論点整理:SNS抗議活動の反転可能性(岡村氏・室井氏の事例検討)
SNS上の「誹謗中傷」に対して、法的措置が取りやすくなるような法改正を求める動きが加速している。
「リアリティショー」における故・木村花氏の言動が反感を買い、彼女を誹謗中傷するコメントが殺到したことがきっかけだ。
確かに、誰かを死に追い込むようなネットの「いじめ」が許されないことについては、論を待たない。
現行のプロパイダ責任制限法では、匿名の発言者の身元特定に複雑な裁判手続きが必要となり、発信者側に有利な「言ったもの勝ち」の状態となっているのも事実だ。
しかし他方で、通信の秘密は表現の自由の重要な前提であり、感情に任せて安易に開示へのハードルを下げてしまうことも、非常に危険であるといえる。
なにより、私たちは、自らの言葉について自分や味方の正当性に甘い判定をし、逆に、対立者には厳しい処罰を求めがちだ。
そこで、本論考では、最近発生した二つの「SNS抗議活動」の事例を検討し、この処罰感情がいかに恣意的な判定を招くかということを、明らかにすることとしたい。
事例① 岡村隆史氏「美人が風俗嬢やります」発言
お笑いコンビ「ナインティナイン」の岡村隆史氏が、4月23日、深夜放送のラジオ番組で、次のような発言をしたという。
「コロナが終息したら絶対面白いことあるんですよ。美人さんがお嬢(風俗嬢)やります。短時間でお金を稼がないと苦しいですから」
コロナウイルス感染症によって生活苦に陥った女性が、望まないかたちで性風俗業界に従事することを「面白いこと」と表現するのは、確かに品性下劣な発言であり、深夜放送での発言であることを踏まえても、批判に値する内容であったとはいえるだろう。
岡村氏は4月30日、「大変失礼な発言だった」と自らの発言の不適切性を認めた上で、謝罪をしている。
しかし、事態はここで収まらなかった。
Twitterのフェミニストたちは岡村氏の謝罪では不十分であるとし、SNSを通じた署名活動を展開した。「NHK番組『チコちゃんに叱られる!』の降板及び謝罪を求める署名活動」、発起人は一般社団法人Voice Up Japanとなっている。
この署名には上野千鶴子氏らも賛同し、現在2万筆を超える賛同が集まった。
なぜ、全く無関係なNHKの番組からの降板なのか。署名本文では次のように語られている。
社会に多大な影響力を持つ一流のお笑い芸人が、女性軽視だけでなく、経済的困難により売春をせざるをえない若い女性の搾取を促す発言をしたことに対し、私たちは絶望しています。
「不快な想いをさせてしまった」に留まる謝罪では、問題の本質が理解されているとは言えず、子供向け番組(チコちゃんに叱られる)で「差別発言」を繰り返してしまう可能性があるから降板せよというわけだ。
だが、これはかなり奇妙でねじくれた論理だ。
確かに、署名本文にもあるように、ひとり親家庭などの経済的に貧困な女性が性風俗産業に流れる傾向性があることは事実であろう。しかし、岡村氏はそのような社会が正しいとか、「女性をもっと貧困にして美人を性風俗産業に従事させよう」と呼び掛けているわけではない。
コロナウイルス感染症の拡大により、どこかの美人の女性が経済的困窮によって性風俗産業に従事し、それが利用者にとって「面白いこと」だと述べることは、それ自体、「口にするべきでない下劣な期待」ではあるかもしれないが、「差別」でもなければ、男女の格差の肯定でもない。
有名人が下劣な発言をしたことのセンセーショナルさを利用し、ありもしない「差別」を無理に読み込もうとしているように思われる。
この岡村氏を「差別者」として糾問する流れはさらに加速する。#kutoo運動でおなじみの石川優実氏が、上記署名に賛同した上で、さらに、「岡村隆史さんを起用し、女性の貧困問題やフェミニズムについて学べる番組を制作・放送」することを要求する署名を始めたのである。
謝罪をしても、自分たちにとって十分に納得できるものでなければ許さないし、許されるべきではない。発言の重大性を知らしめるために、フェミニズム番組に出演して晒しものにせよというのである。
