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「萌え絵批判」はなぜ燃えるのか――私たちが怒る本当の理由

 また、炎上である。

 環境省の「クールチョイス」キャンペーンの一環として作成された萌えキャラ・君野イマ氏/君野ミライ氏が、誕生から三年たった今になって、フェミニストたちに捕捉されて炎上したのだ。

 本稿は、最近の炎上事案を概括しつつ、ツイフェミの炎上攻撃になぜ人々が怒り、「逆炎上」が発生するのかについて述べる。

 今まであるようでなかった、表現の自由戦士側、もっと言えばオタク文化に親しんできた人々の「お気持ち」をしっかりと分析することによって、わずかでもツイフェミの皆さんに理解してもらえればいいな……というかすかな希望を込めつつ、書いている。

 少し長いが、最後までお付き合いいただければ幸いである。


フェミニストの逆炎上現象が止まらない

 ここのところ、どうもTwitterにおけるフェミニストの皆さんの「活動」は、調子が悪いようだ。

 リプライ欄を見れば、「差別的」「低俗」などといういつもの決まり文句が並ぶ。以前ならばフェミニストの抗議が殺到すれば、官公庁や公共団体は周章狼狽して泡を吹き、大慌てで表現物を撤回したり、謝罪文を掲載したりしていたはずだ。

 だが、環境省はどこ吹く風で、炎上にはノーコメント。いろんな御意見があることも承知していますがと、官公庁の「定型句」を並べるばかりだ。

 それもそのはず。

 以前ならば、過剰にセクシーだとか、ジェンダーバイアスを強化するなどの、まだしもそれらしい理屈が見られたが、今回は「身長158cm」「女子高生」「靴下が片方ない」などの、どこをどう読んでも何が差別で何がフェミニズム的に問題なのか、全く判然としないからである。

 結果、環境省よりもむしろ、無理筋な批判者のほうが炎上気味の逆批判を受ける結果となった。

 そして先日、今度は、京都市営地下鉄の萌えキャンペーン「地下鉄に乗るっ」がフェミニストの槍玉にあげられることとなった。

 「地下鉄に乗るっ」は、地下鉄をイメージした萌えキャラを制作し、市営地下鉄をPRするというものだ。その高いクオリティと、「萌え絵に媚びすぎない」というコンセプトもあいまって、幅広い人気を獲得し、ファンによるクラウドファンディングや多メディア展開、地元アニメイベントである「京まふ」でのイベント開催など、「萌え興し」の模範的成功例ともいえるものだ。

 キャンペーンの一環として、「交通局女性職員の意見を聞きながら」男子高校生のキャラクターもデザインするという徹底ぶり。

 これが燃えるわけがないと、誰しも、思うだろう。

 ところが、燃えたのである。

 ただし、燃えたのは批判者である市議会議員(フェミ議連所属)のほうだったが。

 本人はいつものように意識高めのフェミニズム・パンチを繰り出したつもりだったのかもしれないが、逆に袋叩きにあってしまう。

 自分の周りにはロングスカートの女性が多いから、当該キャラクターは「男性目線のキャラ」だという無茶苦茶な決めつけに、餓狼のごとく表現の自由戦士が襲い掛かった。

 これにはツイフェミのみなさんもファボを入れるのはためらわれたと見えて、500ファボに対して約三倍のRT・リプライが叩き込まれている。ほとんどが村上氏に対する批判的内容なので、これは立派に「炎上」事案だ。

 そしてその後の弁明がこちらだ。

 フェミニストはいつからスカートの長さを図って回る「道徳警察」になったのだろうか?

 さらに、このような批判も出た。

 「女性職員から意見を聞きながら」作ったという、イラストレーターの思いのこもった男子高校生のキャラクターは、あっさりと無視されているのである。

 そしてとどめに、ピンフスキー氏からの指摘である。

 おわかりいただけただろうか。

 批判者たちは、「萌え絵だから批判しているわけではない」と繰り返してきた。女性差別的なメッセージが含まれているからこそ批判しているのであり、萌え絵という文化それ自体を排斥するつもりはないというのが、建前であった。

 ところが、近年の事例は、急速に差別認定の閾値が低下し、「環境省」「京都市営地下鉄」の二つの事例は、もはや萌え絵であることそのものを批判しているのではないかとしか理解できないレベルになってしまった。

