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本の紹介1冊目~続き②~:神鷲(ガルーダ)商人 深田祐介

前回に引き続き、神鷲商人です。

この本には、まえがきがないため、まずはあとがきに目を通します。

※私は筆者が本を執筆するにあたっての想いが一番気になるため、最初に、まえがき・あとがきを見る習性があります。

あとがき

戦後の日本、アジア関係の原点は、戦後賠償にあった、といっても過言ではあるまい。

この賠償のもっともドラマチックな例が、インドネシア賠償で、インドネシア賠償は、ふたりの男女の自殺死や、いくつかの家族の崩壊、さらには距離を貪る新興商人たちの欲望をはらんで、起伏の多い展開をみせる。

この本を書いた動機が、コンパクトにまとまっています。それは、小説になり得るドラマチックな展開が、戦後のインドネシア・日本の間に横たわっていたためです。

そして、上巻のプロローグから物語は始まります。


東京駅の八重洲口、1957年11月のある昼前に、インドネシア・スカルノ大統領の特使として、鄒梓模/チョウシンモ(作中では、趙志潭/チョウシタン)が、木下商店(作中では、岩下商店)社長の、木下茂(作中では岩下悟)を訪れました。船舶を日本から調達したいという、大統領からのお願いです。

インドネシアが船舶を必要とする切実な理由は、以下のような背景です。

 太平洋戦争終結直後の1945年8月17日、インドネシアは独立宣言したものの、その直後、復権を目指す旧宗主国オランダと独立戦争に入った。

 1949年、昭和24年にオランダとの独立戦争を終結、主権国家として独立を果たしたが、オランダとの抗争はその後も尾をひいている。

 この1957年、インドネシアは自国内に残るオランダ資産の接収を行った。その報復として、オランダはインドネシア諸島間の運行にあたっていた貨客船75隻を引き揚げ、シンガポールで競売してしまった。

「船が一隻もなくなったので、鳥と島との間の連絡が取れない。ボルネオ島やセレベス島で獲れた農産物を首都ジャカルタのあるジャワ島まで運べないんです。このままじゃ、経済が混乱してえらいことになります。国内じゃ軍人と政党が反乱を起こしていますし、スカルノ大統領はほんとに苦しい立場なんですよ。それからこれも大事なことなんですけど、インドネシア人の90%はイスラム教徒で、毎年船を仕たてて、イスラムの本山のメッカまでお参りにゆく習慣なんです。だけど、そのお参りのための船もないんですね」

この鄒梓模からの要望を受けて、木下茂社長の反応は、当然OKです。
理由の台詞が、戦後日本政府と商社の関係を表しています。

「賠償や。インドネシア賠償にこの話を繰り込んでもらうのや。そうすれば支払い先は日本政府になるから、リスクはいっさいなくなる」

木下茂社長は、当時首相の岸信介とは、岸が満州国にいた時(満州国政府実業部次長)からの知り合いだったため、そのコネクションを利用して、船舶を賠償に繰り込ませ、1958年の夏に発表された第一次インドネシア賠償の入札結果として、10隻の賠償船舶のうち9隻を木下商店が受注したのです。
※1965年に木下商店は三井物産に吸収された

そして、プロローグの最後に、この小説の核となる問いかけがあります。

 賠償をきっかけにして、赤道の彼方の国と日本の間で、おおきなドラマが始まろうとしている、そんな予感がする。なにかが胎動し始めた、という気がする。

 日本の対インドネシア賠償は総額803億円、アジア諸国に対する賠償総額は、3643億円の規模に達し、日本国民ひとりあたり約3800円、一世帯あたり約2万円の負担になる。大学卒業生の初任給が1万円に達しない当時としては、相当の負担である。

 こうした国民の負担はどういうかたちで報われるのだろうか。

 この賠償の仕事はたとえ僅かなりともインドネシアを救う、神鷲の意味を持つのか。(略)

 それともこれは日本経済のアジア市場進出の第一歩となり、大発展へのきっかけとなるのか。

ワクワクしませんか?

我々の貴重な税金の一部が、戦後に賠償に使われたわけですが、
それは、戦争で被害を被った方々のために使われたのでしょうか?

賠償は、相手国のために役立ったのでしょうか?

はたまた、単なる日本経済のためにのみ使われたのでしょうか?

このドラマを通じて、明らかになります。


参考:本の見開きにあるインドネシアの地図

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今回はイントロになりましたが、次回も、この小説の魅力をお伝えします。

See you soon.


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