3限目:日本の対東南アジア政策と開発体制(経済編)
最近の本の紹介が、戦後賠償に関係するものが多かったので、今回は、日本と東南アジアの経済関係の事始めを解説します。
2限目はだいぶ前の投稿になってしまったので、再掲しておきます。
さて、早速問題ですが、以下の文章は、いつ書かれたものか分かりますか?
これは、最近の日本と東南アジアに対する意見・提案に見えますが、
前者は、福島正雄(経団連事務局長)が、1953年3月の『経団連月報』に「『東南アジア開発』ということの考え方」と題して寄せた巻頭の一部、
後者は、佐瀬六郎(経済企画庁経済協力室長)が、1957年8月に『アジア問題』に「アジアの経済開発と日本の立場」と題して寄せたものの抜粋です。
現在まで連綿と続く、日本の対アジア認識、構想、政策の原型の多くは、1950年代には既に完成していたわけです。
なかなかの先見の明があると言いますか、自分たちの当初の構想通り、物事を進めてきたと言いますか...( ;∀;)
それでは、本日は第二次世界大戦後の日本+東南アジアの関係を考える際に、見通しを良くするために、大きく4つの時代区分を提示します。私、桐島の発案ではなく、末廣昭先生の見解が、一番説得力があるため、使わせていただきます。引用元は、「戦後改革とその遺産(第6章経済再進出への道)」です。
皆様は、1945年~2020年に至るまでの、日本と東南アジアの関係を大きく4つに区分する際に、1つでも大きな時代の切れ目が分かるでしょうか?
ベトナム戦争は象徴的な出来事ですので、追い浮かぶと思いますが、正解は以下の4つです。
本日は、1950年代から始まる、第1の転機を紹介します。これは歴史上の偶然の産物です。
少し遡ると、1940年代初めは、日本の中古繊維機械の移転による軽工業育成政策、綿花、麻、サトウキビなどの農産物多様化、食糧増産計画を、東南アジア諸地域(占領地域)で計画しました。しかし、この計画は、当初は外貨不足、後には輸送船舶の絶対的不足に直面したため、絵に描いた餅に終わってしまいます。それどころか、戦争中に東南アジア地域では、輸入消費財の途絶、日本軍による現地物資の収奪、軍票(軍が発行したお金)の乱発によるハイバーインフレーションが生じて、現地経済は徹底的に破壊されてしまいました。
1945年8月時点で、法人企業と金融機関の在外財産の合計額(海外にあった日本企業の資産合計です)は、東南アジア地域=6億ドル、台湾=7億ドル、朝鮮=15億ドル、中国(旧満州含む)=387億ドルと、
日本の企業活動から見ると、戦前期の東南アジア地域は、あくまでも周縁部であって、中心は中国、朝鮮であったことが分かります。
このような歴史があるため、戦後日本の経済復興は、中国、朝鮮を中心としたアジアとの貿易回復への期待がありました。しかし、そこで、起きたのが、1949年の衝撃の歴史的事件だったのです。
分かりますでしょうか?日本・中国関係を180度変えてしまった事件です。
正解は、中国で1949年に共産党が全国制覇して、中華人民共和国が建国されたことです。共産主義が一国を覆う赤い国(Red Nation)が成立しました。
毛沢東により中華人民共和国の創立宣言
この後、1950年の朝鮮戦争とも相まって、米国の日本に対する占領政策が、以下のように、大きく変更を遂げました。
1949年、この年が、日本・米国・東南アジアが「反共産主義のトライアングル」で結びついたタイミングになります。
第二次世界大戦後に、日本は、中国への輸出による経済復興を狙っていたのですが、1950年以降、東南アジアと朝鮮半島向けの工業製品の輸出がスタートしました。
ASEANの成り立ちも反共産主義がきっかけですし、日本にとっても、東南アジアにとっても、共産主義の影響で、戦後の歴史の大枠が作られたのです。
See you soon.
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