お墓、決めてますか?
お墓なんて、まだまだ先のこと。
そう思っている人が多いと思う。
noteの読者層って何歳くらいの人が多いのかな?と思ってググってみたら、コアユーザーは20代から40代。
中でも20代がいちばん多いらしい。
人生100年時代と言われる昨今、働き盛りの世代には自分のお墓を考えるのは早すぎる?
・・・いやいや、そんなことはないはず!
おそらく明日も元気で生きていられるはずだけど残念ながら100%そうだとは言い切れないし、お墓は受け継ぐことも多いので、自分が元気であっても突然自分自身の話として降り掛かってくることもあるのだ。私もそうだった。だから、少し考えておいて損はない。
幸か不幸か、仕事でもプライベートでも、この人生の最後にして最大の問題(大げさに聞こえる?でも決して大げさではないよ!)を考える機会が最近多くあったので、私なりの考え方をまとめておきたい。
1 お墓は誰のためのものか
これはたぶん、近しい人を亡くしたことがある人は皆感じていることだろうけれど、お墓は「残された人」のためにあるものだ。
死後の世界がどんなものかは知らないが、きっと秋川雅史が歌っていたように、亡くなった人はお墓で眠ってなんかいないんだろうと思う。
そもそも一般庶民がお墓を建てるようになったのなんて、明治に入ってからだ。それ以前は多くはひとまとめ、戦国時代くらいまでは野ざらしもごく普通だった。お墓がないと眠る場所がないのでは困ってしまう。
数年前に亡くなった義母は、生前ことあるごとに「私は散骨がいい」と言っていた。墓なんかいらない、自然に還りたい、と。
家族のだれもがその希望を知っていたけれど、四十九日が済むと義父はすぐに墓探しを始めた。そして、家から程近い、見晴らしの良い丘の上の霊園に、小さなお墓を建てた。
義父が何を考えていたかはわからない。
いずれ自分も妻と一緒に眠る場所が欲しいと思ったのかもしれないし、散骨では親族や世間に説明がつかないと思ったのかもしれない。
義父から霊園の下見に付き合ってほしいと言われたときも、実際に見に行ったときも、契約するときも、いつもそばにいたけれど、夫も義弟も何も言わなかったし、聞かなかった。
たぶん、「父さんがそうしたいなら、すればいい。」と思っていたのだと思う。そんなことを問い質す気はまったく起きないほど、愛する妻を亡くした義父の姿は見ているだけで辛いものがあった。
義母は、草葉の陰で「いらないって言ったのに~!」と苦笑しているかもしれないな、と思いつつ、私も何も言わなかったけれど、正直に言うと少し困惑していた。
夫は長男なので、義両親がお墓を建てると私たち夫婦が引き継ぐことになる可能性が高い。
となると、いずれ私たちもここに入ることになるのか・・・。
じゃあ、私たちの死後は子どもたちがここまで墓参りに来るの・・・?
む、むむむ・・・。
――でもまあ、足繁く墓参りに出掛ける義父を見ていると、お墓を建てて良かったのだろうと思う。
いつも隣に居た妻がもういない。家の中には、どこにも。ソファにも、台所にも、いつも座っていたあの椅子にも。
「どこにもいない」と思うと寂しいけれど、お墓があると「妻がいる場所」ができる。
小さなことでも何かあると必ず義父が墓参りをして義母に報告するのも、そうすることで義母の居場所を確認しているのではないだろうか。
会いたいと思ったときに、会いに行く場所がある。これこそが、人々がお墓を作るようになった最大の理由ではないかと思う。
2 自分の死後を想像してみる
お墓は残された人のためにあるものだとはいえ、必ずしも残された人の望むかたちで手に入るわけではないのが悩ましい。
義父は末っ子で、継ぐお墓がなかったので自分で建てたけれど、いわゆる「先祖代々の墓」を引き継がなければならないパターンも多いだろう。
そういう意味では、好きな場所に好きなお墓を建てることができた義父はラッキーだったとも言える。
というのも、お墓を持つということは、けっこう大変なことなのだ。
なんとなく想像がつくと思うが、
①往々にして家から遠い。(特に都市圏)
②管理だけでもけっこう費用がかかる。
③誰が継ぐのか揉めることも多い。
