誠実ではなかった

誠実ある、ということに、何よりも強く強くこだわっていたような気がする。

誠実であるために吐いた嘘がある。
幾度となく自分に、他人に、吐いてきた嘘が、世界の織り成す完全に近いシステムの末に回り回って改めて自分自身に降りかかってきているような気がしてならない。

「お母さんが作ったご飯が美味しくなかったとき、あなたなら何と言いますか?」

小学生のときの道徳の授業でのことの質問の答えを、未だ出せずにいる。
嘘を吐かないこと=誠実であること
ではないということを、この質問はとても簡潔に私に耳打ちしてきた。言葉に頭をぶん殴られるという今したい表現が、あのとき確実に比喩ではなかった。

誠実であることと、正直であることは違う。
のだと思う。

誠実でありたいと願うのは自分のためだ。
生きているというだけでとっくに害であるこの事実を、他の誰でもなく私に赦されたいという圧倒的に私利私欲に塗れたこの感情はぐちゃぐちゃでも至って清潔なままで、1秒毎に更新されては鮮明さを保ったまま体内を侵食し続けている。

私にとって誠実であるということは、私の欲求に忠実であることだ。
そして私の欲求とは、誰のこともなるべく傷つけないようにしながら、そのために軽々しく自分を傷つけたり大切にしているものを捨てて、そしての感情の全てを表情や言葉に宿しながら生きること。

あわよくばそれを綺麗だと思いながら、大切な人の持つものの綺麗さに気がつくこと。気づかれること。でも最果てには私すら到達しないこと。触れるか触れられないかくらいに距離を詰めて、散りばめた布石や捨てるしか思いつかなかったものたちを意味ごといつか拾い直すこと。

只管に誠実であろうとし続けたら、歪んだままの私が真っ直ぐ真っ直ぐ突き進んで、擦れて滲んだ血がいよいよ見過ごせないくらいに服を赤く染めてしまった。
最近それを自覚させられるような出来事が立て続けに起こって、私は腹いせに、張っていた予防線にほらねと言いながら、来るとわかっていたと泣きながら、Twitterのアカウントを消した。

私の好きなシンガーソングライターの女の子がものすごく大切にしていたギターに、自分が壊れそうなとき、壊してもいいよと話しかけてきたと言っていた。

その表現を借りて、どくずが壊してもいいよと話しかけてきた気がするのだ。
またやり直すのか、やり直したとして受け入れてもらえることが求めていることなのか、そもそも今した話の全てを私が理解されたいと願っているのか。

何もわからないけど、唯一わかることは、私が何を選んでも既に私が選んだというだけで正しく光っているということだ。

取り敢えず1週間殆ど食事をしていないので病院に行ってきます。何事も健康から。
そして、私はこれを読んでくださったあなたにだけ好かれたいです。それが私の人生です。

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