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自然写真は何かを語るのか?何が語るのか?@写真集完成に寄せて

今回の写真集を鑑賞していただいた友人から素敵なメールを頂きました。

>写真って語るんだな・・・

写真による表現者としては、とても嬉しい言葉です。
撮影しチョイスした写真たちが「語っている」と感じていただいた。
至福の喜びです。

考えてみれば写真による表現ってのは、かなり不自由かもしれません。
「絵」や「音楽」による表現は、個性的で自由な創造ができそうです。
「言葉」による表現は、さらに自由かもしれません。

それにくらべて写真というのは、現実をあるがままに写します。
写真でもモデルが人であれば、そのモデルの表情やポーズで多少は語れるかもしれません。
また商品なんかの物撮りであれば、ライティングや他の工夫で語らせることができそうです。(CMフォトはそこを目的としてますよね)

ただ、ワタシのように「自然」をモデルとして撮影していると、モデルに意図を指示することはできません。
自然にあるがまましか、写すことができません。

頂いたメールにはこんなことも書かれていました。

>語っているのは自然なのか、毒多さんなのか・・・
>切り取られた風景は、何なのか?
>考えさせられます
>自然か芸術か

面白いし、不思議ですよね。ほんとそう思います。
映っているのは「自然そのもの」です。
希望のポーズもライティングもしてくれません。
正に、自然にあるがまま、です。

おそらく、一箇所の自然を何人かの写真撮りが一緒に撮影したら、同じような写真ができあがってくるかもしれません。
それを「絵」で表現するなら、十人十色になるのでしょうし、「音楽」で表現するなら十人十音になるに違いありません。言葉でもしかり。
あの手この手が駆使でき、自由度は高いと思います。

なのに写真ってやつときたら、その自然はそのまま、ありのままなんです。
もちろん「そのまま」を写す技術は必要ですが。

さて、語っているのは自然でしょうか?
それとも撮影者(毒多)でしょうか?

はて?

多分、自然自身は「語らない」でしょうしね。
だって自然はありのまま、そのまま、ただ自然に在り、ただ自然に変化する、なんですから。
人がそれぞれの人間的個人的な想いを込めて、勝手に「語っている」ように感じるのでしょう。だって人間だもの。それが人間だもの。

「語っている」ように感じる撮影者が、いかにどう語っているかを写真で表現しようとする。表現の不自由な方法で、アングルとか構図とか探る。
長短の時間の経過や光の分量や角度で、「語り」が変わるのを確認しながら、自ら聴こえる「語り」を探る。
自然まかせのなか、こうして撮影者ならではの「語り」を創造する。
撮った写真に感じた通りの「語り」を吹き込ませることができていれば成功です。

そうして映された写真を、鑑賞者もまた「語っている」を感じる。
あ、すごい。通じた?

はたして撮影者が表した「語り」と、鑑賞者が感じた「語り」が同じものなのかどうか?
撮影者と鑑賞者は、生きてきた背景も道も培われた感性も違う他者なので二人が感じる「語り」は違うかもしれない。
でも、撮影者が「語らせる」ことができた写真を鑑賞者もまた「語っている」と感じた。
人生がちがっても撮影者と鑑賞者はともに人間ということは間違いない。
すべての人間共通にもっている、なにかがあるのか?
いや、その写真(集)をみても何も感じない人はいるかもしれない。
とすると、その撮影者と「語っている」と感じる鑑賞者には共通の「何か」があるのか?
面白いものです。不思議な気持ちになります。

写真集をつくるということは、撮影者の「語り」をより明確にする気がします。
その「語り」が伝わる写真の選択、順列、配置によりいかに「語る」かを追求する。1枚の写真ではなく複数の写真の1冊で語らせる。
と同時に、自分自身は「何が聴こえたのか」を確認する作業でもあります。
「語り」とは、その人の人生観、感性そのものかもしれない。

なので、それは写真を撮る姿勢にも通じます。
1枚の写真を撮影するとき、否、撮影以前から在るのかもしれません。
自然の「語り」を感じ、その「語り」を写したいという想い。

そもそも、アタシにとって写真を撮る、ということは自然を通した「語り」を誰かに伝えることの実践なのかもしれません。
それは、誰かと「語り」を共感することの希求なのかもしれません。
たまたまその媒体が写真だった。

ただ写真を撮り、ルーティンでnoteにupするのではないから続けられているのかもしれないと、あらためて感じました、笑


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毒多
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