地方では、宅地の一画にお墓がある家を見掛けることがある。お墓のことだけを考えると、これは理想の形だと思う。常に近くにいて、掃き清めることも手を合わせることも、日常の中でできる。
お墓なんて家から遠くても構わないという人もいるかもしれないけれど、自分の財産となれば近いに越したことはない。家から遠ければ遠いほど足が遠のきがちになってしまうし、忘れてはいけないのがお墓は放っておくと荒れるということだ。
滅多に行けないのであれば、管理者や石屋などにお願いしないとすぐに雑草だらけになり、数年放っておけば立派な「荒れ墓所」になってしまう。
一般的に、墓を所有しているだけで管理者に管理料(寺の場合はお布施)を払う必要があるが、家が遠くてこまめに手入れができないと、それを誰かにお願いしなければならず、プラスアルファで維持管理費用が必要になるのだ。石を清め、雑草を処理し、花を供える。半永久的だし、人の手でやることだからこの費用はばかにならないことは想像に難くない。
こんな風に手間がかかるものだから、残された者たちの間で押し付け合いになることもあるし、反対に「家督を継いだのは自分である」ということを証明するために墓の所有を主張する場合もある(実際には墓は「祭祀財産」なので一般財産の相続とは関係がないのだが。)。
あからさまに争いごとにならなくても、残された者たちにとっては悩みの種になりがちなのだ。
しかも、一般的な墓の場合、入れられる骨壺の数には制限がある。墓石の下にあるカロートと呼ばれる保管場所が骨壺でいっぱいになってしまうと、古い骨壺を処分しない限り新しいものは入れられなくなり、いずれは現世では誰も知る人のいないご先祖様だけのお墓になってしまう。
自分が入るお墓の心配はしても、その数十年後まで心配する人はどのくらいいるのだろうか。
自分が眠る場所は欲しい、子どもたちに時々は手を合わせにきてほしい。きっと子々孫々、誰かがお墓を守ってくれるだろう。
おぼろげにそんな風に考えながら死んでいく人が多いのではないだろうか。
でも、イエ制度が崩壊しつつある今、お墓の存続は難しくなっている。私は、娘と息子を自分の墓のことで悩ませたくはない。
3 お墓の種類を知っておこう
実はお墓には色々な種類があって、一般的な「○○家之墓」等の墓石を建てるものだけではない。
一般的な「○○家之墓」が一軒家であるとするならば、マンションとも言える都市型立体形式もあるし、祭壇だけ共有するシェアハウスのような合葬形式もあり、数十年だけ住まわせてもらえる定期借地権付き物件のようなものもある。管理者も、宗教法人もあれば官営も民営もあって、条件や価格も様々である。義母が望んでいたように、お墓を建てずに散骨、という選択肢もある。
私の場合、上記1、2の観点から、死後、自分に会いに来られる場所を子どもたちに残しておいてあげたいが、面倒なお墓問題からは解放しておいてあげたい、というのが望みだ。
いや、望みはもう一つある。
夫と一緒にいたいということだ。
完全に感情の上の話だが、骨になっても近くにいられたら嬉しい。
この3つの望みを叶える墓として私が今考えているのは、合葬墓所だ。
合葬なら、子どもたちがたまにしか来られなくても、管理者が手入れをしてくれる。最初の永代使用料だけで済むものを選べば、子孫に費用の面で負担をかけることはない。隣り合わせかどうかはわからないけど、夫とも近くにいられる。
子どもたちに迷惑をかけないためには、私の代で義父が建てたお墓を閉めなければならない。義母と義父も、一緒に合葬に入ることになるわけだが、きっと怒ることはないはず。と、思っている。
4 まとめ
以上が私の現時点での考え方だが、今後を決める上でいちばん大事なことは、家族でよく話し合い、コンセンサスを得ておくことだ。
日常の中では少し話しづらいことだし、どうせまだまだ先のことだから今日じゃなくてもいいかな、とつい先延ばししてしまいがちだけれど、死は突然くるものだから話し合っておくに越したことはない。
当面は夫と話し合うとして、さて、子どもたちが大きくなったとき、この考えを伝えたらなんて言うかな。その頃には世の中の墓事情もきっと大きく変わっているだろうけれど。
願わくば、お墓に入る前の時間を少しでも長く、仲良く、愛する家族と過ごしておきたい。