消費されたいと願うとき
9月の半ばにツイキャスで配信を始めた。
初めての配信のタイトルは『性癖暴露配信』だった。
あの日、どうしても死にたくなった私は、最期にどうしようもない、誰にも言えなかったトラウマをインターネットの向こう側にいる誰かに聞いてほしくなった。
JCJKのカテゴリで過激なテロップを出せば人が来るだろう、という安易な思惑もあった。実際にその配信には10人ほど人が来て、皆私の話を聞いてくれた。コメントをくれた方もいた。
配信の途中で、首吊り用に結んであった紐を部屋の隅に投げたのは、私しか知らない。未知の感情に浸りながら延命をしたあの日から、もうすぐで一ヶ月が経つ。
配信は楽しい。開始のボタンを押せば、私の話を楽しんで聞いてくださる誰かがいて、温かい言葉をかけてくださる方もいる。
その柔らかさに溺れながら、私は平日の昼間に、誰にもバレないように画面に語りかける。
そんな毎日の中で、時折、"消費されている"という感覚に苛まれる瞬間がある。
もう配信なんか辞めてしまいたい。
その瞬間、私はいつも強くそう思う。
しかし、それには決まって"消費されたい"という欲求が内包されていることに、私は気づいている。
この一見矛盾しているように思える感情たちを、いじらしく抱え続けている自分に日々嫌悪感を抱きながら、同時に私は、そんな自分を愛さずにはいられない。
消費される側とする側をいとも簡単に行き来できるようになったこの時代に、私もまんまとされる側にやってきた。
アイドルの可愛いや、展覧会の芸術をいつも短時間で咀嚼してきた私にとって、消費される側に立って呼吸をするということはそもそもが挫折前提の挑戦だった。
消費する、されるというのは一方的な関係としてあるのではなく常に相互的に作用しているものではあるが、それでも私が敢えて消費という言葉を選ぶのには、その言葉に譲れない魅惑や心地良い断絶を感じているからにほかならなかった。
消費されたいと願うとき、私はきっと、削られても削られても自分の中に残っている部分を知りたいのだと思う。自分の腕を傷つけていくあの瞬間を思い出す。
ここが傷つくと痛い。
ここは大丈夫。
ここが傷ついたら、もう動けない。
そうやって一つずつ、自分の身体を痛めつけながら、自分の傷つきたくない部分を探す。誰よりも消費されたいと願い、私という人間を誰よりも消費していたのは、紛れもなく私自身だったのだ。
その欲求は、どうしようもない私の生に直結している。
私は自分が嫌いで、自分の人生が嫌いで、何もかも嫌になって後悔ばかりが頭を巡る毎日を生きていても、それでもまた私を生きたいと願ってしまう。
私が私を生きたいと願うとき、アイデンティティを失いかけたとき。
そっと手をとってくれる人を大切に想い、そして入ってきた光を、人が希望や愛と呼ぶことを知っている。
もし私がこれから何年配信を続けても、配信そのものがその光となることは無いだろう。私にとって配信は、常に自分を削りながら削れない部分を探す無謀な賭けだからだ。
それでも私は、また画面に語りかける。
いつかアカウントごと自分を捨て去る日が来ても、誰に忘れ去られても、今この日々の中で見つけた真実の全てがいつまでも薄れないほどに、この毎日を誰かに強く強く刻みつけたい。
私のこの揺るがない核心と日常が、誰かの心に引っ掛かってほしい。
そして、目まぐるしい時間の流れにしがみつく私の愛おしい部分を、 誰よりも早く私に気づいてほしい。
それが、消費されたいという願いよりも遥か深い場所にいる私への、敬意と供養になると信じている。