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07 いのちの停車場/南杏子
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(作中の言葉)
「命には限界がある」
物を食べる生き物だけが生きる。食べる行為は、命を長らえる行為なのです。それが自然の姿なのです
「早くよくなって、またドライブしたり、家でご飯食べたりしようね」 なんでもなかった日々が、いかに貴い時間であったことか。父は嬉しそうにうなずき、静かに目を閉じた
父にとって、いつから今の治療が「余計な治療」になってしまったのだろう。どの段階からが余計な治療なのか。そういった疑問は、在宅医療を始めてから常にあった。生きている時間が、苦しみの時間を延ばすだけになったときからだろうか。命の終わりの判断は難しい
これ以上の入院の継続は、本当に父のためを思ってのことなのか、命を延ばす医療者の使命感を満足させるためなのか。あるいは身寄りを失いたくないと思う娘のエゴなのか。考えれば考えるほど分からなくなる
「家に帰りたい。みんなで暮らしたあの家で、母さんの庭を眺めながら死ねれば本望だ」父は悟ったような目をしていた
在宅死をやり遂げるには、家族の覚悟が不可欠だというのは知っているつもりだった。そう患者に指導もしてきた。けれど今、自分が冷静ではいられないのを感じる。それは、死にゆく人が父であり、自分は子であるからだろう
病気の進行を考えれば、わがままでもなんでもなかった。僕は妻に、頑張れ、頑張れと、死のギリギリまでムチを打ち続けていた。わがままは、いつまでも妻を病院に押し込めていた僕の方だった
人間には、誰もが自分の人生を自由に創ることが認められている。そうであれば、人生の最後の局面をどのように迎え、どのように死を創るか。これについても、同様であるはずだ。その正当性を、すべての人に理解してもらいたい
人生の最期をどのように迎えるか。人には、それを自分で決める自由があるはずだ
大事な人の死を二回経験して、私も死について考えることがある。母と父の死を経験して思うのは、目の前の死を受け入れるということがいかに怖いか。大事な人がいなくなる怖さは言葉に表せない。小説を読んで涙が止まらなくなった。終末期の過ごし方、人生の終え方、色々考えさせられる。
「早くよくなって、またドライブしたり、家でご飯食べたりしようね」 なんでもなかった日々が、いかに貴い時間であったことか。