観察眼も描写力もないけれど・・・。
先日オフィスの引っ越しの日に書いたnote。
書いている時から、本当に伝えたいことがちっとも書けていない、めちゃめちゃ駄文やん!という思いが拭えないまま投稿していました。
そして、考えていました。
何が心に引っかかるんだろう。
なぜ、自分の文章なのにしっくりこなかったんだろう。
見つけられなかった答えは、この中村さんのnoteに教えてもらいました。
エッセイストたちは、みずからが観察したものを、克明に描写する。「意味」に偏った抽象画ではなく、ただ「わたしの見たもの」を写生する。そのていねいな情景描写が、心象風景とシンクロしていく。たとえるなら、一輪挿しの花を描写するだけで、さみしさが立ちあらわれる。「さみしい」とか「孤独だ」とかの直接的な感情の言葉に頼ることなく、みずからの心象を描いていく。
確かに私が自分のnoteで引っかかっていたのは、最後の一言。
「自分の中を、ひとつの時代が終わった寂しさが吹き抜けました。」
まさに、直接的な感情の言葉に頼って、とりあえず終わらせた文章でした。
心のなかで批判的視点で自分に逆取材してみると、
「ひとつの時代ってなんだよ」
「”寂しさ”って簡単に書いたけど、もっと複雑な心境なんじゃなかったの」
「カッコつけたフレーズで終わってるけど、何も伝わってこないよ」
と、おそらく読み手の方も思うであろう至極当然な反論が返ってきました。
「日記」であれば、この表現でもいいんだと思います。
でも、もやもやする。
なんか、この文章じゃダメだ。
そう感じたのは、私が書きたかったのは「エッセイ」だからなんだと、中村さんのnoteを読んで理解しました。
「おいしい」と言わずにおいしさを伝える
たくましいと言わずにたくましさを示す
面白いと言わずに面白さを伝える
「窓の外を眺めている」と言わずに「窓の外を眺めている」ことを伝える。
クラウドワークスのWebライターコースで、表現豊かに心を動かす文章を書くことの大切さは学んでいました。
形容詞や副詞、オノマトペを効果的に使うとか、五感を刺激する表現を考える、とか。
でも、そういうテクニックの前に、自分に圧倒的に足りていないもの。
確かな観察眼と、描写力。そして「巻き込まれた自分」までも観察の対象としてしまう、「わたし」との距離感。感情のことばに頼ることなく、手の届く範囲の世界を観察し、変化する自分のこころを観察しよう。すぐれたエッセイとは、虫めがねを片手に書かれるものなのだ。
ー0.01のド近眼ですが、それは、確かな観察眼には関係ないはず。
絵を書くのは好きだけど、それは文章の描写力とはちょっと性質が違う。
まだ今の自分は、自分の身に起こったことを書いているのに、自分の心を動かす文章すら書けない。
それが、もやもやの正体。
自分にカッコつけるのを止めた時に見えてきたもの。
それが分かっただけでも、あのnoteは書いてよかったと思っています。
訂正しようかとも思いましたが、それもカッコつけになるので残します。
「変化する自分のこころを観察する」
目をそらさずに、単純な言葉で理解した気持ちにならずに。
それはとても難しいことですが、諦めたくない。
自分の表現に「あぁ、この気持ちわかる」と自分で感動してうっかり涙を流してしまう。
いつか、そんな「エッセイ」が書きたいと思います。
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