嫌悪する自由、嫌悪を表現する自由
表現の自由が大切であるなんてことは、それこそ当たり前の常識の話であって、思想の左右やフェミ・アンチフェミを問わず、誰もが同意することだろう。
でも、私たちは、自分たちで思っているほど、他者の自由な表現を尊重できているのだろうか。
いま、一本のはてなエントリが「炎上」に近い形で、批判を受けている。
短いエントリだ。
主張も本当にシンプルで、要するに筆者が「胸のデカさ」を強調されたキャラクターを見ると「ちょっとオエッとなる」というだけの話だ。
記事内でやり玉に挙げられている「僕ヤバ(僕の心のヤバイやつ)」についても、ヒロイン(山田杏奈)の胸の描写を挙げて、「個人的には」と前置きした上で、「あの胸の大きさが雑音になっている」と述べるにすぎない。
巨乳萌え絵について、女性差別だとか、環境型ハラスメントだと切り捨ててきた、いわゆるツイフェミのみなさんの主張と比較すると、ずいぶん抑制的でさえある。
だが、このエントリに今、強烈な批判がぶつけられている。
「オエッとなる」のエントリ筆者を「完全にきちがい」と断じるこのnote記事は、現時点で1万近いハートがついていることから、きわめて広汎かつ多数の賛同を受けているといえるだろう。(当記事執筆時点)
筆者であるさいたま氏の理路を、私なりにざっくりまとめると、次のようになる。
自分の嫌悪感情を批判の根拠に用いるのは、女性特有の論法であるから、エントリ筆者は性別を詐称している。
「巨乳描写は作者の好みの押しつけ」とするエントリ筆者の「イタコ論法」は、女性オタクの奇習であり、外部の人間から見れば「完全なる狂人」「池から這い出てきた怪物」である。
にもかかわらず、そのような論法をとるのは、嫌悪感を抱いただけで「被害者」として立場が成立し、他者攻撃の大義名分となる女性オタク界隈の異常な風習によるものだ。
そのような「クレーマー超有利」の風習の中で育ったために、知能と情緒の退化した「丸々と太った赤ん坊」のような怪物と化するのであり、エントリ筆者もその一人である。
単なる嫌悪感の表明にすぎないのに男を騙ったのは、自分たちの主張が受け入れられないのは女性差別によるものだと、誤解しているからである。
なるほど。確かに、批判の焦点となっている「イタコ論法」は、かなりねじれた、奇妙な論理をとっているように見える。
キャラクターに感情移入すること自体は、物語の読解として自然な所作だ。
現に、「私がもしも主人公だったなら」というのは、それこそ読書感想文でもよく見受けられるフレーズだろう。
しかし、キャラクターの身体的特徴を作者からの「押し付け」と読み取ったり、その特徴をキャラクター本人が「欲しかったかどうか」を思惟するのは、かなり不思議な読解だ。通常、物語内のキャラクターは、自らが創作されたキャラクターであることを自覚していないものとして造形されるからだ。
さいたま氏が「メタ自我」と呼んでいるように、キャラクターが物語内の存在として、作者に作られたものであると自覚していると前提しなければ、出てこない発想だろう。
そのような不自然な読解に基づいて批判を繰り広げるエントリ筆者は、さいたま氏や作品のファンの目には、怪物的なクレーマーのように映っても仕方がないのかもしれない。
しかし、あえて問いたいのだが、果たしてエントリ筆者は「クレーマー」なのだろうか?
もっと言えば、エントリの文章は、「クレーム」として提示されているのだろうか?
さいたま氏も、当該エントリを「何かをシリアスに批判」したものとして解釈し、それを出発点として論理を構成しているが、本当にその前提は正しいのだろうか?