 当然、フェミニストの主張は、萌え絵文化を愛してきた人々の痛烈な批判の対象となっている。

 その怒りの火力はすさまじく、藤井氏や石川氏といった有名フェミニストアカウントに降り注ぐ批判は、主張ばかりではなく、人格や容姿への誹謗中傷が数多く含まれている。

 フェミニストの側から見れば、「正義の告発を行ったのに、誹謗中傷がぶつけられた」「これは男社会の内包するミソジニーが悪いのだ」となってしまうのだから、炎上や攻撃はますますエスカレートし、粗雑な告発が繰り返されることになる。

 この悪循環の原因は、いったい何だろうか。

 なにが「オタク」「表現の自由戦士」と「フェミニスト」の対立を生み出しているのだろうか。

 原因はさまざまであろうが、一つには「萌え絵批判」がこれほどまでに反発を招き、オタクたちの怒りの感情を引き起こし、逆炎上現象を発生させる原因を、フェミニストも、フェミニストを批判している人々自身ですら、理解していないことがあるように思われる。

 「萌え絵のなにが問題か」は、フェミニズム研究者らによって多数の論考が重ねられてきた。

 しかし、「『フェミニストの萌え絵批判』の何が問題か」については驚くほど考察が少ない。

 「オタク」「表現の自由戦士」の皆さんは、「萌え絵への攻撃」が不正義であることをほとんど自明の前提としてフェミニズム批判を重ねてきているが、改めて言語化する必要があるのではないだろうか。

 今更何を言うんだと思われる方もいらっしゃるかもしれない。しかし、この出発点ですれ違っていることが、どうも対立を深めている根本原因であるように、私は思えるのである。

 以下、本稿では、「なぜフェミニストの『萌え絵批判』がかくも大きな怒りを集めるのか(逆炎上するのか)」について、論じてみたい。


これは「表現の自由」ですか? いいえ、「お気持ち」です。

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 まず、ツイフェミと表現の自由戦士の両陣営が誤解しがちな最大のポイントが一つある。

 公共広告萌え絵問題は、「表現の自由」は無関係だ、という点だ。

 こう言うと反発する方がいるかもしれないが、冷静に考えてみてほしい。

 国や地方公共団体が行う広告行為は、その原資として税金が使われている公共政策である。当然、外交政策や福祉政策が広く国民的な議論の対象となるのと同じように、批判的検討がなされて当然のものだ。

 また、仮に民間団体が行う広告であるとしても、その団体が主体的に行う表現行為である以上、批判の対象には当然なりうる。

 そもそも、批判表現だって表現の自由の範疇だ。

 この広告は良くないとか、私は嫌いだと発言することそのものは、誰の権利も侵害していない。フェミニストの側も、なにも萌え絵広告を法規制で取り締まれなどと言っているわけではない(多くの場合は、だが)。

 表現の自由を侵害してもいない批判行為を、「表現の自由の侵害だ」と言われれば、フェミニストの側だってびっくりするし、感情的反発にもつながるだろう(差別的なメッセージがなんら存在しない表現物をポリコレ棒で殴られたときに、私たちが怒るのと同じことだ)。

 冷静になって考えてみよう。

 そもそも、宇崎ちゃんの献血ポスターや、環境省の萌えPRが潰されたとしても、私たちのオタク生活に直接の影響があるわけではない。宇崎ちゃんの漫画は依然として書店で買えるのだし、なんなら今季アニメ化までされた。献血でもらえる宇崎ちゃんのクリアファイルにしたって、もっとクオリティの高い公式グッズを入手しようと思えばできるだろう。

 では、なぜ私たちはこれほどに怒るのか。

 それは、「萌え表現を不当な理由で潰されるのは、公共的な正義に反する」と私たちが心の中で考え、確信しているからにほかならない。

 これは「義憤」であり、もっと言えば、私たちの「お気持ち」である。

 「<自由>対<お気持ち>」という児ポ法以来の構図に愛着のある表現の自由戦士やアンチフェミの皆さんに言うが、そろそろゲームのバージョンをアップデートしよう。

 これは「<お気持ち>対<お気持ち>」の戦いである。

 私たちは感情の問題としての語りを、極端に恐れてきたように思う。語ってもどうせ理解されないとはなから決めてかかってきた。

 もちろんそれには理由がある。

 漫画やアニメといった文化は、その黎明期、はなはだ白眼視されてきた歴史を持っている。子どもたちから読書や勉強に使うべき時間を奪い、セックスや暴力への関心に目覚めさせる、親や教育者の敵とみなされてきた。

