年表
中世ヨーロッパはキリスト教共同体として発展した。教皇とは 使徒ペテロの後継者 天国の鍵を預かる者 信徒達を導く信仰上の父であり、世界はローマ教皇に帰属すると主張されていた、その根拠となったの文章が、315年3月30日に書かれたコンスタンティヌスの寄進状と言われています。その内容は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は、ハンセン病(癩病)を患っていたが、ローマ教皇シルウェステル1世による洗礼を受けた後、治癒した。その感謝の印として、ローマ司教に自分と等しい権力を与え、全西方世界を委ね、自分はコンスタンティノープルに隠退する11世紀以後も、世俗権と皇帝に対する教皇の優位性の根拠として使用された。
現在ではこの文章は、偽の文章である事が判明しいて、中世最大の偽書と言われています。
コンスタンティヌスの寄進状が偽書であることを指摘した人の1人が15世紀に活躍したイタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラです。
1215年、マグナカルタ
ブーヴィーヌの戦いでフランスに敗北したジョンは、戦後さらなる徴兵を必要とした。しかし、イングランド貴族たちは度重なる軍役に反発、徴兵に応じるどころか、ジョンに対しそれぞれ抱えていた財政負担や不満を救済するよう強く求めた。1215年6月19日、貴族たちの要求をまとめる形でサリー近郊のラニーミードにおいて制定された。これにより、イングランドにおいて法の支配が初めて確認されることになった。
課税には人民の同意が必要
1466年 エラスムス ネーデルランドのアムステルダムで生まれる
1478年スペインにて異端審問が始まる。
ユダヤ教徒とイスラム教徒に狙いを定めた
宗教改革の時代に入ると、異端審問所はその照準をフダイサンテから「古くからのキリスト教徒」へ移す。彼らの宗教生活を監視し、少数ではあったがプロテスタントや照明派に対しても審問が行われ、スペイン反宗教改革の中心的役割を負った。
1492年 コロンブスがインドを発見して帰還する
1494年6月7日 トルデシリャス条約スペイン帝国とポルトガル王国の間で結ばれた条約[1] 本条約において西アフリカのセネガル沖に浮かぶベルデ岬諸島の西370レグア(約2000km)の海上において子午線に沿った線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められた。スペインはこの条約のおかげでアメリカ大陸の全域で優先権を持つことができた。フランス、イギリス(イングランド)、オランダといった国々はこの条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となった。この状況を打破するには、スペインやポルトガルの船団に対して海賊行為をおこなうか、(このころはまだ難しかった)教皇の決定を無視するかという選択肢しかなかった。こうして新領土獲得から締め出された国々の心情は、フランソワ1世のものとされる「(新領土から締め出される根拠とされた)アダムの意志とはいったい何か?」という言葉によくあらわされている。
1516年 エラスムス「校訂版新約聖書」を出版する
エラスムス は、 聖書 の さまざま な 写本 の ほか、 教父 や 神学 者 の 釈義 書 をも 幅広く 参照 し ながら、 新約聖書 に 詳細 な 注解 を 施し、 その 原文 を 考究 し て いっ た の です( 7)。 こうして 彼 は、 キリスト の 使 信 を 正確 に 理解 する ため には、 単に 伝統 を 墨守 し 続ける のでは なく、 開か れた 探求 が 必要 で ある こと を 痛感 する よう になり まし た。 同書 の 序文 で エラスムス は、 キリスト の 教え は すべて の 人々 に 共有 さ れる べき で あり、 少数 の 神学 者 が それ を 独占 し て いる 状態 は 誤っ て いる こと を 指摘 し た 上 で、 次 の よう に 述べ て い ます。 私 にとって、 本当 の 神学 者 という のは、…… ねじまげ られ た よう な 三段論法 では なく、 愛情 と、 顔 と、 目 と、 自分 の 生き方 で 富 を 拒む 事 を 教え、…… 悪 を なす 者 に 善 を もっ て 尽す べき だ と 教える 者 の 事 です し、 又 すべて の 善 なる 者 は、 同じ 身体 の 肢体 として 平等 に 愛され、 護ら れる べき で あり、 悪い 者 が もし 正さ れ ない として も、 寛容 に 扱わ れる べき で ある と 教える 人 の 事 なの です。…… この よう な 事 を、 キリスト の 霊 によって 公 け に 示し、 勧め、 励まし、 要請 し、 鼓舞 する なら ば、 たとえ 彼 が 農夫 で あれ、 あるいは 機織り で あれ、 その 人 こそ 本当に 神学 者 なの です。( デシデリウス・エラスムス「 新約聖書 序文( 8)」) エラスムス の 思想 は 一般 に、「 キリスト 教 的 人文主義」 と 称さ れ ます。 人々 が 身分 に 囚われ ず、 自ら の 知性 を 磨き ながら 聖書 について 学び、 互いに互いに 奉仕 し 合う という のが、 その 主張 の 根幹 です。 こうした 考え方 は プロテスタンティズム にも 継承 さ れ、「 聖書 主義」 や「 万人 祭司」 として 結実 し て ゆき ます。 そして その こと は、「 エラスムス が 産ん だ 卵 を ルター が 孵し た」 とも 表現 さ れる。 とは いえ その 際 には、 人文主義 的 な 人間 中心 主義 が 徹底 し て 廃 さ れ、 神 中心 主義 へと 大きく 軸足 が 移さ れる こと に なる の です が……。 それ について は、 また 後 に 見 ましょ う。
大田俊寛. 一神教全史 下 中世社会の終焉と近代国家の誕生 (河出新書) (pp.72-73). 河出書房新社. Kindle 版.
