……やばい状況なのでは?)
真奈美の頬を冷たい汗が流れて落ちた。
第92話 VDR
「あの、まずは何からやればいいでしょう?」
真奈美は恐る恐る尋ねた。
「そうだね。まずは5月9日(木)にVDR開設だから、それまでに社内体制を整えよう」
「VDRですか?」
「うん、Virtual Data Roomといって、対象会社の情報を開示するクラウドサービスだよ。情報開示はVDRで行われることが一般的なんだ」
「ファイルサーバーみたいな感じですね」
「うん、アクセス権を細かく設定したり、アクセス履歴を全部残しておくこともできるよ」
(なるほど……便利そうだ)
「最低限のチームになるけど、VDRが開いたらすぐに資料チェックに取り掛かれるよう体制準備しておくのがいいね」
「専門家もいないけど、自分達でがんばって調査しなきゃいけないんですね」
「うん、大変だけど、いい勉強になると思うよ。がんばろう」
真奈美はやっと、すでに自分がにこちゃんドSの手のひらの上でころころ転がされていることに気が付いたが、時すでに遅しだった。
(……にこちゃん笑顔が小悪魔に見えてきた)
山田は元気に続けた。
「まずは事業本部や法務と経理を集めてキックオフ会を開こう。プロジェクトの説明は鈴木部長に説明したものと意向表明書をそのまま使えばいいだろう」
「はい」
「あとは、体制表とスケジュール表、そしてDD実施に向けてのポイントを作ってくれるかな。他のプロジェクトのキックオフ資料の事例を参考にしてくれればいいから」
「は、はい。やってみます」
「それと、法務と経理には正式にチームメンバーを任命してもらうようにぼくの方から依頼をしておくから、キックオフの日程を調整してくれる?」
矢継ぎ早の指示に圧倒される真奈美。
DDするということは大変なんだということを、早くも実感し始めていた。
第93話 キックオフ開始
翌日午後、本社会議室と事業本部会議室をTV会議でつないで、キックオフが開催された。
(まあ、キックオフ資料も昨日から今日午前にかけてなんとか準備できてよかったものの……いつもどおりギリギリね)
真奈美は、GW明けすぐにハードワークをしていることにさほど違和感を感じなくなっていることを自覚はしていないようだった。
キックオフの出席者は全部で12名だった。
・事業本部からは、片岡本部長と佐々木企画部長および事業部メンバー6名が参加
・法務からは、NDAや意向表明の流れを受けて引き続き高橋小巻が参加
・経理からは、四谷課長が参加
・MA推進部から、山田と真奈美
通常のM&Aのチーム体制に比べかなり少ない方だが、リソースをかけられない手前致し方ない。
経理から参戦する四谷はベテラン年配。寡黙だが堅実に業務をこなすことからM&A関係のプロジェクトに頻繁に任命されるため、山田からすれば馴染みがあるらしい。
その山田は、当然のように真奈美にファシリテーションを任せて、安心しきった顔をして席に座っている。
(もう……社内会議は完全に丸投げということでしょうか??)
