愛が欲しい
わたしは、恋愛も家族愛も友愛も区別が無いような、ただ只管に誰かのことを想う瞬間を欲していたように思う。そして、何とも言い難いそれだけを愛と呼びたかったようにも思う。
他人(特に異性)にわたしなりの優しさを差し出すと、何故だか性愛を向けられてしまう瞬間があるということを知った。
わたしは側から見ればビッチと形容されても仕方がないような人間だ。
誰かを特別扱いするのが苦手だから誰にでも(そしてきっと必要以上に)優しくしていた。
悩んでいそうなLINEがきたら言葉と心の全部を使って長文で返したし、寂しいと言われれば特に理由も聞かずに一緒の時間を過ごした。
でも、それが恋愛に発展しそうな瞬間、わたしはその全てをやめて連絡を断つ。
最低だと思う。それを数日前まで誠実さと履き違えていたのだから尚更最低だ。
何で性愛を向けられてしまうかは今でも理解ができない。わたしのあくまでも真っ直ぐな、自分の哲学に基づいた静かな愛にそう返ってきた時の絶望感は言い表せるものではなかった。
何で恋愛じゃないといけないの、何でそんな諦められないような顔で永遠を手放すの、何で性行為を当たり前のようにするの。
納得のいく答えをくれる人はいなかった。
そしてそれは、わたしに恋愛をますます曲解させた。
家族愛というシステムが苦手だ。
わたしはすごく恵まれた環境で育ったように思う。両親はわたしを不自由なく育ててくれたし、学校に行かなくなったわたしにも優しくしてくれる。自由に使えるお金と時間をくれて、将来は自分で決めなさいと笑う。
だからこそ、理解が追いつかなかった。
何でたまたまここに生まれてきただけでこんなに優しくされるのだろう。いい子でもとりわけ優秀なわけでもないわたしを、どうして親子だというだけでここまで気にかけてくれるのだろう。
法律や秩序がそうさせているようには見えなかった。だから悩んだ。
家族に強いコンプレックスがあった。不自由を抱えている人から見たら羨ましがられることすらあるかもしれない環境の中で感情や思考を腐らせるだけの日々が辛かった。
この欠陥を、生まれ育った環境のせいにしたかった。愛を欲する動機を、ここに求めていた。
つい昨日、数少ない友だちの一人がSNSに
『クラスメイトに生理的に無理って言われた。いつも仲良くしてくれる人たち、こんな自分でも有難う(意訳)』
みたいな投稿をしていてすごく苦しかった。
そんなの、そんなこと言う奴にセンスがないだけだ。何か対象へのセンスが欠けていることは、必ずしもその対象のせいではないのに。
怒りが収まらなくて、何となくまた話そうねという返事をしてスマホを投げた。
これが、分類するならわたしにとっての友愛なのだろうと思った。
でも、芽生えた愛を態々分類することへの意味はわからなかった。
わたしはいつだってわたしで、誰かを想う瞬間のことをそう呼びたいだけで、それがわたしにとって一番都合のいい愛だから。
誰かと同じ愛である必要もわからなかった。
愛になり得たものたちが空中で分解して漂っていることも不快じゃなかった。相手の器に収まらなくてうまく伝わらないときも、わたしにはやがて経験値になったから。
そして、あわよくば誰のことも傷つけない愛が欲しかった。
でも、わたしがどれだけ誰かのことが好きでも、分類できる愛じゃなきゃ赦されないことがあった。
「恋愛じゃないんだね、もう死にたい」
奇しくもわたしの神様の言われたことと似たような台詞だった。
誰にもわたしの存在で傷ついて欲しくなかった。それがわたしの区別できない、でも愛と言い切れる大きな生きる夢だった。
「生きて」
「あなたが生きているというだけで、いつかわたしが死にたいときに、わたしをこんなにも好いてくれた人がいることを思い出せるから」
「わたしが消えたくなる日のために、そうとしか言えないけど、生きてほしいよ」
好きな本と歌詞のまるまるパクリの台詞だ。
でも、貰った言葉でしか話せないことへのコンプレックスと向き合っている暇はなかった。
その瞬間、確かにその人のことが大切だった。
これが愛なんだと思った。そしてこれを恋愛として渡せないことを嘆きながら、結局自分を守ること、誠実であることを選んでしまった。
わたしはまた何度でも愛をするだろう。
そして、その器を持っていると確信した日に鳴る鐘を、これからわたしは何度でも耳にする。
この純度を保っていられるだろうか。
いや、きっとそれよりも大切なこと、わたしのやるべきことはいつかの日のために毎日を生きて愛の器を満たしておくことなのだと思った。
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