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大塚隆史『二人で生きる技術』に収めなかった「同性婚」についての一章。。。

Ponto4号の対談にご登場いただいた大塚さんの著書『二人で生きる技術』は、異性愛者であってもコミュニケーションやパートナーシップを考えることができる、面白くて深い一冊です。文章量が多かったため、やむなく掲載しなかった「同性婚」についての一章。大塚さんが2008年3月に書いたものですが、内容は昨今の状況に照らして読むことができます。

50 制度

 近年、「同性婚」という言葉をよく目にしたり、耳にしたりするようになりました。

 ヨーロッパやアメリカの国や都市で、同性婚や同性婚に準じた制度が法制化される度に、日本でもニュースとなって流れるからです。

 ストーンウォール事件以前の、ゲイやレズビアンの抱えていた絶望的な状況をよく知っている僕としては、この変化には隔世の感があります。たった四十年の短い間に、ゲイリブは政治的なゴールである「同性婚」を一部の国と地域とはいえ実現させたのですから驚くほどの功績です。

 ゲイリブは同性婚の実現で完成します。その意味で、僕も同性婚には手放しで賛成です。この世でたった一人と感じていた心細い僕を救ってくれたゲイリブ。そのゲイリブの当然の帰結として同性婚なのですから。

 ゲイリブ的に発想すれば、異性間に認められている社会的権利は、全て同性間にも認められるべきだと考えています。たとえそれが制度的に不備なものであろうとも、です。そこには躊躇はありません。

 同性婚の実現は、社会が同性同士の一対一の関係に対して「男女の組み合わせと比べてなんら劣ることがない」というお墨付きを与えるということです。そうなれば、同性に性的に引かれることを否定的にとらえて悩む人もいなくなり、同性愛者であることを隠す必要さえなくなるでしょう。

 その点から言えば、日本だけでなく世界中で同性婚が実現されることを、僕は望みます。でも、これは、僕の中でも最もゲイリブに寄ったところの僕が考えていることです。

 しかしもう一方で、僕にはもう一つのこだわりがあります。社会的な承認や法的制度の保護というものから無縁の状態で、自立した個人と個人がどうやって親密な信頼関係を作り出していけばいいのかと悩み、試行錯誤の上にそれを実現させてきたゲイやレズビアンたちの中の一人としてのこだわりです。

 僕は、その営みには自信もあり、その内容には誇りさえ感じています。それがトゥマンという言葉を作った理由です。

 そのトゥマンを頑張ってきた人間としてこの問題を考えた時、日本の結婚制度に易々と乗っていいのかという気持ちが生まれてくるのです。

 現在の日本の結婚制度は、戦前の「家」というシステムの影響を完全に断ち切っているとは言いにくいのです。どちらかというと、個人の望みや幸せより「ある価値観」を優先させようとする古い制度に、民主的な考え方を無理矢理コーティングしたような感があるのです。戦後六十年近く経って、より民主的なものを人びとが求めるようになってみると、その無理は鮮明に見えるようになってきています。

 夫婦で別姓を望む人たちがいます。自立した個人と個人の結びつきを重視するトゥマン的な考え方から言えば、別姓を望む人たちがそれを選択した時には許されてもいいと思うのですが、その権利は今でも与えられていません。そこから見えてくるものは、今の日本の結婚制度には、個人の切実な思いよりも大事にされている価値観があるということです。そして、その価値観は、トゥマンを作り出してきた思いとは正反対の方向を向いているように思えます。

 トゥマンは、なによりも当事者である二人の気持ちを最優先にしていこうという考え方です。だからこそ二人の絆が強まるのだし、二人にとって最終的に居心地の良いものを作り上げられるのです。これはトゥマンの最も重要な部分ですし、最も誇れるところでもあるのです。

 トゥマンを実現していくには大きな困難が伴います。僕自身も、関係を保つのに役立つなら、何でも利用したいと思ってきました。見栄や世間体だって(小さなコミュニティの中での話ですが)使えるものなら使ってきたのです。

 ですから、結婚が持っている社会の承認や法的な保護をどれだけ羨ましいと思ってきたかしれません。僕たちの関係が壊れやすいのは、二人が関係作りに疲れた時に寄りかかるものさえないためなのだ、と考えたりもしました。

 しかし、実際に同性婚というものが現実味を帯び、ゲイやレズビアンのカップルからも同性婚の実現を望む声が聞かれるようになってみると、トゥマンとは正反対の方向を向いている価値観を含んでいる制度に、そんなに簡単に乗っかってもいいものなのだろうかと考えてしまうのです。

 支えはノドから手が出るほど欲しかった。その支えが手に入るのだから、何も躊躇する必要はないと考える自分もいます。

 だけどその支えが、より大事なものを蝕む可能性があるとしたらどうでしょう。もっと慎重になって、考えてみるのは必要なのではないでしょうか。

 セックスという難しい問題をクリアしようとすることが絆を強くしたように、関係が壊れやすいという状況が、結果的に壊れにくい関係を作ることを促してもきたのです。支えがあればいいというものでもないはずです。

 もちろん、その点を危ぶむ声はゲイやレズビアンからも当然上がってきています。だからこそ同性婚ではなく、パートナー登録をした関係に一定の法的庇護を与える「登録パートナーシップ法」のような制度の制定が望ましいという議論も生まれています。

 個人と個人の契約といった考え方に基づいた結婚制度を持っている国では、その考え方を同性同士の関係に広げることは論理的にも可能だと思いますが、「家」という考え方に基づいた戸籍という制度が生きている日本では、同性婚の実現はかなり難しいのでは?という意見もあります。だから「登録パートナーシップ法」の方が現実的だという判断があるのです。