そして、岡村氏にフェミニズムを学んでもらうためという建前も、あっさりと署名発起人である石川氏本人の発言によって覆される。
「影響力を利用したいだけ」「彼を救うためじゃない」、自己の政治的目的のために利用するだけだと、はっきり吐露したのである。
自分たちの考える「フェミニズム」を、大上段から有名人である岡村氏に説諭する番組を作ることができれば、運動的には確かに大勝利であろう。だが、少なくとも目標としては岡村氏をも含めた広く普遍的な相互理解が目指さるべきではないのだろうか。
木村花氏にぶつけられた誹謗中傷が問題となったとき、石川氏は「#SNS上の誹謗中傷が法に基づいて裁かれる社会を望みます」というハッシュタグにより、署名運動に賛同・拡散を行っていた。
差別的意図が明確に読み取れるわけでもなく、謝罪した上でなお不十分だと岡村氏を追い詰め、しかも本人を救済する気もない。
それこそ「いじめ」ではないのか?
その疑問に対して、石川氏は次のように応じている。
要するに、岡村氏への署名は「批判」であって「誹謗中傷」「いじめ」ではない、岡村氏が「差別発言」をしたのだから仕方がない、というわけである。
だが、岡村氏の発言には直接に差別的なメッセージや意図は含まれていない。石川氏らフェミニストが無理やり読み込んでいるだけだ。
そして、本人の意図にない差別性や悪意を読み取って、仕事や発言の機会まで奪おうとすることを誹謗中傷やいじめと言わないならば、いったい何がそれにあたるのか。
岡村氏のもとには、「自殺まで追い込むぞ」というような過激な電話が殺到しているとの報道もある。
だが、岡村氏批判を先導してきた石川氏の反応は冷淡である。
「ノットオールフェミニスト」というわけだ。
なるほど確かに、石川氏が脅迫電話をかけているわけではないのだろう。だが、それを言うのならば、女性を経済的貧困の状況に置いているのは岡村氏ではないし、性風俗産業に従事するよう追い詰めたのも岡村氏ではない。
自分に対してはノットオールフェミニスト、岡村氏は男女格差の責任を負え、では理屈が通らないだろう。
事例②:室井氏「日の丸マスク生産」発言
マスク不足が続く中、政府受注生産のマスクに「日の丸」が貼付されているというデマがネットに流れた。
発端は毎日新聞の「イメージ画像」のマスクに日の丸がついていたために、「政府に日の丸を貼らされている」「日の丸を貼付する暇があれば増産しろ」と、誤解に基づく批判が生じたようである。このデマによって、メーカーにも苦情が殺到、製造を一時休止するなどの措置をとることになった。
そして、テレビのコメンテーターとしても知られる、作家の室井佑月氏がこのデマを拡散するツイートをしたとして、Twitter上で批判が集中、炎上状態となった。
もちろん、民間企業に経済的損失を与えるようなデマを流すことは著しく不当であるし、場合によっては不法行為ともなるだろう。現に、室井氏も事態を重く受け止め、すでに謝罪・削除のうえ、弁護士を交えて対応について協議しているところだという。
しかし、それで収まらなかったのは、ネット上の右派であった。デマの内容が政権批判的なニュアンスを含んでいたこと、さらに室井氏が知名度の高い左派のコメンテーターであったこともあり、批判は過熱。
Twitter右派のアルファである黒瀬深氏の次のような呼びかけにより、ハッシュタグを利用した運動に発展した。
当該ツイートは本稿執筆時点で1.9万いいねがあつまり、実際に30日にはTwitterトレンド入りするほどバズッたようである。
繰り返すが、もちろん、室井氏の発言は望ましいものではなく、場合によっては不法行為となる可能性もあるもので、批判の内容そのものは妥当だといえる。
だがこれでは、岡村氏に対してフェミニストが数を恃みに署名運動をし、自らの影響力を拡大するために利用しようとしたことと、まったく同じ誤りを犯してしまう。
そのように考えた私は、次のように黒瀬氏を批判した。
私のこの批判に対して、黒瀬氏は次のように応答した。