ほっぺたを膨らませっる真奈美。
(ええい、ままよ)
「……えっと、皆様お集まりいただきありがとうございます。それでは、プロジェクト・サーフのキックオフを開始させていただきます」
こうして、DDに向けたキックオフが始まった。
第94話 プロジェクトオーナー
「では、まずは本プロジェクトのオーナーである片岡本部長より、キックオフにあたってのお言葉をいただけますでしょうか」
真奈美に指名された片岡は、TVの画面に向かって起立しマイクを持った。
「みなさん、協力ありがとう。宮津精密さんとはこれまでも良い協力関係を築いてきました。今回は、新技術を導入するための資金調達を当社に求めてきており……」
片岡は、いつもよりかなり慎重にスピーチを進めていった。
『プロジェクトに責任を持つオーナー、片岡本部長の意思を冒頭メンバーにきちんと伝えること。その責任と意志の強さを示すことによって、チームが一丸となってDDに向かうことができる』
山田はそう言って、冒頭は片岡にマイクを預けるようアドバイスをしていた。
「……彼らの取り組みが実現できれば、当社にとっても大きなプラスになると確信しています。ぜひ本件を成し遂げたいと思うので、力を貸していただきたい。以上です」
真奈美は、いつもの豪快な笑い声を封印した片岡の鋭い表情と力強い声明によって、メンバーにしっかりと緊張感が張り巡らされていくのを感じた。
第95話 防御線
その後、真奈美は資料に沿って簡潔にプロジェクトの経緯を説明し、DDに向けての本題に突入した。
①コードネーム、パスワードの徹底
宮津精密はマイアミ、白馬機工はハワイ、両者間パスワードはguam
(ただし、社内パスワードはyuiとする)
②体制
プロジェクトオーナー(プロジェクトの総責任者)は片岡本部長
PM:プロジェクトマネージャー(実行部隊のトップ)は山田チーフ
PMO:プロジェクトマネジメントオフィスは、佐々木と真奈美
その下に、事業分科会、法務分科会、経理分科会を設置
③スケジュール
来週マネプレ・1週間現地集中DD……契約は6月中旬、出資実行は7月1日
――真奈美は、このような内容を手際よく説明していった。
「一旦ここまででご質問などはありますでしょうか?」
しばらくの沈黙の後、四谷から手が上がった。
「あの、外部専門家は採用しないということでしょうか」
予想される質問だった。
「はい、皆様にはご負担をお願いすることになってしまいますが……」
真奈美は心苦しくも落ち着いて回答した。
「マイアミは本社工場が一つだけ、子会社も無く極めてシンプルな会社です。また今回の出資規模は10%10億円と比較的小規模出資になりますので、今回は費用対効果を考えて社内でDDをやり切りたいと考えています」
「なるほど、経理としてはそれでも対応できるけど、法務は大丈夫ですか?」
四谷は小巻に質問を投げた。
「はい。この規模であれば法務も対応できると思います。ただし、DDや契約書の作成には少し時間をいただく必要があります」
(……小巻、うまいなぁ。後日の山田チーフからのプレッシャーを緩和するために、あえて最初から防御線を張ったんだ)
真奈美が感心して小巻を見ると、小巻はどや顔でウインクして見せた。
(もう……にくたらしいけど……心強いわね)
第96話 ビジネスDDの今回のポイント
「それでは、実際のDDで皆様に見ていただきたい内容について説明します」
ここでようやく、真奈美はマイクを手放し、山田が後を引き継いで、DDでの注意点や心構えなどを説明していった。
「事業のメンバーには、ビジネスDDをお願いします。10%出資が10億円の価値があるか、についての確認が最重要課題となります」
――そのためには、
①事業計画は現実的にはどうなるか
②シナジー効果はどの程度具体化できるか
③想定していないリスク(会社の価値を下げるもの、協業を阻害する要因)
がないか
リソースも少ないので、この3点にフォーカスを当てていくこと。
「事業計画、シナジーについては、ビジネスDDの中で、佐々木部長を筆頭に事業部のみなさんにしっかりと確認していただく必要がありますのでお願いいたします」
山田がそういうと、片岡がフォローを入れた。いつもの豪快な笑いとともに。
「みんな、頼むぞ。とにかくシナジーの具体化が必要だ。本社からもそれがないと出資はさせないと言われているんだ。それどころか、オレは首になるかもしれんからな。たのむぞ。がはははは」
(やっぱり、神妙にしていたのは我慢だったのね。でも、この方が片岡本部長らしいわ)
第97話 要求資料リスト
「本社のみなさんは、十分にDDの経験はあるかと思いますが……」
山田は、四谷と小巻に向かってつづけた。
「想定していないリスクを洗い出してほしい。場合によっては価格交渉、契約交渉でリスクヘッジをしていきます」
四谷は財務税務DD、小巻は法務DDを担当する。
「今回はマイノリティ出資なのでDDのフォーカスを絞りたい。財務諸表の正確性、IMには記載されていないが悪影響が大きい契約や偶発債務の確認に重点を置いていただきたい」
そして、全体に向かって資料を提示しながら説明を進めた。
「各DDに向けて、要求資料リストの雛形を準備しています。不足があれば追記し週末までに完成させてください」
要求資料リストとは、DDのために宮津精密に準備してもらう資料のこと。
法務DDは、会社登記・定款・取締役会議事録、契約・知財・訴訟……
財務税務DDは、財務諸表明細、取引先リストと取引条件、税務申告書……
ビジネスDDは一番量が多い。
経営管理:社内規定から管理体制、過去の予実実績…
事業:重要取引先情報、企画・決定・受注・生産の仕組み
バリューチェーン、投資実績、将来計画……
開発生産:技術、設備、工場……
他:労務、環境、ライセンス……
リストだけで何十ページもある。
それでも四谷と小巻は文句言わず受け取った。
「わかりました。確認しておきます」
(強者だ!)
