居眠りの名残り
ふたつの目蓋が流した赤い血が
激しく路面を汚していた。
ゆうべ一人の酔っ払いが昏倒し
したたかに顔面を打ちつけて
ようやく目を覚ましたらしい。
どうやらもう何十年も
眠りつづけていたのかもしれない。
*
通りすがりの三人組も
ずいぶんと驚いたことだろう、
敗戦間際、ノックアウト寸前のボクサーみたいに流血した男が
大丈夫ですよ、などと寝言を繰り返した挙句
彼をここへ運んできた青い自転車に跨って
ふたたび夜の闇へと漕ぎ出そうとするのだから。
その親切な人たちが居合わせなければ
きっと男はもっと遠いところへと
旅立っていたことだろう。
*
地震が自然からの警告であるのと同じように
この晩の出来事も辛辣なある種の箴言だ。
彼が不覚にも転倒してしまったのは
決して翌日の大地震を
予知していたわけではないだろう。
おととい来やがれ、
たんなる酔いどれのふつつかな失態だ。
ああ、傷口よりもむしろ
心のほうが遥かに痛む。
失ってしまった記憶と歳月は
流れ出た血のように
此処には決して戻ってはこないのだ。
*
縫い閉じられた目蓋が
今はもう抜糸の時を待ちかねている。
まるで三蔵が呪文でも唱えたかのように
まだ時折こめかみに痛みが走る。
未だに打ちのめされたのび太のような目で
男は鏡を覗きこむ。
いつのまにか傷口は塞がりかけているが
長い居眠りの名残りだけが
いまも其処に深く刻みこまれている。
(2021年2月13日〜20日)