タイムスタンプを見ればわかるように、この対応は非常に迅速であった。
黒瀬氏はフォロワーも多く、熱心な支持者もいる方で、これだけはっきりと誤りを認めることは勇気がいることだったと思う。この対応については高く評価されるべきだろう。
検討:岡村氏・室井氏へのSNS抗議の比較
いずれの事例についても、発言そのものには一定の瑕疵があったといえる。
岡村氏の発言は、他者の不幸を喜ぶという、その品位において著しく下劣な内容であり、当事者を非常に不愉快にする要素を含んでいた。室井氏の発言については、実際に企業に経済的損失を与えかねない、誤った情報を拡散したという点で不当なものだった。
そして、両者とも、その過ちを認めて、謝罪したという点でも共通している。
謝罪を認めず、批判対象の出演する番組から降板せよ(出演に抗議する)と、数による示威行為を行ったところまで、全く同じ構造なのだ。
残念ながら私たちは、対立者に対する素朴な処罰感情に対してまことに弱い。発言に瑕疵があればそれを拡大解釈し、レッテルを貼り、悪魔化し、謝罪をしてもなおどこまでもどこまでも追い詰めて、叩きのめすという、甘美な誘惑が常に存在している。
岡村氏・室井氏両者へのSNS抗議は、他者の失言をあげつらい、学級裁判を開いて吊し上げにする欲望が、思想の左右を問わず、私たちの中に潜んでいることを浮き彫りにした。
室井氏への抗議活動については、主唱者である黒瀬氏が謝罪し、撤回したが、これは右派が理性的であったというよりは、事前に、フェミニストらによる岡村氏へのバッシングを見ていたために、比較的冷静に自らの行為を反省することができた、という点が大きいだろう。
時系列が逆であれば、結果も逆であったかもしれない。
私たちは、もちろん、自分たちの内的な正義に照らして、誤った発言をしっかりと誤りだと批判していく必要がある。
しかしその一方で、私たちは対立者の瑕疵に厳しく、自己の「批判」の行き過ぎに甘い、という一般的性質があることを自覚していかなければならない。私たちはあくまで主張を批判するにとどめるべきなのであり、批判対象への処罰感情を理性でもって抑え込んでいく必要がある。
そうでなければ、私たちの「健全な議論」はいつでも「魔女狩り」に堕するだろう。
SNSの身元開示請求を容易にするという法改正の危険性もここにある。
自分たちと対立する人々の言葉を次々と「誹謗中傷」として告発し、身元が明らかになった対立者に「処罰」を加えるという感情に、私たちはどこまで抗うことができるだろうか。
対立者の瑕疵を捉えた「テレビ局への降板運動」が、一般の人々の居住地や職場や関係先へ拡大したとき、私たちはそれでもなお自由に自己の意見を言いうるだろうか。
何のために「通信の秘密」が憲法上保障されているかということについて、今一度、私たちはしっかり考えていく必要があるだろう。
結論:「抗議」の前に反転可能性テストを
反射的に抗議活動を始めるエクササイズをしているみなさんに言いたいのだが、まず反転可能性を考える、という習慣はとても重要である。(もちろん、繰り返しているが、右派左派、フェミ・アンチフェミ関係なく、これは大切なことだ)
なぜ反転可能性が重要なのか。
自己に対して課せられないような高潔さを対立者に求めるべきではないし、逆に、対立者へ求める規範は、自己に対しても課せられるものでなくてはならないからだ。
例えば、フェミニスト(あるいはネトウヨ)は他者の不当性をどこまでも追い詰めて良いが、自己の不当性への批判は無視しても良い、などとしてしまうと、私たちは異論者に対してどこまでも残酷に不寛容になってしまう。
健全な批判と、「行き過ぎた抗議」や「誹謗中傷」の境界の問題も同じだ。私たちが同一の過ちを犯した際に、そのような抗議行動や非難の言葉を受けたときに、果たして正当なものとして受け入れることができるか、という思考を巡らせる必要がある。
さて、この反転可能性を考えるという意味で、一つの興味深い事例があるので御紹介したいと思う。
立憲民主党の時期衆院選候補である鎌田氏のツイートだ。