 僕にとっても、こういった流れの方が受け入れやすく、もし日本で「登録パートナーシップ法」のようなものの制定への動きがあれば、その実現を応援したいという気持ちは強く持っています。

 だけど、その一方で、なぜ一対一の関係だけを法的な制度として守らなければならないのかという疑問も湧いてくるのです。

 僕は幸せになりたくてトゥマンという考え方にたどり着きました。それは僕に最もふさわしい幸せのあり方です。そのことは、僕は胸を張って言えます。

 だけどトゥマンの実現には、ものすごく大きなエネルギーが必要なのも事実です。それは守ってくれる制度があれば急に楽になるようなものではなく、もともとが難しいものなのです。それは、結婚という制度を持っているノンケの人たちを見ていてもどれだけ難しいかはわかります。女性の経済的自立が可能になり、個人の思いを大事にする人たちが増えてきたことと連動して、離婚件数が増え、非婚を選ぶ人たちの数も増えてきているのです。

 これから先に、そこまでのコストを払ってトゥマンをやりたいと思う人がどれだけいるのだろうか、という疑問が僕の中では生まれきているのです、

 ここまで一対一の濃い関係を望むというのは、かなり特殊な考え方なのかもしれない。そう考えると、それを望む人の数もそれほど多くないのではないか、これから先はどんどん減っていくのではないか、そんな気さえするのです。その「特殊な」人たち(自分も含む)を限定して守る制度を社会に要求するのはあまり説得力がないように思えてしまいます。

 それに一対一の関係では幸せになれないと感じている人もいるはずなのです。「一人で生きる」というライフスタイルを選択した、僕の叔母のような人もたくさんいるはずです。僕の周りにも、一人で生きていこうとしている、もしくは二人で生きていこうとしていながら結果的に一人で生きている友人も大勢います。彼らは守られなくていいのでしょうか。

 僕はカズを亡くしました。この経験から、二人で生きているとしても、いつ一人になってしまうかは分からないということも学びました。

 二人で生きることを応援していたタックスノットの雰囲気の中で、一人になってしまった自分自身が居心地の悪い思いをしたという、ちょっと苦い想い出さえあります。

 タックスノットだけの問題なら、他の店に行けば済むことですが、法的制度となったら、日本中がタックスノットみたいになってしまうわけで(あり得ませんが…w)、どこに逃げていけばいいのでしょう。

 タックスノットのようにトゥマンを応援する場所は、他の場所ではなかなか応援してもらえないからこそ存在意義があるのだと思っています。それは、僕の中では、世の中に対してバランスをとっている感覚があるのです。

 僕にとって大事なことは、二人で生きていようと、一人で生きていようと、どちらも安心して生きていけることです。その両方が保証されることで、どちらに行ってもいい状態が生まれ、そのどちらにいても安心できるのです。

 それに、一人で生きる・二人で生きる以外にも、いろんな生き方があって当然です。三人とか四人とか、もっと大勢とか…。僕には想像できないけど、聞いてみれば「なるほどそういう生き方もあるのか」と思わされる生き方だってあるはずだし、あっていいと思うのです。

 要するに、これから先の社会では、個人がその人なりの考え方にそって、その人なりの幸せを感じられる生き方を選択できて、それを可能な限り応援してもらえる環境こそが望ましいのではないでしょうか。

 誰かに財産を残したいと考えた時に、結婚している・していないに関わらず、指定した人に残せる制度があれば、誰にとっても都合がよくなるはずです。

 住宅に関しても、家族であるとかないとかに関わらず、同性とのハウスシェアリングも保証する制度があれば、誰と暮らすかを第三者にとやかく詮索されることもなくなるのです。

 個人の意思ができるだけ尊重されるような環境を整えていくことが、結局トゥマンを選択する人たちも尊重されることに結びついていくのだと思います。

 もし社会が同性婚を受け入れられるようになってきたら、その社会は、今まで無視されながらも、その人にとって大事な生き方をしている人たちも尊重できるように成熟しているはずです。

 もし日本がそういう方向に向いていくのだとしたら、同性婚という、ある特定の生き方だけを応援する社会よりは、できるだけいろいろな生き方を応援する社会になるためには、どういう法的な環境が必要なのかを考えていける社会になって欲しいと思うのです。

 それが、トゥマンという「自分なりの幸せになる方法」にこだわり続けた僕の心からの願いです。

 最後に一つ。

 今、あなたがトゥマンを始めようと思っているとしたら、自分たちを守ってもらう制度について考えるよりも大事なことが山のようにあります。トゥマンの中身について考えなければならないのです。そして、そのことに集中し、実践してください。その部分を飛ばして、制度を考えても本末転倒にしかなりません。中身を吟味しないで、何を守ってもらおうというのでしょう。

 これは決して制度について考えることが無駄だとか、意味がないと言っているのではありません。ただ、関係を育むのが難しいのは制度がないからだというような考え方はしないで欲しいのです。それは、トゥマンの実現をより遠のかせてしまう可能性が高いからです。トゥマンがうまく軌道に乗り始めれば、自分たちの関係を守るのに必要なことは自然に見えてきます。それを求めていけばいいのです。そしてそれが手に入れるのに時間がかかりそうなら、今ある制度をうまく利用して乗り切ればいいのです。

 今の日本では、制度に守られていなくても、あれこれ工夫をしながら自分たちの関係を守っているカップルがすでにたくさんいます。そのことをどうか忘れないでください。

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