大田俊寛. 一神教全史 下 中世社会の終焉と近代国家の誕生 (河出新書) (p.72). 河出書房新社. Kindle 版.
大田俊寛. 一神教全史 下 中世社会の終焉と近代国家の誕生 (河出新書) (p.72). 河出書房新社. Kindle 版.
大田俊寛. 一神教全史 下 中世社会の終焉と近代国家の誕生 (河出新書) (pp.71-72). 河出書房新社. Kindle 版.
1517年 ルターの宗教改革はじまる 95ヶ条の提題
カトリックが主張してきた教皇権には根拠がない
教皇権が現世を超えて適用されることに根拠がない
聖書主義、万人祭司
1521年 ルター 破門される
信仰義認(信仰のみ主義)、聖書のみ、万人祭司といった思想を展開した。また、ルターはドイツ農民戦争に際し、行為義認ではないが世俗の秩序を尊重する立場から農民暴動を批判している。
1522年 マゼラン艦隊本国に帰還する。それは地図上に南北に線をひいてスペインとポルトガルの境界を定めていても、地球が丸いなら不完全なもので、もう一本線を引かなければ分割の意味をなさないのではないかという当然の疑問であった。
1524年から1525年 ルターとエラスムスの論争 自由意志があるのかないのか?
1524年 エラスムス 論評 自由意志
エラスムス は、 聖書 の 記述 の なか には 自由意志 に対する 肯定 と 否定 の 双方 が 存在 し て いる こと を 指摘 し、「 自由意志 は 原罪 によって 傷つけ られ、 神 の 恩寵 を 受ける までは 悪 に 傾き がち だ が、 まったく 働か なく なっ た わけ では ない」
大田俊寛. 一神教全史 下 中世社会の終焉と近代国家の誕生 (河出新書) (p.87). 河出書房新社. Kindle 版.
1525年 ルター 意志の束縛
もし私たちが、神はすべてのことを予知し、あらかじめ定めておられる、神はその予知と定めにおいて惑わされることも妨げられることもない、神の意志によらなければ何事も起こりえない(このことは理性自身も認めざるを得ない)、それが真実であると信じるならば、理性自身の証言によれば、人間にも天使にも、またいかなる被造物にも「自由意志」は存在しえない!