 そんな「悪い文化」に大人になっても惑溺する得体のしれない人々と、彼ら彼女らに向けてチューンアップされた「オタク」や「コミケ」という理解しがたいコミュニティ。

 そして、「宮崎勤事件」の発生が、オタクの悪魔化に拍車をかけた。オタクは「アブナイ」存在だと、社会からみなされるようになった。

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 今の若い人々、10代、20代の方々にはわからないかもしれないが、オタクが本当に「パブリック・エネミー」とみなされ、普通の人間として一般社会で生きていくためには、オタクであることを懸命に隠さなければならなかった時代があったのだ。

 オタクが「隠れて生きる」ことが当然のマナーとみなされてきた時代があった。

 「オタバレ」して偏見にさらされることは、自業自得だと思われていた時代があったのだ。

 それから二十年、三十年の月日が経った。

 オタク文化に根を張ったクリエイターたちは、豊かなエンタテイメントと創作物の数々を生み出し、世界に冠たる日本の文化まで育て上げた。

 漫画やアニメに親しんだ世代は社会の中心に進出し、オタクと呼ばれてさげすまれていた人々はしっかりと経済力や社会的地位を身につけて、コンテンツを買い支えた。

 そして、表現の自由のために戦う政治家や社会活動家の方々が、オタクたちの表現する権利を今日まで守り通してきた。

 そのすべての結果が、現在だ。

 これらの写真や言葉を目にした瞬間に私たちの胸に去来する感情を、決して自己否定するべきではない。

 萌えマンホールを設置した沼津市に対して、「ありがとう」と口にするのはなぜだろうか。

 デキのいい萌え絵を見て目の保養になったことに対する感謝だろうか。

 もちろんそれも含まれているだろう。

 だが、それだけではないはずだ。

 自分たちの愛するラブライブを、のうりんを、キズナアイを、まいてつやユーフォニアムやらき☆すたやけいおん、アニメ文化や萌えの文化、それらひとつひとつをその地域が受け入れてくれたことへの感謝であろう。

 地方公共団体や公共性の高い団体が、一生懸命に知恵を絞って、自分たちを「おもてなし」し、歓迎してくれたこと、そのすべてに対する感謝なのだ、と私は思う。

 それは、「もう隠れなくていい」というメッセージだ。

 公共の空間における萌え絵のあらわれそれ自体が、かつて透明化されてきた私たちの存在の再肯定として立ち現れているのだ。

 赤十字の萌えコラボだってそうだ。

 はじめはきっと、オタク文化に多少理解のある赤十字職員によって進められたキャンペーンなのだろう。

 コミケ会場で献血が行われるようになってから20年もの間、「オタク」は積極的に献血に協力してきた。

 そして2013年12月より、赤十字はアニメとコラボしたノベルティの配布を行うようになった。

 赤十字がオタク向けに、特別に、少なくない費用をかけて作られたノベルティは、それだけ多くの貢献をしてきたということの証でもあるだろう。

 その関係性は文字通り、血で結ばれた絆だ。

 だからこそ、宇崎ちゃんPRポスターが燃えたときに、多くの人が怒ったのだと思う。

 赤十字の宇崎ちゃんポスターに対するフェミニストの無思慮で無根拠な批判に怒ったのは、宇崎ちゃんのクリアファイルが欲しくて欲しくてたまらないからだろうか。

 それとも、フェミニストが安倍政権を操って、宇崎ちゃん規制法を作ることを恐れたのだろうか。

 もちろん、そのような感情も含まれていたかもしれないが、繰り返しになるが、決してそれだけではないはずだ。

 それは、私たちが愛する、人格と記憶の根底に位置する文化、私たちのアイデンティティの一部ですらあるものを否定されたことに対する、怒りの感情だ。

 萌えという文化を深く理解して、受け止めてくれている赤十字への侮辱であり、献血を通して作られた結びつきと歴史への冒涜だと感じられたからこそ。

 私たちはかくも深く怒ったのだ。

 その怒りを、お気持ちを、しっかりと口にしよう。

「私たちは公共空間に現れていいのだ」

「私たちは、隠れて生きる必要などないのだ」

 言葉にしなければ誰にも伝わらない。

 私たちは、今や、社会に向けて、対立者に向けて、私たちのかけがえのないこの思いを叫ぶべきときが来ているのだ。


フェミニストのみなさん、踏んでいる足をどかしてくれませんか?