エントリの結論は、ただ「胸がデカいキャラをやめてほしい」「胸が大きいのが良い世の中は(そういう表象が嫌いな自分にとっては)生きにくい」という嘆きに過ぎない。
確かに、創作物に過ぎないキャラクターが、自分の設定をメタ的に知覚・認知して、それを嫌がっているはずだ、という読解はめちゃくちゃだ。
だが、創作物の読みとしても、それをそのように作者が設定した意図、いわゆる「作意」を見て取るということは、普通にありうる。
胸が大きいキャラクターをセクシーで魅力的だと感じる読者の受け取り方を前提として、キャラクターの胸を「盛る」といったような製作者の意図を読解してしまい(それが作者の本意ではないとしても)、本来の物語やキャラクターの人格的魅力の描写よりもそちらの作意のほうが鼻についてしまう。結果、それが「雑音」に感じる……というのは、少し敏感すぎるきらいはあるにしても、成立しうる感想だと私は思う。
奇妙なイタコ論法は、そのような「作意」に対する嫌悪について、キャラクターへの押しつけ云々というような記述で、なんとか表現をしようとした、その努力の跡に過ぎないのではないだろうか。
グラビアに関する記述などを見ると、エントリ筆者の意図はより明確に伝わってくる。
グラビアの女性が胸を強調するのは、それを喜ぶ読者が前提となっている。たとえ、グラビアモデル本人が、自ら望んでポーズを取っているとしても、ポーズを取る動機の先には、それを見て喜んでくれる読者がいるはずだ、という期待が存在しているだろう。
そうした読者の期待に応えるためにグラビアモデルは、自らの身体を鍛えたり、ポーズの技術を磨くし、カメラマンはその魅力を伝えようと努力する。
エントリ筆者は、多くの読者を喜ばせたくて頑張っているグラビアモデルや、製作陣の動機そのものを批判したいわけではないのだろう。だから、慎重に「グラビア女性は悪くない」と留保する。
しかし、それでもそうしたグラビアがもてはやされる風潮や、それに迎合する雑誌側の「作意」を読み取ってしまい、自分個人としては「吐き気」を催してしまう。
結局、このエントリは、クレームや批判などではない、そうした嫌悪の吐露にすぎないのではないだろうか。
もしこの私の見立てが正しいのであれば、「僕ヤバ」や巨乳キャラに関する下りも、言葉足らずの感はあるものの、何かを責めたり、誰かを批判する意図は含まれていないように思われる。
巨乳のキャラがもてはやされ、喜ばれ、作者自身もそのような読者がいる以上、巨乳のキャラを好んで書くだろうし、楽しむ。そういう関係性を嫌悪する自分にとっては「本当にやめてほしい」と思うのだけれど、「この傾向は変わらないだろうなぁ」と、諦念を吐露する。
よくあるフェミニストの、萌え絵や巨乳イラストに対する批判のように、それが「性搾取」だとか「女性差別」だ、といったような、倫理や人権思想を盾に、表現物を攻撃しようという企図は、この文章には含まれていない。
これは、さいたま氏が想定したような、他者攻撃の文章でもなければ、フェミニスト達が繰り広げてきたような、「シリアスな批判」などではない。
徹頭徹尾、個人的な嫌悪感を吐露しただけの文章だ。
言葉足らずを補うとすれば、グラビアの下りと同じように、「作者やファンが悪いわけではない」と一言、付け加えていれば、そうした「批判感」を薄めることができたのだろう。
だがそれは、「暗い池の怪物」だと決めつけられるほど、重たい罪なのだろうか?
検索した限りにおいて、さいたま氏の批判noteを読んだインターネットの住民達のほとんどは、「名探偵」だ「ホームズ」だ、我が意を得たりと快哉を叫んでいる。
私も、巨乳設定の好きなキャラクターはたくさんいるし、巨乳だからという理由で作品やイラストを攻撃してきた人々に、忸怩たる思いはある。
そして、その種の素朴な「嫌悪」の感情を殊更に煽り立て、たくさんの嫌悪の言葉を集めて束ね、差別や性搾取などのご大層な社会正義でゴテゴテと飾り付けた上で、表現者や公的団体に送りつけて圧力をかける、そういう「キャンセルカルチャー」が、表現の自由を実際に脅かしてきたことも、事実だ。
だから、イラストや作品への嫌悪を吐露する行為自体を批判したい感情自体はよくわかる。
けれど、あえて問いたい。
何かを嫌悪し、嫌悪を表明することは、罪だろうか?
「完全にきちがい」などと罵倒されるべきことなのだろうか?
エントリの筆者は、似非フェミニストの運動家のように、その嫌悪が社会正義に由来するもので、表現者は差別者・搾取者だ、などと主張しているわけではない。
大量の嫌悪のクレームを集め、扇動して、作者や出版社のもとに送りつけようと、企図していたわけでもない。
そもそもクレームでも何でも無い、ただの個人的な嫌悪を吐露しただけの文章なのだ。
もちろん、嫌悪をぶつけられた表現の作者は、傷つくだろう。ファンだって傷つくかもしれない。
でも、傷つくかもしれない表現だから、その表現をした人間をみんなでキチガイ呼ばわりしていいというなら、それはコメントスクラムで表現を潰してきたフェミニストと、いったい何が違うのだろうか?
