便利と不便はどちらが将来、有利か?
試験対策は効率をとことん、追及することが不可欠です。そのため、市販教材や予備校、通信教育など、
お金で買えるものなら、結局、さっさと利用する方が、勝ちだ。
と言う結論になりがちです。あながち、これは嘘とは言えません。そういう場合が往々にしてあると思います。しかし、今、大人であれば、これは経験的に誰もが感じていることだと思うのですが、
不便なほど、自身の原始的能力が高くなる
という想いはないでしょうか?例えば、キャンプです。私自身は素人で、せいぜい、友人の誘いで行ったことがあるとか、学生時代に学校の行事で参加したことがある程度なのですが、最近の便利グッズを見ていると、
もはや、キャンプの意味は変わってきているのかもしれないな
と思います。ひと昔前のキャンプ(いや、ふた昔前かもしれません)だと、
あえて不便さを選んで、味わう
というのが大きな目的だった時代があった気がします。今でも、山籠もりなど、修業を目的とした用途もあるそうで、山伏さんのような宗教的な目的の方とか、アスリートの方とか、訓練を目的にしている方もいらっしゃるようです。
これだけ、近代的な文明が発達しているわけですから、宗教はともかくとして、身体を鍛えるだけなら、無理に山籠もりなどを選ぶ必要があるのか?と思うわけですが、
「原始感覚を磨くにはこれが一番良い」
のだそうです。ここまで極端なことは私達、一般人は普段、感じることはないと思いますが、確かに便利は、特定の目的に特化されていると、目標達成に大きな効果をもたらしますが、他の何かを犠牲にするところがある気がするんです。
例えば、運転免許は、いきなり、試験を受けに試験会場に行っても別に構わないんですけど、現実は本当に限られた人しかできないでしょう(広大な私有地を持っている、車を既に所有していて、指導者もいるという人でないと、無免許で練習できないし、危険ですから)。だとすれば、最短距離として、普通の人が現実的に出来る方法としては、
運転免許の合宿
でしょうね。それこそ、運転免許の試験に合格することに特化した、”便利”と言えそうです。でも、何から何まで用意されたものって、その範囲に限ればすごく便利ですけど、その分、
応用が効きにくい
弱点があります。例えば、日本の運転免許を持っていても、それを全く、利用できない国に行って、一から免許を取らないといけなくなったとします。合宿がない場合、言葉も通じない場合、どうしますか?
人間は過去の成功体験の延長で考える癖があります。いえ、人間だけでなく、犬や猫などを見ていてもそうだと思います。それが俗にいう、学習効果というヤツなんだと思います。しかし、学習は時に、人間の基礎的な能力を狭く、不自由にします。経験による、思い込みが邪魔してしまうからです。
過去に予備校を利用して、大学受験や他の資格試験に合格した経験を持っている人は、行政書士試験でも、迷わず、予備校の利用を考えるでしょう。悩むとすれば、どこの予備校にするかを悩むだけで、
予備校にするか、独学にするか
という選択肢はあまり、考えないでしょう。それじゃ、予備校も扱っていない、マイナーな資格を取るように、会社から言われた人はどうしますか?おそらく、入手できる材料から、創意工夫して、いかに合格できるか、基本的なことから、作り上げていく必要があるでしょう。ところが、そういった、不便に慣れていない人は
そんなの、無理ですよ
と最初から断る選択肢しか思いつかないでしょう(あとは断り方をどう、するか、そこで悩むだけ)。
私は山籠もりを薦める気は全く無い(自分でも出来ないのに)のですが、
不便は人間の基礎的能力(原始的能力)を高める
のは本当だと、思っています。そして、反比例するように、
便利に溺れると、基礎的能力(原始的能力)が下がって、弱体化してしまう
のも本当だと思います。どこかでこれを意識しておかないと、ただ、結果が出ればそれで良いのだという発想だと、
その次の段階で、早くも壁にぶち当たってしまいます。
これは経験上、大人であれば、誰しもわかっていることだと思うんです。ただ、何かに夢中になっている時ほど、冷静に状況が判断できなくなるです。
子供に何かを教えていると、ある時点から子供は
次の指示を待つようになる
のがわかります。これが弱体化の一歩なんです。塾なんかだと、次々に指令がきて、それをこなすのが精いっぱいになりますし、それをこなしていくほど、優秀だと評価されていくんです。そうすると、目標の高校とかには入学出来るかもしれませんけど、
必ず、誰かに指示してもらわないと、自力で開拓することが出来ない人間になっていきます。
さぁ、大人である私達は、この問題にどう、取り組めばよいでしょうか。