本社側が文句も言わずにリストを受け取ったからか、事業本部側からも文句は出てこず、無事にキックオフは完了した。
第98話 DD段取り調整
キックオフの翌日。
真奈美はVDRにアクセスするメンバー表を整理し大津証券に伝えた。
続いて、マネプレ・現地集中DDの段取りに入った。
宮津精密は京都府に本社工場を有する。白馬機工からは宿泊出張が必要だ。
その段取りは、ちゃっちゃかと中野が推し進めてくれていて、午前中には切符も宿泊も手配が終わっていた。
出席者は、12日初日はマネプレがあるのでキックオフのメンバー全員。
その後の現地集中DDは片岡を除くメンバーで対応することとなった。
「マネプレって、どう進めるものなんですか?」
通称マネプレ。正式にはマネジメント・プレゼンテーション。
DDの初期に対象会社を実際に運営しているマネジメントから直接、対象会社の事業・経営・管理などについて詳しく話を聞ける大きなチャンスだ。
「買い手から説明してほしい内容を提示するというやり方もあるんだけど、今回は売り手側にFAが入ってしっかりと準備をしてくれているようだから、向こうの説明を聞いて、こちらから質問をするというスタンスでよいと思うよ」
(おっと、めずらしく、こちらからのプレゼン資料の準備はいらないということかしら?)
真奈美はほっとして、席に戻ろうとしたところ……
「VDRのアクセス権設定完了だって。開示資料が見れそうだよ。軽く目を通しておいてくれるかな?」
(もう……要求資料リストも読み終えていないのに……なんだか、スーパーのチラシを見ておいて、くらいの軽い口調でしたけど?)
真奈美はほっぺたを膨らませながら自分の席に戻ってパソコンを確認した。
第99話 嵐の前の……Part.7
日曜日の京都の夜。
温泉大風呂があるビジネスホテル。
前泊で京都に乗り込んだ真奈美と小牧は、チェックインすると早速、大風呂に入り新幹線での移動の疲れを癒していた。
「はー、気持ちいいわね。やっぱり温泉って最高だわ」
「先週も温泉浸かってきたばかりだけどね」
ふたりは苦笑しながら、まったりと入浴を堪能していた。
「それにしても、山田チーフは鬼ね」
小巻がぼやき始めた。
「1日2日でDD要求資料リストを確認しろだなんて……事業本部もさぞ大変だったでしょうね」
真奈美は苦笑した。
「ごめんね〜、でも助かったわ。何とかみんなから回答をもらえたので事前に出すことができたわ」
は〜、とふたりでため息。
「本当に、ものすごい量よね。私、リスト読むだけで夜更かし連続だったわ」
「リスト全部読んだの?……私は法務部分しか読んでないけど。真奈美は本当によくまあ山田チーフの下で文句も言わずに走り回っているわね」
「まーねー、昨日は流石に一日休んだけどね。なんか、もうこのペースに慣れてきたというか……」
「うわ、やばいって。そんなんじゃお嫁に行けなくなるよ?」
「ちょ、余計なお世話よ」
まだ早い時間だから二人以外の入浴客はいない。
二人は、思う存分入浴と雑談を堪能し……
「さて、お風呂から上がったら、飲みに行きましょうか」
「行く行く!行くに決まってるでしょ。で、どこ行く?」
明日から、過酷なDDが待ち構えていることを理解しているので、今日は存分に京都の夜を楽しみたい、と街に繰り出す二人であった。