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「ヘレディタリー」「ミッドサマー」以後、ホラー映画は「嫌」になった

(タイトルに含まれる2作品のネタバレは極力控えていますが、作品の性質について書く以上、多少の情報は出さざるを得ません。お気をつけください。)

独唱です。

いきなりタイトルと矛盾して申し訳ないのですが、僕は小さい頃からずっとホラー映画が好きで、今も大好きです。
ホラー映画を見たくないと思ったことは一度もなく、現在進行形で映画の中でも好きなジャンルの一つです。

でも、たとえば10年前に「ホラー映画好きです!」というのと、2021年現在同じことを言うのとでは意味が違うと思っています。
それの転換点となった作品が、アリ・アスター監督の「ヘレディタリー/継承」(2018年)なのではないかと思っています。
(ダーレン・アロノフスキー監督のスリラー「マザー!」が該当する説も僕の中ではあるのですが、興行収入的にも内容的にもより影響力強いのは前者かなと。)

人の根源的恐怖とは何なのか

クラシックなホラー映画として、初の叙事詩的ホラー映画とも言われるシャイニングを挙げてみましょう。
襲いくるイカれた父親。ホテル内に跋扈する霊現象。命の危機。
間違いなく「怖い」と思わせる空間がそこにはあって、その完成度が非常に高いからこそ今に至るまで世界中の人に愛される作品。
僕も大好きな作品です。

ジェイソン、フレディ、チャッキー…。
ホラー映画はさまざまな魅力的キャラクターたちも生み出してきました。
彼らは例外なく武器や超常的な能力を振るい、絶望的なまでの追い込み方で「命」を刈り取ります。
彼らに実際に対峙して「怖い」と思わない人間はいないでしょう。

ただ、果たして人間が心底恐怖を感じるものとは、本当に「命の危機」なのでしょうか。
もちろんそれは確実に怖いのですが、ここでひとつ視点を変えてみたいと思います。

「終わってしまう恐怖」より「これからも続くことへの恐怖」の方がタチが悪いのでは

命はひとつなので、失うとそこで終わりです。
いわば「命を取られる」系のホラー映画とは、「終わってしまう恐怖」と、それに抗う人間たちを描いているといえますね。

しかし「ヘレディタリー」や「ミッドサマー」は違います。

これらの作品でももちろん「命の危機」は描かれますが、最も描きたい恐怖はそこにはないように感じました。
むしろ死という終わりを迎えさせてくれないまま「これからも続くことへの恐怖」こそ、これらの作品のキモなのではと考えます。

思えば死よりももっと身近な僕らの恐怖は、例えば「先行きへの不安」「責任による重圧」「周りの無理解」「取り返しのつかない失敗」であり、これらの恐怖は
「それを抱えたままこれからも生きなければならない」ということへの恐怖なのではと思うのです。
こうした恐怖は、ナタを持った殺人鬼の来襲では表しきれない要素でしょう。
「怖い」というよりも「もう嫌だ」の感情です。

過去から現代に至るまでに、明るい路地やいつでも人がいる街、どんな時間でも担保されるネットによる人とのつながりを得た人類にとって、暗闇から殺人鬼が襲いくる恐怖は、全く無いとは言い切れないまでも身近ではなくなったのだと思います。

「死の恐怖」に動じなくなった人々に、新鮮な情動を与えてくれるのが「これからも続くことへの恐怖」であり、この点に気づいてフィーチャーしたところがアリ・アスター監督や「ヘレディタリー」という作品の、素晴らしく悪趣味なところだと思うのです。(褒め言葉です。)

まとめ

つい先日「ミッドサマー」が配信サイトで解禁され話題になっていましたので、それに寄せて書いてみました。

「ヘレディタリー」も「ミッドサマー」も、まだ見ていない方は間違いなく今まで見たことない映像が見られますよ。

ぜひ暇な日曜の昼下がりなどに見てみてください。

以上です。
独唱でした。

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