サイエンスフィクションを疑う
ユバル・ノラ・ハラリ ‘ #21世紀における21の提言 (英語版) ’第18の提言 #サイエンスフィクション P245~46
(帰宅報告) ありがとうございます。ただいま帰りました。お陰様で、東北での冠婚葬祭に、無事に行って参りました。スマホをチェックできる限られた時間ごとに、皆様のいいね!が一つづつ増えていきました。
親族、親戚、縁者以外にも、わたしを支えて下さる方々がいることに、改めて気づかされました。
「お陰様」
わたしは、一人で生きているのではなく、数えきれないたくさんのお陰で生かされている。
たくさんの人、たくさんの生きとし生けるものの布施を頂いて、わたしの生命が保たれている。
無機・有機に関わらず多くの布施で、たった今のわたしの「息」がある。
有り難いことです。
わたしは現時点で持ちうる最大の力を尽くしたつもりです。
国体予選会で、1,500mを滑走するように、
その練習で3,000mを滑走するように、
無我夢中。遮二無二。一瞬一瞬全力で。
守るべきもののために、命を懸けた、どうしても勝たなければならないたたかい。
至らなかった点は、わたしの研鑽不足として、どうかご寛容下さい。どうか広くお受け入れ下さい。
適切な形容であるか分かりませんが、今は、すがすがしさでいっぱいです。
ありがとうございました。誠に、お世話になりました。
(著者の結論)
#AI に性別などなく、サイエンス映画を妄信してはならない。
(本題)
今日の #サイエンスフィクション の罪は、#知能 と #意識 を混同しがちな点にある。
結果として、 #サイエンスフィクション は #ロボット と人間との戦争に過剰なほど焦点を当てる。
実は、 #アルゴリズム によって強化された少数の #スーパーヒューマン と、退化した #ホモサピエンス という大多数の下層民との衝突を憂慮すべき時であるというのに。
#AI の未来について考える時、スティーブン・スピルバーグよりもカール・マルクスは依然として良い指針である。
とりわけ、 #人工知能 に関する多くの映画は、科学的現実からたいへんかけ離れている。
したがって、それらは、完全に異なる出来事についての寓話に過ぎないと疑念を抱く者もいる。
2015年の映画『エクス・マキナ』は、 #女性のロボット と恋に落ち、騙され、支配されるだけの #AIエキスパート を題材にしたかのように見える。
しかし実際には、人間が #人工ロボット に恐れを抱くという映画ではない。
男性が知的な女性を恐れるという映画であり。
とくに、女性解放は女性支配に至りかねないという恐れを描いている。
私たちの目の当たりにする #AIの映画 は、いつも、 #AIが女性 、 #科学者が男性 である。
これは、 #人工頭脳工学 というよりもむしろ、フェミニズムに関する映画であるかもしれない。
なぜなら、一体全体、 #AI に性別や性差があるだろうか?
性別は、有機多細胞生物の特徴である。
性別は、非有機・人工頭脳工学ロボットにとって、何の意味を持ちうるというのだろうか?
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