煩悩と悟りのあいだで
昨年の一時期激しく仏教マイブームで、なぜか僧侶資格を取ろうと思っていました。いや、今でも欲しいと言えば欲しい。(資格大好き)
仏教に興味を持ったのは、開祖が「苦しみから逃れるために自ら道を探した人」だからですかね。他の開祖のように、私を信じれば幸せ、私が世界を作った、ではなく、私もしんどかった(ぴえん)というのが仏教の開祖であるという理解です。生きるとは時としてしんどいよね(ぴえん2回目)
仏教がどんな宗教かは、それぞれお調べいただくとして。全ての苦しみやしがらみから放たれ心の安寧を得た悟りの状態にどうやって辿り着くのか、非常に興味がありました。ただ、人間として生きる限り、また「社会」という仕組みの中で生きる限り、私たちは「何かを求め、そこに達さない苦しみ」というのと対峙し続けなければいけません。(だからインド仏教では、悟りのため社会から外れ出家するという仕組みを形成している)
まあ、そんなん無理やん、という感じ。「社会」で生きることを習ってきて、そこに順応することを良しとして、捨てるとはどんな勇気だと。世捨て人にはなれないし、世界は辛くとも魅力的なもたくさんある。
ただ一つ思いついたことがあって、若かった頃、今よりもっと欲しいものだらけで足りないものだらけの飢えた状態だった頃。あの時欲しかったものを大人になって、手にしてみて「ああ、こんなものか」と思うことがあるのですよ。手にしてみると、手放せるというか。「あの時あんなに欲しかったものも、大したことないな」と。
だから煩悩を捨て悟っていくためには、1回手にしてみればいいんじゃないかと思いました。逆説的ではあるけど、全部手にしてみる。そしたら、案外スッと手放せていくんじゃないか。「ああ、こんなに欲しかったものは、こんなものか」
それで、欲しかったものに囲まれて幸せに生きられれば、悟ったり社会を恨んだりする必要もない。こんなものか、で悟り、社会を俯瞰でき、生きやすくなるのであれば、それはそれでよし。
悟りのための煩悩全部やってみる作戦。あなたはどう思いますか。