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 赤十字や地方公共団体への抗議について、フェミニストのみなさんはこう自己認識をしているのかもしれない。

「私たちは、ちょっと意識の足りない公的団体を叱ってあげただけ。世界のジェンダー平等に貢献したいだけなんだ」

「なのに、どうして叩かれてもないオタクたちが怒っているのだろう。私たちの主張を曲解している。きっと、女やフェミニストを叩きたいミソジニストに違いない」

と。

 だが、どうか足元を見てほしい。

 あなた方が踏みつけにした表現物の背後には、あまたの表現者と、表現を愛するオタクたちの思いがあるのだ。

「こんなもの(萌え絵)は公共空間に相応しくない」

 という言葉は、萌えという文化を再び公共から排除し、それを愛する人々を透明化せよという直接的なメッセージだ。

 もちろん、単に萌え絵であるからというだけではなく、しっかりとした「公共空間にふさわしくない理由」があるのであれば、いくら萌え絵が好きな人がいるのだとしても、それは確かに私的な場所に隠れさせるべきものなのだろう。

 例えば、過度に性的だとか、不謹慎だとか、あるいは差別的だという理由があれば。

 しかし、もし萌え絵であるというただそれだけの理由で、萌え絵以外には読み込まれないような「ふさわしくなさ」を付与しているのだとすれば。

「萌え絵のようないかがわしいものは公共空間では隠されるべきものだ」

 というメッセージをほんのわずかでも孕んでいるのであれば。

 それは、オタクに再び隠れて生きよと述べていることに等しい。

 まさにその瞬間、あなたが履いている靴の高く鋭いヒールは、特定の人々を刺し貫いているのだということを知ってほしい。

「たかだか萌え絵でなにを大げさな」

 と思われるかもしれない。

 なら、想像してみてほしい。

 韓国が嫌いな人が、「韓国の文化を公共の電波で流すな」と言い、集団で韓流ドラマなどを燃やしたとすれば、その言葉たちは誰も傷つけていないと言えるだろうか。

 同性愛嫌悪を抱く人々が、「私たちの目に触れる場所に同性愛を想起する表現物を一切置くな」と言うことが、同性愛者を傷つけないと言えるだろうか。

 フェミニストの言葉は不快だから公共の場で口にするなということが、女性を踏みつけにしていないと言えるだろうか。

 こう言うと、フェミニストたちは、

「韓国人や、同性愛者や、女性と、オタクは違う」

と言うかもしれない。

 なるほど、それらの属性が経てきた歴史や、いま置かれている社会的環境は確かにそれぞれに異なっており、オタクの人々の現在と同一ではない。

 だが、「違う」ということは、オタクを踏みつけにしてよい理由にはならないのだ。

 どうか、フェミニストのみなさん、「公共空間にふさわしくない」と叫ぶその前に、私たちにちゃんと理由を丁寧に説明してもらえませんか。

 私たちが繰り返し繰り返し、萌え絵炎上のたびに言っているのは、そういう話にすぎない。

 あなた方は「シーライオニング」などと言って問いを無効化しようとするが。

 あなた方が踏みつけにしているのは、ある人々にとってかけがえのない、大切なものであることを知ってほしい。

 あなた方は、女性の人格を踏みにじり、女性の苦痛の声を透明化する行為を「セクシャルハラスメント」とか「セカンドレイプ」という言葉で告発されてきたはずだ。

 同じことをフェミニズムの名の下に言うならば、それはあなた方とあなた方の先人たちが積み上げてきた努力の全てに泥を塗ることになるだろう。

 それは「フェミニズム・ハラスメント」にほかならない。

 オタクや表現の自由戦士はなにも、「公共広告の半分を萌え絵にせよ」とか、「萌え広告を一切批判するな」と言っているわけではない。

 ただ、批判するならば納得がいくようにその理由を教えてほしい、そしてそのために対話と議論を積み重ねましょうと言っているだけなのだ。

 ゾーニングや「公共性」というワードは、表現のアパルトヘイトを是認するものではない。誰かにとって大切な意味を持つ表象やイコンを公共空間から追い出せと言うのなら、そこには一定の社会的合意が必要であろう。