また、 予定説 は 基本 的 に、 他 の プロテスタント 思想 にも 見 られる「 神 中心 主義」 の スタンス を 先鋭化 さ せ た もの として 提示 さ れ て い ます。 例えば ルター は、 エラスムス との 論争 において、 救済 に関して 人間 の 意志 が 力 を 持た ない こと を 主張 し まし た( 奴隷 的 意志 論)。 カルヴァン の 予定説 において は、 救済 に関する 事柄 は、 人間 や 教会 の 力 によって 左右 する こと が でき ず、 すべて 神 によって 予め 決定 さ れ て いる と 唱え られ ます が、 こうした 考え方 は 明らか に ルター の 思想 の 延長線 上 に あり、 そこ に カルヴァン の 独自 性 を 認める のは 難しい ようよう に 思わ れる の です。 予定説 は さまざま な 反応 を 引き起こし まし た が、 なかでも 議論 が 集中 し た のは、 いわゆる「 二重 予定説」 について でし た。 すなわち、 神 は「 救済 さ れる 人間」 だけでは なく、「 救済 さ れ ない 人間」 をも 予定 し て いる、 という 考え方 です。 これ に対し、 果たして 神 は その よう な 無慈悲 な 事柄 を 決定 さ れる だろ う か、 という 反論 が 寄せ られ まし た。 しかし カルヴァン は、 神 が 救済 を 予定 し て いる という こと は、 滅び をも 予定 し て いる という こと で あり、 こうした 単純 な 事実 を 受け入れ られ ない 者 は、 あまりに も 無知 で 子供 じみ て いる、 と 突き放し て います
1529年 サラゴサ条約
ポルトガル王ジョアン3世と神聖ローマ皇帝カール5世の間でサラゴサにて締結された、スペイン帝国とポルトガル海上帝国の間の平和条約。
条約はカスティーリャ王国(スペイン)とポルトガルのアジアにおける勢力圏を分け、両国が同時に1494年のトルデシリャス条約を根拠にモルッカ諸島の領有を主張したために起こった「モルッカ問題」を解決する試みとなった。紛争は1520年に両国の遠征隊が太平洋に到着したときから始まった。この時には、東方において子午線はまだ定められていなかった。
1529年 宗教改革会議 ヘンリー8世(1491年~1547年)の離婚問題
イングランドはカトリックからの独立が決定する
1529年4月22日「サラゴサ条約」である。サラゴサ条約はモルッカ諸島の東297.5レグアを通る子午線を第二の境界とした。ポルトガルの半球は約191度でスペインの半球は約169度だった。
1534年 ローマ教皇への献金を禁止した「ペトロ献金支払禁止令」
1540年 イエズス会結成
1543年 種子島に漂着
1549年 フランシスコザビエル 日本に到着
1553年 ブラッディーメアリー即位 カトリックに育った彼女は
プロテスタントを弾圧した
1558年 エリザベス1世即位(45年間)
1559年 キリスト教綱要 カルヴァン著 予定説
1560年 桶狭間の戦い
1562年 ユグノー戦争 ユグノーとはフランスのカルヴァン派の人々
プロテスタントが全土で1万人が虐殺される
ナント勅令 プロテスタントに公の場で礼拝する権利、教育の権利などが保障される
1582年 本能寺の変
1588年 エリザベス1世 アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊を破る
プロテスタントの一部 ピューリタン(清教徒)と呼ばれる
純粋な信仰生活を求める人々
スコットランド ジョンノックスによってピューリタンへ
アイルランド カトリックへ
ユグノー戦争(1562年 - 1598年)は、フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8回40年近くにわたり戦った内戦である。
1603年 エリザベス1世死去
スコットランド王のジェームス1世即位
王権神授説「 国王 は 人民 を 統治 する 権力 を 神 から 直接的 に 与え られ て いる」
1610年 大契約(だいけいやく、Great Contract)は、1610年にイングランド王国の大蔵卿(英語版)初代ソールズベリー伯ロバート・セシルが提案した財政再建案。実現はしなかったが、近代租税国家思想の萌芽が見られる先駆的な構想であった。
当時のイングランドの財政は「国王は自治すべし(The King must live of his own)」という中世以来の家産国家的思想に基づいて、経常収支(王室の生活費と通常の行政経費)に関しては国王の領地及びその国王大権とそれに付随する封建制度に基づく収入から、戦争などの臨時出費に関しては十分の一税などの税金や商人たちからの強制的借入及び上納金などで補われる原則があった。特にイングランドではマグナ・カルタ以来、臨時出費に対する税金徴収はイングランド議会の許可が必要であるということ、また国王・王室の経常的な収入に関しては国王自らの手で賄うべきであり議会は一切その責任を負うべきではない、と考えられてきた[1]。
しかしテューダー朝に入ると、財政難によって国王大権に基づく徴収を強めた(これを財政封建制(fiscal feudalism)と呼ぶ)。後見裁判所の設置による後見権(封建領主家を未成年者が継いだ場合に封建的義務が果たせないことを理由に領地収入の一部を国王が徴収する)強化や徴発権の濫用などに貴族・騎士階層は悩まされることになった。さらに17世紀初頭、スコットランド王家のステュアート家からジェームズ1世を新国王に迎えると、政治基盤の弱い国王が恩賜などによる自派強化によって政権基盤の安定を図ったため、その影響は深刻さを増していた。これに高い関税に悩まされる商人たちの不満の声も加わって、彼らを代表する議会と国王ジェームズ1世の確執は深まるばかりであった[2]。
大田俊寛. 一神教全史 下 中世社会の終焉と近代国家の誕生 (河出新書) (p.141). 河出書房新社. Kindle 版.
