痛みを伴うと・・・
全ての #教義 の中で、‘#犠牲’は最も効力を持っている。
なぜなら、世界中の全てのことの中で、苦しみが最も #リアル だからである。
‘#犠牲’を、決して無視できず、決して疑えない。
もしも、‘ #ある物語 ’を人に信じさせたいなら、その人が‘ #犠牲 ’を払うように仕向けなさい。
もしも、‘ #その物語 ’に悩みを感じたら、‘ #その物語 ’は本当であると納得させるだけで十分だ。
もしも、‘神’が命じたという理由で、断食したとする。
空腹という明白な感覚が、どんな銅像や絵画よりも、‘神’を出現させる。
もし仮に、愛国的な戦争で足を失ったとする。
その切断部や縫い痕が、どんな詩や国歌よりも、‘国家’をリアルにする。
輸入品の上質なイタリアンパスタより、国内の質の劣るパスタを好んで買うことよって、スーパーマーケットの中でさえ、‘国家’をリアルに感じさせる日常的な‘ #犠牲 ’を人は払っている。
もちろん、これらのことは、論理的に誤っている。
もしも、‘神’や‘国家’を信じることによって、思い悩んだら、信心が正しいというわけではない。
騙されやすさの代償を支払っているだけかもしれない。
しかしながら、ほとんどの人は、自分がバカであると認めたくない。
つまり、彼らが特定の信心に対して、‘ #犠牲 ’を支払えば支払うほど、彼らの信心はより深まる。
これが、‘ #犠牲 ’のもつ魔訶不思議な魔力である。
私たちを支配下に置くために、聖職者は私たちに何も与える必要はない。
雨、お金、戦勝さえも。
むしろ、彼は‘あるもの’を取り上げる必要がある。
いったん、彼が、私たちに‘ #痛みを伴う犠牲 ’を支払うように納得させたら、私たちは罠に引っかかっている。
(‘ #犠牲 ’のもう一つの側面)
ある‘ #物語 ’に、悩んだ時。選択が迫られる。
「‘ #物語 ’が正しいのか。それとも、私が騙されやすいバカなのか?」
他者のことで悩んだ時。同じく、選択が迫られる。
「‘ #物語 ’が正しいのか。それとも、私が悪なのか?」
そして、私はバカだと認めたくないだけの理由で、また、私が悪だと認めたくないだけの理由で‘ #その物語 ’が正しいと私たちは信じようとする。
古代と同じように、21世紀においても、人類は‘意義’を追求する。
終始、‘ #犠牲 ’の連続をもってして。