 フェミニストがメディアや表現物について語った論集『足をどかしてくれませんか。——メディアは女たちの声を届けているか』、これは大変素晴らしい本なので、表現の自由戦士の皆さんは是非読んでほしいのだが、炎上事案の研究で知られる治部れんげ氏が、このようなことを書いている。

 そして、表現の自由でいちばん重要なことは、自分の意見が尊重されるのと同様に、自分と異なる意見も尊重されるところにある。同じCMを見て、「これは嫌い」と思う人、「これは好き」と思う人の両方が意見表明の権利を持っている。だから「これはおかしいのではないか」という意見を書き込むことは、あなたの自由だ。
 残念なのは、自分と意見が違う人の存在を認めず、考えの違う人同士が罵倒しあったり、話がかみ合わなかったりする場面が多いことだ。特にジェンダー炎上事例で意見表明する人が多いTwitterにおいては、その傾向が強い。
 できるなら「あなたの意見には賛成しませんが、あなたがそれを好き/嫌いと思う気持ちは尊重します」という関係を多くの人と築きたい。そのためには、SNSだけでなく対面で人と話をすることが必要だ。

 誰にとっても心地よい表現だけで公共空間を作り出すことなどできない。

 あなた方が心地よくないと思う表現が、誰かにとってはかけがえのない承認のメッセージであるということが、普通にありうるのだ。

 だからこそ、私は対話を、と繰り返し呼びかけている。

 フェミニストの皆さんは、すぐ「アンチフェミニストと対話する意味などない」「フェミニストにとってメリットがない」と決めつける。

 だが、それならば考えてみてほしい。

 あなた方フェミニストの言葉の意味とは、社会があなた方フェミニストの言葉に耳を傾けるメリットとはなんなのか、と。

 女性やフェミニストの声に耳を傾けることで、女性が包摂された(インクルージブな)社会となることが、メリットそのものだったわけでしょう。

 ならば、その包摂の対象に、萌え絵を愛する人々、オタクを加えてもらえないだろうか。私や彼らも、この社会に生きる主体性を持った個人なのだから。

 それが本当の「ダイバシティ」ではないのだろうか?


憎悪と対立の連鎖の終焉、または新しい希望

 私の好きな言葉に、こういうものがある。

「目には目をでは、世界を盲目にするだけだ」
 ――マハトマ・ガンジー

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 男性社会への違和感や意義申立のために、破壊行為や過度に乱暴な言葉で社会を攻撃することを、フェミニストは「ミラーリング」と呼んで正当化してきた。

 もしかしたら、過剰なほど表現物への攻撃も、かつてのサフラジェットのように、男社会に思い知らせるための活動だという思いがあるのかもしれない。

 男が悪い、社会が悪い、セクハラが悪い、この社会に残る男尊女卑や差別が悪い、だから私たちの怒りは正当で、悪いやつらをやっつければいいだけなのだと。

 だが、それはただただ憎悪を生むだけだ。

 炎上した萌え絵の残骸の中で、悲嘆にくれた人々は、今や、フェミニストたちを燃やし始めた。容姿や人格を中傷し、批判者を炎上させ、度を超えた攻撃的言動を浴びせかけている。

 それについて私は次のように窘めた。

 この言葉について、次のようなコメントが付いた。

 tk氏は、私のフォロワーの中でも、特にしっかりと私の言葉を読み込んでくれる、ありがたい方々の一人だ。

 しかし、そうした人々ですら、フェミニストと表象を巡る論争の中で、憎悪の連鎖に飲み込まれようとしている。

 「私はあいつらが憎い」

 憎悪が憎悪を呼び、対話を遮断して、内向きの言葉だけが積み上がり、そして悪魔化された対立者に対する憎悪だけが膨れ上がる。

 男女の憎悪と憎悪の連鎖が拡大再生産され続けた結果を、私たちは欧米諸国の状況、「インセル」という存在に見出すことができる。

 インセルとは、"involuntary celibate(不本意の禁欲主義者・非自発的独身者)"の略称で、要するに自らの性的な不遇を、女性や、フェミニストや、社会のせいだと考える人々だ。

 彼らは、そのような社会に復讐するため、暴力や強姦で「女性を罰する」行為を推奨する。

 実際に、インセルを標榜したテロと、そのようなテロリストを賛美する人々によって、銃乱射などの多数のテロ事件が発生している。

 私たちは、このような状況を見て、社会的にどのように解決するべきだろうか。

 すべての人が社会的に成功したり、思い通りのパートナーを得ることなど、いかなる社会であっても不可能だ。自分の報われなさを男や女や萌え絵やフェミニストのせいにして、みんなで連帯し攻撃すれば、ひとときの安らぎを得ることができるだろう。