私は、先にも述べたように、黒瀬氏のハッシュタグを使った抗議活動を批判した。しかしながら、一私人に対して、「狂っている」「加害者」という物言いも穏当ではない。
そこで、私は次のように鎌田氏に問いかけを送った。
立憲民主党は、立憲フェス2020に石川氏をゲストとして招くなど、現今のフェミニズム運動にも深い関心をお持ちの政党であると聞いている。
しかし、もしも黒瀬氏の抗議が「暴力」「加害」そして「狂っている」というのであれば、岡村氏を追い詰めたフェミニストたちのSNSを利用した運動に対しても、同じことが言えなければおかしい。
これが反転可能性を考えるということであり、それは、ことほどかように難しいことなのである。
私は、怒りを一方的にぶちまけるエクササイズの前に、反転可能性テストを思考のエクササイズとして取り入れることを提案したいと思う。
憎むべき人びとに不正を働くということは、われわれの燃え盛る憎悪に油を注ぐことである。逆に、敵を寛大に扱うことは、憎悪を和らげる。
――エリック・ホッファ
なお、本稿執筆段階では、この問いに対する鎌田氏からの返答はない。
(※2020.6.1、鎌田氏より言及があったので、追記②を追加した)
以上
追記①:「誹謗中傷」への規制について
「誹謗中傷」への規制について、私は現行法よりも幅広い範囲での規制は、表現の自由の観点から望ましくないと考える。
もちろん、誰かを死に至らしめるほどの罵詈雑言は許されないが、それは現行法でも一定の規制が行われているし、なによりも相互の批判や自制によって、そうした悲劇を繰り返さないような社会へとしていく努力のほうが先であろう。
そして、語弊を恐れずに言えば、「表現の自由」というのは、対立者から見て誹謗中傷だと思えるような言葉が飛び交うぐらいの状態を指すのだとも思う。
例えば、私の名前で検索すれば、このような言葉がすぐに出てくる。
私は、外道で、害悪で、弱いものをいたぶるのが大好きらしい。そしてこの方は、私の不幸を心の底から願っているらしい。
これはまだいい。
顔写真と実名を要求し、私を犯罪者と決めつけている方もいる。この方はこうも言っている。
どうやら、私は母の胎内で殺されるべき存在であったらしい。
自分への罵倒ならばともかくとして、親や祖国についてどうこう言われるのは正直言って腹が立つが、しかし、それでも私は、このような人々の口を塞げる社会よりも、自由な社会の方が望ましいと思っている。
どんなにひどい言葉を投げつけられたとしても、それでも、表現の自由は守らなければならないのだ。
唇を噛んで胸を張り、それも自由だ、と口にすることが自由主義者の矜持である。
私にこの信念を教えてくれたのは、『ガンパレードマーチ』というゲームの、芝村舞というキャラクターであった。彼女は、周囲から根拠のない誹謗中傷を受け、さげすまれる中で、こう口にした。
「好きなように言わせればいい」
「良く調べてもいないのに他人の悪口を言うのはどうかと思うが、それで言論統制するのは、もっとどうかと思うぞ」
「私は、だれも何もしゃべれない世界より、めいめい勝手なことを言う世界を選ぶ」
「自由には不便もあるが、結局のところ、それでも自由がいいのだ。……夜がくれば朝がくるように。 人は夏には冬のことを、冬には夏のことを思い描く。私は人間が卑小である故に、それを愚かだとは思わないが、 だが夏に夏の文句を言うよりも、花火大会に出掛けたほうがよいと思う」
「私は思う。世界のあるべき姿は、今より少しだけいい世界だ。その世界は、相変わらず私に陰口を叩くだろう」
――芝村舞(『高機動幻想ガンパレード・マーチ』)
私が理想とする社会は、表現の自由が十全に守られた社会だ。
そしてそのうえで、少しずつ人間が和解し、歩み寄り、ほんの少しだけ相互理解が進んで、よくなった社会。
相変わらず私は陰口を叩かれているかもしれないが、私はそれでも自由を愛するのだ。
追記②:鎌田氏からの返答のようなもの
(2020.6.2追加)
やっと鎌田氏から返答(?)が来たので、みなさんにご紹介したい。
私の問いに対する答えになっているだろうか?
