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⑤日本・ミャンマー外交の切り札(2人のキーパーソン)

桐島です。今回は、日本・ミャンマー外交について概説します。
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さて、外交の要諦は人です。人と人との信頼関係が外交の基礎です。

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例えば2月1日のクーデター後、5日の日経新聞記事を以下に引用します。

外交に携わったことがない方でも、海外ビジネスをしている人は、危機時には、現場で相手国のキーパーソンと接触して、正確な情報収集をできる人が圧倒的に強いことが肌感覚とし分かると思います。

欧米は制裁を課して、敵対視していたため、ミャンマー国軍とのパイプがありません。しかし、日本は独自のパイプがあるというのが記事の内容です。

日本政府はミャンマーでクーデターを起こした国軍を批判しつつ対話の余地も探る。制裁を辞さない構えの米欧に対し、日本は国軍とのパイプを生かし民主化プロセスの回復を働きかける。独自路線の追求は米欧がさらなる強硬措置を取れば板挟みになるリスクもある。

外務省幹部によると、4日までに現地大使館を通じて国軍側と接触した。1日のクーデター後、米欧で国軍と意思疎通している国は少ない。

米国務省幹部は日本などを念頭に「国軍と緊密に接触している国がいることに感謝する」と語る。日本に国際社会とミャンマーとの一定の橋渡し役を期待しているようだ。

菅義偉首相は4日の衆院予算委員会でミャンマー情勢を巡り「重大な懸念を有している。民主的な政治体制が早期に回復されることを改めて国軍に強く求めたい」と述べた。

首相はミン・アウン・フライン国軍総司令官と、官房長官時代の2014年に会談した。日本は国軍とアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相が率いる国民民主連盟(NLD)の双方とチャネルを持つ。

これまでも日本は対ミャンマー政策で米欧と異なる立場を取り、1988年に発足した軍事政権とも関係を保った。

スー・チー氏がかつて自宅軟禁され、米欧諸国が人権批判を強めて制裁を発動しても、日本は同調しなかった。11年の民政移管後も積極的に経済支援をしてきた。https://www.nikkei.com/article/DGXZQODE03DR1003022021000000/

1.国際社会とミャンマーの橋渡し役

それでは、国際社会とミャンマーとの橋渡し役となる2人の日本人を紹介します。以下、ロヒンギャ問題解決の文脈の記載ですが、引用します。

政府要人や丸山市郎・在ミャンマー日本大使が文民政権と国軍との亀裂を考慮して、スーチーら政権幹部とは別に、(ミン・アウン・フライン)国軍最高司令官にも、事実解明とその後の措置を働きかけていたことである。国軍最高司令官と個人的にも親しいといわれる笹川陽平・日本財団会長(ミャンマー国軍和解担当日本政府代表)も、国軍に働きかけた人物のひとりであった。日本が文民政権と国軍との仲立ち役を担っていたのである。(『ロヒンギャ危機』中西嘉宏 P190)

2人のキーパーソンが出てきますね♪2人を順番に解説します。

2.日本外交の宝(丸山市郎大使)

ミャンマーの日本人は誰もが知る、言わずとしれた日本外交の宝です。経歴は以下です。

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丸山氏は宮城県出身の1953年生まれ。1978年に外務省入省後、ミャンマー語専門家となり、①1981年在ミャンマー日本国大使館、1985年日米安全保障条約課、南東アジア第一課、②1992年在ミャンマー日本国大使館、1997年在米国日本国大使館、③2002年在ミャンマー大使館、2006年総合外交政策局総務課外交政策調整官、④2011年7月ミャンマー大使館公使参事官、⑤2018年3月駐ミャンマー特命全権大使に就任。

ミャンマーでの在外勤務は、5回目となるミャンマー通で、民主化代表のアウンサンスー・チーとも、軍代表のミン・アウン・フライン上級大将とも、コンタクトができる関係と言われています。

日本外交を支えるレジェンドですので、2021年4月から大使に就任して4年目に入りますが、丸山氏は代替の利かない存在ですので、日本政府(官邸)としてもこの非常事態のなかでは、丸山氏に頼らざるを得ません。

上記の日経新聞の記載にあった、「外務省幹部によると、4日までに現地大使館を通じて国軍側と接触した。1日のクーデター後、米欧で国軍と意思疎通している国は少ない」とは、丸山大使のことです。現地の大使館とは書いていますが、by nameで、Ambassador Maruyamaを通じて、というのがより正確な記載です♪