 しかし、それは解決への道ではない。

 憎悪と分断の連鎖にしか続かない、先の無い道なのだ。

 性愛や承認の分配にあずかれない人が必ず生まれるのであれば。

 社会的成功や「モテ」とは異なる価値観が、社会においてしっかりと根を下ろし、享受されなければならない。

 私は、その一つの処方箋が萌え絵に代表される「オタク文化」だと思っている。

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 ここに存在するのは、確かに享楽的で、退廃的で、性を存分に商品化した表象たちだ。

 だがそれゆえに、社会的成功がなくとも、「モテ」に最適化せずとも、あるいはピックアップアーティスト(ナンパ師)のように振る舞わずとも、性愛や承認の快楽に容易にアクセスすることができる。

 結果、私たちは社会的競争や恋愛原理主義といった現実を支配する価値観を相対化し、少なくともこの文化空間の中では自由になれるのである。

 私は、日本においてインセル文化がいまいち広がらないのも、モテの価値観の中で成功を収められない人々を包摂する、このオタク文化という空間が存在していることがあるのではないか、と思うのである。

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 上野千鶴子氏は、かつて非モテのオタク男性に対して、「ギャルゲーでオナニーして死んで行け」と述べた。

 しかし現実には、オタク文化は私たちの社会において、上野氏の想像をはるかに超えて広がっていった。

 モテる人もモテない人も、社会的な弱者も成功者も、広く広く取り込んで、オタク文化は私たちの社会におけるある集団の、文化的アイデンティティとなって根付いた。

 その人々は、オタク文化を消費しながら上手に現実と折り合いをつけ、社会の中で地道に自らの仕事をこなして経済力を得て、着実に私たちの社会において再生産され続けている。

 そして、その力が53万票となって山田太郎氏を政界に押し上げたのだ。

 時計の針は元には戻らない。

 女性の社会進出はますます進むだろうし、オタクや萌え表象が消えてなくなることもない。

 ならばフェミニストは、オタクは、男性と女性は、それぞれこの現実にどう向き合うべきなのだろうか。

 憎悪の連鎖を断ち切り、インセル文化のような鬱屈した攻撃的存在に力を与えないために、私たちができることはなんだろうか。

 私は思う。

 本来、オタクとフェミニストは対立構造にあるわけではない。上野千鶴子氏の呪詛の言葉を乗り越える道がまだ残されているはずだ。

 インセルのような社会から排除された存在を生み出すことは、フェミニズムが本来目指した、自由で多様性のある社会とは全く異なる未来像だろう。

 なにより、今やポルノグラフィにせよオタク文化にせよ、多くの女性が作品の作り手として、あるいは創作物に命を吹き込む声優として、はたまた従業員や消費者として、これらの文化に関わっているのだ。

 話し合えば分かり合えるなどとは言わない。嫌悪や無理解はきっとどれほど言葉を重ねても、残り続けることだろう。

 だが、少しずつでも対話を始めていくことで、憎悪と断絶が連鎖する「イマ」を変えていくことはできるはずなのだ。

 さあ、語り始めよう。対話を始めよう。

 それこそがより良い未来への道に通じていると信じて。

以上

阿波踊りとマチアソビが中止になった2020年夏の徳島より、「ミライ」への祈りをこめて。

青識亜論


補論① オタクの<お気持ち>の側が尊重されるべき理由は何か

 突然「<お気持ち>対<お気持ち>」の戦いだと言われても、具体的にどうフェミニストに反論していいのかわからなくなった、という人もいるだろう。

 フェミニストの主張を否定し、あとは表現の自由だと言いさえすればいいイージー・モードに慣れた表現の自由戦士の皆さんの中には、不安に思う人もいるかもしれない。

 当然の主張だ。

 だが、不安になる必要はない。基本は今までと同じように、フェミニストの主張の不当性を淡々と論証していくだけでいい。

 「差別」や「性搾取」といった主張の不当性を一つ一つ論証したうえで、なお「萌え絵に対する自分たちの嫌悪」しか残らない状態にすれば、基本的な論証は終了である。

 確かに、「萌え絵嫌悪(モエフォビア)」も尊重されるべき感情ではある。「同性愛嫌悪(ゲイフォビア)」などと同程度には、であるが。

 ある人々のアイデンティティや理念が公共空間に現れること、例えば同性愛者のカップルが公園にいたり、フェミニストが公民館で講演したりすることは、彼らを仮に嫌悪する人がその場にいたとしても、嫌悪の主張は優先されない。

