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「クロスオーバー」について ~『映画 プリキュアオールスターズF』~

『映画プリキュアオールスターズF』を視聴したので、その感想・批評を行う。なお本稿はネタバレをしていくので、未視聴の方は十分注意していただきたい。
https://2023allstars-f.precure-movie.com/


5年振りの「オールスター」

 本作は2018年10月公開の『映画HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』以来約5年振りとなるオールスター、即ちクロスオーバー作品だ。往年のファン待望の作品となった本作であったが、その期待に十分に応える傑作・名作であったことは最初に言っておきたい。
 本作において着目すべき点は、より「クロスオーバー」という点を強調していた事だろう。例えば序盤においても各作品におけるキャラ・個性を限られた時間の中でしっかりと演出できていたし、終盤における過去作の「回想」や「決戦」シーンにおけるラメールとマーメイドやミルキーとピース等「そう来たか」と「ニヤリ」と何よりも「ワクワク」させたであろう秀逸な描写も多々見られた。            
 この点は前作『メモリーズ』と比較すると分かりやすいかもしれない。今考えると『メモリーズ』はあくまでも「『HUGっと』の映画版」と言えるだろう。描写の比重からして明らかに野乃はな/キュアエールに割かれていた上に、過去作のプリキュア達も「エールを助ける」という動機で動いていた。そう考えると前作は「メインは『HUGっと』(と初代)で過去作は添え物」と言えるだろう。(誤解しないでほしいのは、「だから『メモリーズ』は駄作」と言いたいのではない。あくまで見せ方の違いでそこに優劣は無い。)
 その点本作は『ひろプリ』の描写は最低限度とし、過去作の魅力を引き出す事に注力していたと言えよう。そうした意味で本作はある意味「正しく」オールスターであっただろう。
 本稿ではそうした評価を前提とした上で、本作を手掛かりに「クロスオーバー」について考えていきたい。

(キュア)シュプリームとは何だったのか

 本作における「敵」はシュプリームという、言うなればプリキュアの「力」のみを抽出した存在だ。
 彼女(?)はプリキュア達を消滅させ、地球を破壊そして再構成し、自分がプリキュアとなる環境を創り上げた。「キュア」シュプリームとなり、そうして創り上げたのが妖精・「プーカ」だ。
 ここで考えたいのが、シュプリームとは言わば「クロスオーバー」そのものということだ。

 既にサービスが終了してしまったが、かつて『ガンバライド』正式名称は『仮面ライダーバトル ガンバライド』というトレーディングカードアーケードゲーム(TCAG)があった。題名から想像するように、各作品の仮面ライダーがカードとなりそれを組み合わせてバトルに勝利するというのが大まかなゲームの流れだ。重要なのはそのゲームにおける仮面ライダーとは言うなれば「戦闘」を抽出された存在ということである。即ちここで為されているのは「能力のクロスオーバー」と言えよう。

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 そう考えると、シュプリームとは『ガンバライド』より正確に言えば『ガンバライド』のプレイヤーに他ならない。例えばシュプリームはプーカを捨てるシーンがあるが、それはさながら「雑魚カード」を捨てるプレイヤーだろう。
 
 ゲームに勝つために、ランクを上げるために、「クロスオーバー」的能力を用いる。そして弱い、不要と判断した存在は欠陥としてその個性を認めず切り捨てる。シュプリームとはそうした「クロスオーバー」の持つある種の暴力性を体現した存在と言えよう。

クロスオーバーと寂しさ

 このようなシュプリームの姿は本作では寂しさとして描かれた。
 前作『メモリーズ』において、ミデンという敵キャラクターがいた。ミデンは取り込んだプリキュアの技が使えるという、正に「クロスオーバー」的能力を持っていた。                           そのようなミデンの正体は生産が終了したカメラだった。彼(?)は忘れられた寂しさから怪物となり、それを埋めるためにプリキュア達を取り込んでいったが、最終的にプリキュア達によって寂しさから解放されたのだ。
 ここで考えたいのが、ミデンもシュプリームもクロスオーバーを自己の能力として用いていたという事である。最終的にシュプリームもプリキュア達によって他者の存在を受け入れ、プーカとも和解を果たす。それが可能だったのはプリキュア達が他者の異質さを認めた上で、それでも協働するという「クロスオーバー」だったからに他ならない。
 クロスオーバーを自己の能力、言い換えるならエゴとして用いるなら、それは他者を認められないという寂しさである。他者を他者としてその異質さを認めた上で、それでも手を伸ばすクロスオーバーには、そうした寂しさは存在しない。

これからのオールスターについて

 本作が傑作であることは疑いようはないが、今後のプリキュア映画、特にクロスオーバーを考える上で外せない論点がある。それは「尺」だ。
 プリキュア映画の上映時間は概ね90分前後だ。それは恐らくメインターゲットの女児やその保護者の負担を考慮した結果と言えよう。その事自体は必要な配慮だが、作品の「枷」になりつつあるのも否めない。
 本作の難点を敢えて挙げるなら正にそこで、やはり終盤の展開が駆け足になってしまった印象だ。さらには『HUGっと』までは恒例だった「春のクロスオーバー」が長らく作られなかったのも尺というハードルがあったからだろう。これからのプリキュア映画を考える上で、尺は考えなければならない論点だ。

 これからプリキュアが続いていく上で(一ファンとしてはあと10年は続いてほしい)尺という言うなれば「子供(とその保護者のため)のため」の視点を守ったまま、どのように良い作品、特にクロスオーバーを作り続けていくのか。慎重に見ていきたい。



 

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