結局、石川氏らの署名運動をどう評価し、黒瀬氏への「狂っている」「加害」「暴力」という言葉と整合性をとるかについて、頑なに返答を避けているように私には見える。
そしてさらに、私のものではないツイートへの引用RTをもって、「すでに回答している、回答していないというのは事実に反する」と主張されているが、私に一切言及せずに私の問いに回答したというのは無理がある。
鎌田氏の脳内では回答済なのかもしれないが、私はエスパーではないので、それを察知することはできない。
また、百歩譲って、
「実名と匿名の違いがあるから、署名運動は暴力ではない」
という返答であると理解するとしても、これはやはりおかしな論理だ。
実名は責任の所在が明確であるというメリットはあるが、それは実名の誹謗中傷やいじめに暴力性がないということを意味しない。棍棒に記名がなされようがなされていまいが、殴られる側の痛みは変わらないだろう。
訴訟のハードルは下がるかもしれないが、黒瀬氏の「出演に抗議する」という行為自体はいささかも違法性はない。その根拠となっている室井氏が「誤情報を発信した」という事実自体は、本人も認めるところだ。
したがって、「匿名」という条件を添加して、フェミニストの署名運動を批判対象から外そうとする鎌田氏の試みは、現時点では失敗していると言わざるを得ない。
「公職でもない特定の個人」を集団で論難したという事実は変わらないからだ。
なお、鎌田氏は捨て台詞のようにこのような引用RTをされているが、どなたか意味が解る方がいれば教えてほしい。
繰り返すが、本稿執筆時点(2020.5.31)では、私に対してリプライもなければ、引用RTもない。何度メンションを飛ばしても無視してきた方が、ぜんぜん別の人に対する引用RTをもって、私への「回答」だと言い張っているわけで、それこそ事実に反する投稿だと私には思えるのだが。
さて。
現在、本記事の閲覧数は1万回に達しようとしている。おそらく、相当数の岡山県民の方も含まれるだろう。
鎌田氏は匿名だから無視してもよいと思われているのかもしれないが、もし政治家としてこれから活動をされていくつもりなのであれば、こうした名もなき市民たちの声を無視するのは、得策とは言えないだろう。
なぜなら、日本における選挙は無記名の秘密選挙であり、あなたがもしも国政の場に立てるとしたら、投票という匿名の信任を受けた結果であるはずだからである。
以前に、石川優実氏にも指摘したように思うが、あなたの信念に素朴な疑問を投げかける100人、200人という市民の声を踏みにじっていくならば、政治的成功などおぼつかないだろう。
鎌田氏に思い出していただきたいのは、あなたは実名であり、立憲民主党の看板を背負っているということだ。
今のままでは、立憲民主党という政党は、市民の声を無視し、平気でダブルスタンダードを肯認する人間を、衆院選の候補として担ごうとしているのだ、と言われても仕方がないだろう。
もちろん、私は新しい政治活動を始める人を応援しているし、鎌田氏も例外ではない。
もし、鎌田氏に対話の意志があるというのであれば、私はいつでも応じるつもりであるし、しっかりとした回答が得られれば、記事の内容をすぐにでも変更するつもりである。
以上
青識亜論