 もちろん、ほとんど万人が共有するきわめて強い嫌悪、死体や汚物、性行為などといったものは、公共空間から隠されるべきことはありうるが、萌え絵がそのように強力な本能的嫌悪感情を揺り動かすとは考えられない。

 「累積的抑圧経験」などと言い募ってみても、フォビアはただのフォビアである。(累積的抑圧経験などという理屈で排除されるのなら、まず排除されるのは、表現物への炎上行為を繰り返してきたフェミニストたちの言葉であろう)

 この方々のツイートにまさに集約されていると思うのだが、これまでの論争は、しばしばこのような構図に陥ってきた。

表現の自由戦士「フェミニストの掲げている正義は、実際には矛盾している。(矛盾しているのだから、表現の自由の側が勝つ)」

フェミニスト「表現の自由の問題ではなく、批判しているだけ。(表現の自由の問題ではないのだから、フェミニズムの正義が勝つ)」

 括弧内はいわば自分たちの暗黙の前提だから、お互いあえて説明してはこなかったのだ。ここにすれ違いの原因がある。

 もちろん、本当に法規制や権力的な圧力があれば表現の自由の問題とはなりうるし、差別や排除を露骨なメッセージとして盛り込まれているならば反差別の文脈から正義の問題として扱いうる。

 しかし、炎上してきた萌え絵公共広告の大半、あるいはほとんど全てがそのような問題ではなかった。

 では、表現の自由戦士が「自由」の剣を振るえないとすると、私たちはいかなる理念を用いうるのだろうか。

 簡単だ。ひとつは「寛容」、もうひとつは「公正」である。

 寛容はフェミニストも同意する、私たちの社会の出発点ともいえる正義の構想だ。フェミニストやリベラルはしばしば「ダイバシティ(多様性)」という言葉を好むが、女性、こども、障がい者やLGBTQといった人々が公共の場で共存するためには、その存在が単に「不快」で「嫌悪感を催す」というだけで排除することを認容しない。

 私たちは、ただオタクという人々、小児性愛者という人々、非モテという人々、そのほか表現物を生の拠り所とする様々な人々について、ダイバシティの列の中に加えるよう要求するだけでいい。

「私たちは表現の自由を否定しない。公共空間にこのようなものを置くのは相応しくないと言っている」

 これはフェミニストのお気に入りのレトリックである。

 だが、今や表現の自由から次の段階に進み、積極的に公共的意義を肯定している私たちは、胸を張って次のように述べればいいのだ。

「公共空間であるからこそ、あなた方の単なる嫌悪で排除させるわけにはいかない。なぜなら、萌え絵も受け入れられるべき多様性だからだ」

 と。

 そうすると、フェミニストはあれこれと理由を並べて、自分たちが不愉快な人々を排除することは、正義の原理に合致するという論を展開するかもしれない。

 だが、そのときにこそ、私たちが手慣れてきたあの「反転可能性テスト」を行えばいい。

 着衣の萌え絵ポスターに文句をつけるのに、下着モデルの広告を肯定するのはなぜか。巨乳の萌え絵が駄目ならば、胸の大きい人を公共空間から排除するのか。

 このような私たちの主張は単なる「揚げ足取り」にとどまらず、重要な正義に基づく異議申立なのである。

 つまりそれこそが、「公正」の理念である。

 正義が恣意的に適用されることは、全ての人が差別・排除されずに共生すべき私たちの社会において、それ自体許しがたい不正義である。

 手前勝手な論理で正義の理念を操作し、萌え絵だけを選択的に排除しようとするならば、そのときこそ私たちは「その主張は<公正>ではない」という反論をぶつけていくことになる。

 そしてなんのことはない、私たちは表現の自由という理念のもとで似たようなことをずっと積み上げてきたのである。同じことを、「表現の自由」という言葉を用いずにやるだけのことなのだ。

 なんら恐れることはない。

 臆せず、私たちのお気持ちを、すなわち正義を語っていこう。

 これからの萌え絵と正義の話をしよう。

 以上