3.笹川陽平・日本財団会長(ミャンマー国軍和解担当日本政府代表)

2人目は、笹川日本財団会長(Chairman of the Nippon-Foundation)ですが、ミャンマー国軍和解担当日本政府代表(Special Envoy of the Government of Japan)という政府の肩書も持っています。民間人トップ+政府要人の位置づけです。

強い発言力があるため、色々な噂もありますが、ミャンマーに関して言えば、笹川氏の貢献は非常に大きいです。そのため、丸山氏同様に、民主化代表のアウンサンスー・チーとも、軍代表のミン・アウン・フライン上級大将にもコンタクト可能です。


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それでは、

笹川氏は、どうミャンマー社会と深いかかわりを築いたのでしょうか?

私(桐島)も気になったために、いくつかの書籍を購入しましたが、この本の記述が一番網羅的で分かりやすかったため、こちらを引用します。

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政府と少数民族の和平のために
伊藤:新たな国づくりが始まり、一方でロヒンギャ問題でも着目されるミャンマーですが、笹川さんは早くから、彼の国に関わっています。「ミャンマー国民和解担当日本政府代表」をなさり、近年のミャンマー政府と少数民族との間の和平実現に、大変尽力されている。
 なぜ、ミャンマーにそれほどまでにのめり込むようになったのか、きっかけは何なのか、ライフワークとされているハンセン病との関係はあるのか、大変気になるところです。

笹川:始まりで言えば、軍政時代にハンセン病を制圧したのがきっかけです。それから、約460の小学校をつくったり、伝統医薬品普及に携わったり、いろいろなことをやっています。
 国際的に大きな話題になりました「ミャンマー停戦協定合意の署名式」では、日本政府代表ですから、私が署名しました。私、日本から万年筆を持って行きましたよ。署名に立ち会ったのは、国連とEUと、あとは周辺3か国、インド、中国、タイ。それで、「なんで日本なんだ」と言われましたね。アメリカもイギリスも、スイスもノルウェーも外されて、彼らは面子が立たないからとミャンマー政府に猛烈にクレームをつけたけれど、「いや、少数民族側もいいと言っているのは日本だけだ」ということなんです。
 実は、EUはものすごくお金を出してくれています。それで、「以後の援助を止める」と強談判して、やっと合意の署名式に潜り込んだ。だから正確に言うと、両者から推薦があったのは日本だけです。そのぐらい、われわれはいろいろな面で努力しました。
 全体のなかの一部ですけれど、最初は8グループと停戦に正式調停して、2018年には2グループが調印して、残り5グループになっています。(P273、274)

以下が署名式の様子です。笹川氏の長年のミャンマーでの地道な活動により、少数民族とミャンマー政府の双方から信頼を獲得したのが分かります。

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続けて気になる点は、

笹川氏は、ミャンマーの少数民族地域にどう入り込んで行ったのか?

現地へ行く回数が信用を生む
伊藤:先ほども触れられたハンセン病ですが、それがミャンマーとの関わりの出発点ですよね。制圧活動ではいろいろなところに行かなければならないでしょう。しかし、ミャンマーの周辺地帯というのは、ミャンマー中央政府の支配の及ぼないところですよね。どうやって入っていったんですか。

笹川:正確に言えば、私たちが入ったのは武装勢力のいる地域ではありませんでした。しかし、ハンセン病は日本財団の活動主体です。そのためにはいろんなところに入って行きます。全国レベルの問題です。当時、ミャンマーは軍政でしたから、いりいろなところに行くためには、まず、そこと組まなければいけません。軍政とか共産主義の国とかは命令一下ですから、非常に速く事が運び、成果を上げました。
 しばしば、「笹川さんは軍政と仲が良かったのに、今は民主化勢力とも仲が良い」なんて言う人がいますが、認識不足です。私たちが人道活動をミャンマーでやろうと思えば、当時は軍政を窓口にしなければどこにも入れなかったんです。共産主義のときのロシアで、チェルノブイリに行こうと思えば、ゴルバチョフの了解がなければ入れません。中国でも同じです。何か活動しようと思えば、鄧小平と話をつけなかったら学校教育の奨学金制度すら実行することはできない。そういうことなんです。
 だから、軍政時代からつき合いがあるからいいとか悪いとかじゃなくて、軍政の時には窓口がそこしかないから行かざるを得なかった。民主化されてスーチー女史が政府の最高顧問になっていても、武装地域に行くには、やはり国境大臣の許可がなかったら入れないんです。国境大臣は軍に推薦された人ですから、今でも軍の許可がなかったら入れないというわけです。
 少数民族の人たちは広い地域に分かれて住んでいます。タイ側の国境沿いの川のぎりぎりのところに、張り付いて住んでいるんです。幹部はタイの安全地帯に住んでいます。川幅が狭いので5分で渡れます。
 当初、僕らはタイから国境を越えて、裏側から入りました。タイ政府のインテリジェンスはすべて行動をウォッチしていて、それで、ちゃんと協力してくれました。もちろん、説明にも行っていますし、見て見ぬふりをしてくれましたね。
 そうやって行動しながら話し合いをするんです。和解に応じたのは、だいたい南のほうです。激しい戦闘が続いているのは北のカチンです。
 政府代表になる前はそうした方法でしょっちゅう入国していましたけど、僕は今日本政府代表だから、政府代表が密航してジャングルに入ったなんていうことがわかると日本政府に迷惑をかけるので、今はやっていません。