さいたま氏自身も言っているように、これは、単なる好みの差の問題に過ぎない。エントリの主張は、「キャラを大切にしていない」ように感じるというところも含めて、きわめて主観的な嫌悪感の表明にとどまる。
にもかかわらず、その嫌悪感の表明を捉えて、「殴って従わせようとしている」と断じて、キチガイだ、異常者だ、知能の退化した赤ん坊だと、人格否定の言葉を連ねているのは、どちらだろうか。
ただの嫌悪感情の表明を捉えて被害感情をこじらせて、誰かを殴りつけているのは、どちらだろうか。
嫌悪感の表明に対して、漫画・アニメ文化の愛好者やクリエイター、あるいは「オタク」的な文化の住人達(私も含めて)が、殊更に被害感情を募らせてしまうのは、故のないことではない。
自分たちの好きなものを「好き」というだけで、それこそ「キチガイ」扱いされた時代が、確かにあったのだ。
オタクだというだけで、嫌悪を悪し様にぶつけられ、人格を否定され、それ故にオタクであることを隠しながら生きることがマナーだった、そういう時代が確かにあった。
児童ポルノ法や青少年健全育成条例など、法律によってオタク文化を規制しようと、真面目に論議されたことさえあった。民主党の政治家が、アダルトゲームは心を壊す、と公然と言い放った日のことを、私は忘れることができない。
だから、自分たちが好きなものに対して嫌悪感を口にする人々がいたときに、すわ、表現規制か、表現の自由の敵だ、お気持ち妖怪のキチガイだと、防衛本能を全開にして攻撃する気持ちはよくわかる。
私も、実際、その種の嫌悪の言葉を目にしたときに、胸の中で暗い炎が燃え上がるのを感じることが、しばしばある。
一人が石を投げられたら二人で投げ返せ。二人に石を投げられたなら、四人で石を。雛見沢の村掟だ。
でも、考えてみて欲しい。
嫌悪を許せない、それを口にすることすら許されない、嫌悪を口にした個人を目にしたら、みんなで棍棒を持って殴り倒すべきだ、というルールを突き詰めていった先は、どうなるかということを。
イラストや漫画への嫌悪を口にするだけで、棍棒を持って襲いかかってくる蛮族の集団の誕生だ。実際、これは自己反省も込めて言うのだが……表現の自由戦士の界隈のみなさん、かなりその境地に近づきつつありますよね?
女性オタクの暗い池を私たちは笑うが、かつてのオタクの境遇を思い出してみてほしい。そもそも私たちオタクというもの自体が、嫌悪にまみれた、臭くて瘴気の漂う沼の奥底から這い出してきた怪物なのではなかったのだろうか。
オタクとさげすまれてきた人々は、アニメ・漫画・HENTAI文化と、日本のソフトパワーとして誇れるような、大輪の花を咲かせた。沼の中で育った私たちは、消費者としてもずいぶんと経済力を持つようになった。社会が無視できないほど、図体が大きく育ったわけだ。
オタクを名乗る国会議員も、地方議会議員も現れた。規制の動きなどあろうものなら、一致団結して、跳ね返すことができるだろう。インターネットでは、はっきり言ってフェミニストなどよりも声のデカい、圧倒的多数派に成長した。
だから……
安心して、アニメや漫画や、オタクっぽい巨乳絵や、そういうものへの嫌悪を口にした奴らを、思う存分、お気持ちだキチガイだと攻撃して、黙らせることができるようになった。なってしまった。
それは、嫌悪の言葉を投げかけられることにさえ耐えられない、繊細な被害者意識にまみれた、おぞましく、巨大な怪物だ。
臭気漂う沼の怪物は、池の中から這い出てきたインターネットの河童を笑い、嘲りながら、嬲り回して、闊歩している。
本当に、これで良かったと思いますか?
少なくとも、私は思わない。
「好き」が許されるように、「嫌い」だって許されるのが、本来あるべき姿だからだ。
光あれば影があるように、何かを好きだと思い、大切に思う人がいる裏には、それが嫌いで、見るだけで反吐が出るという人もいる。それが自然な姿だろう。
もちろん、何かを楽しんでいる人々の集まりや作者のもとに行って、わざわざ執拗に嫌いだとか、気持ち悪いとか、あげく表現物を取り下げろとか、無くせというのは、ノーマナーだし、表現の自由の実質的抑圧としても機能するもので、そういう行為が批判を受けるのは仕方がない。
けれど、嫌いなものを嫌いだと、気持ちの悪いものを気持ちが悪いと、口にすることだけは――たとえそれが理解不能だったり、身勝手な理由だとしても――許されなければならないと、私は思う。
周囲に理解されない何物かを愛し、好きになっても、他者から人格を否定されたりしない、沼の怪物にとっての安住の場所を作り出すためには、相互に好きと嫌いを許し合うことこそが、最低限のマナーであり、ルールであり、フェアネスではないだろうか。
好きであることの自由は、嫌いであることの自由と、常に表裏一体なのだ。
それを忘れて、臭気に顔をゆがめる誰かを好き放題に殴りつけていれば、いつか、沼の外の人々に怪物が狩られる日が来るだろう。
そのような日が来ないことを、沼の住人の一人として、祈ってやまない。
以上
青識亜論
【参考】
「嫌悪」についての私の考え方について、CDBさんと昔まとまった議論をしたので、それを参考に掲載しておきます。
いま、「嫌悪」をめぐる問題は、非常に重要さを増していると考えていて、Xをお休みしている代わりではないのですが(笑)、いろいろ書いていこうと考えています。