伊藤:国境、あるいは集落の境界を越えて、現地に入って行って、武装勢力との関係はどうやって結んでいくんですか。

笹川:本当の武装勢力に会うときにはタイなんです。幹部はタイに出ているんですよ。70年も戦っているから、もうタイに住んじゃっている。ミャンマーの領土には住民だけ置いて、自分たちはタイにいる。会議のときにはタイにいる幹部クラスも出席してくれます。チェンマイとかソーケットとかから。
(中略)

伊藤:笹川さんは、ご自身も行かれたわけでしょう。よくそういうところに入れましたね。

笹川:NHKが報道したこともありました。僕が少数民族武装勢力と一緒にジープに乗って行ったところが、どんなにすごいところだったかというのは映像で報道されました。僕は平気なんですよ。面白いじゃないですか。
 最初は、「70年も戦っているところに、わけのわからない人間がなんで名乗って来たのか」「こいつは俺たちの地下資源の権利を取りに来たのか、麻薬購入のために入ってきたのか」と、そういうふうにしか見えませんよ。「平和を達成するために日本人がこんなところに入ってきた」なんて、そんなこと誰が信用しますか。信用させるのは回数ですよ。3年間で51回入りましたから。

伊藤:あのあたりは、麻薬の三角地帯と言われていたところでしょう。

笹川:さすがに、そこまでは入っていません、まだ入れません。ともかく回数です。無駄骨でも行って、一緒に飯を食い、誰かが死んだと言ったらその墓参りをし、そういう繰り返しをする。彼らは本当に、疑いの目で見ていました。でも、51回行ったから、今や政府、武装勢力両方の陣営から、「笹川は信用できる」と言われているんです。
 信頼醸成には回数しかありません。「何月何日、どこどこホテルで会合をやるから集まれ」と声をかけられて、「民主主義とはこうだ。停戦をするときの技術はこうだ。武装解除はこうだ」なんて言ったって、誰も信用しませんよ。泥臭いですよ、僕のやっていることは、、、、。
 人間の本心みたいなところに触れ合うような接触の仕方をしないと。お互いの信頼関係が確立しないところで、技術論で問題は絶対に解決しません。僕が思うには、国家同士の交渉事だって最後は、相手が信用できるかどうかという読みの問題ですからね。(P278~282)

笹川氏の「信頼醸成には回数しかない」という言葉は、心に刺さります。

以前、JICAの山田審議役(現在は副理事長)「インフラの海外展開の際に、日本が受注に成功した時のポイントは何だったのか?」と伺った所、「現地での信頼関係を築くことです。インフラの価格や質というのは、もちろん問題にはなりますが、実はどのぐらい信頼関係を築いているかで、入札が決まり受注に繋がるかが左右されます」という回答をいただきました。

やはり、日本人が海外の現地で信頼を築くためには、回数しかない。
そのため、丸山氏や笹川氏の長い滞在経験と、相手の懐に飛び込む回数が、こういう緊急事態の際に、生きてくるということが分かりました。

まとめ(日本・ミャンマー関係2人のキーパーソン)

まとめをすると、以下図の通り、日本は唯一国軍との関係も、民主勢力との関係もある稀有な国です。その根本には、長い間積み上げた人と人との信頼関係があります。普段は見えにくいですが、こういった危機の時こそ、不断の取り組みが成果を発揮することがわかりました♪

Noteブログ用

See you soon.


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