1618年~1648年 30年戦争勃発、最後にして最大の宗教戦争
主にドイツ(神聖ローマ帝国)を舞台として1618年から1648年にかけて戦われた宗教的・政治的諸戦争の総称[1]である。ドイツにおけるプロテスタントとカトリックとの対立、オーストリア,スペインのハプスブルク家とフランスのブルボン家との抗争を背景とし,オーストリア領ボヘミアの新教徒が神聖ローマ帝国に対して反乱(プラハ窓外放出事件)を起こしたことに端を発した[1]。当初は皇帝=カトリック軍が優勢であったが、プロテスタント国のデンマーク、スウェーデンが参戦し、旧教国フランスが新教国スウェーデンを支持するに至り、もはや宗教戦争とは言えなくなり[1]国際的戦争となった[8]。
戦争の結果、オランダとスイスが独立し、ドイツ諸侯も独立性も強化され、神聖ローマ皇帝は名目的存在となり、ハプスブルク家は大打撃を受けた[8]。アルザス地方を獲得したフランスは大陸最強国となり、北ドイツの諸要地を獲得したスウェーデンも強国となった[
カトリックによって世界帝国建設を夢見たハプスブルグ家の当主フェルナンド二世が30年戦争を引き起こしたが信仰の敵 悪魔と言ってお互いに殺し合う戦いになり、ウェストフェリア条約によって終結した
1625年 チャールズ1世即位 スペインやフランスとの戦争に多額のお金を使う 議会を無視して臨時課税で切り抜ける
1627年 権利請願が提出される
エドワード・コーク 法の支配
コークは「国王といえども神と法の下にある」という
ヘンリー・ブラクトンの法諺を引用して諫めたとされる
「王は人の下にあってはならない。しかし、国王といえども神と法 の下にある。なぜなら、法が王を作るからである。」
臣民の自由と権利は、古代から相続された法の中に宿る
イギリス国王といえども「法=コモン・ロー(古来からの慣習)」の下にあると「法の支配」の概念がコークにより明確化された。また、18世紀になって自由や権利は相続財産であるという点は、保守主義の哲学としてエドマンド・バークにより理論化された。
1639年 スコットランドで主教戦争が勃発
1640年 戦費調達の為にチャールズ1世が議会を招集
議会派と王党派が激突、内戦が始まる
市民の金銀等13万ポンドを没収した
ゴールドスミスバンカーが登場
1642年 クロムウェルが議会軍の指揮官として戦う
一、 私 は 戦う。 国王 を 教皇 派( カトリック) の 手 から 救い だす ため に(
四、 私 は 戦う。 今や この 国 において 激しく 反対 さ れ まったく 抑圧 さ れよ う と し て いる、 真実 の プロテスタント の 信仰 を 守る ため に。(
大田俊寛. 一神教全史 下 中世社会の終焉と近代国家の誕生 (河出新書) (p.145). 河出書房新社. Kindle 版.
1645年 ネーズビーの戦いにてクロムウェル率いる議会軍が チャールズ1世率いる国王軍を打ち破る
1649年 チャールズ1世が斬首
国民の反応は異様なうめき声
ピューリタン革命(清教徒革命)
1647年 長老派と独立派(水平派)人民協約を求める 人権の保障や普通選挙の実現 クロムウェルが弾圧
1649年 アイルランド 1650年 スコットランドにクロムウェル侵略
1651年 ホッブス リバイアサン出版 カトリック批判
1658年 護国卿クロムウェル死去
1660年 ヨーロッパ大陸に亡命していたチャールズ2世が即位 王政復古
フランスかぶれの絶対王制の復活
1662年 6月に物品税が導入され チャールズ2世が徴税請負人から前貸しされる P61
国王は融資をした金融業者に対して、木製の割り符と返済指示書を発行した
割り符には特定の債権者が書かれずに、譲渡が可能であった
返済指示書には元本が返済されるまで年利6%の利子を半年ごとに支払うことを保証する」と書かれた この指示書は裏書きによって譲渡が可能であり、
イギリスに譲渡可能な短期利付債券が誕生した
1670年 ドーバーの密約
独断でフランスから資金援助を受ける代わりに、イングランドがフランス側で参戦する事を約束した。
大ブリテン国王は,カトリック教の正しさを確信しており,その王国の事情が許し次第それを宣言し,カトリック教会と和解する決意がある
イングランド王チャールズ2世及び弟で後継者ヨーク公ジェームズ のカトリックへの改宗の約束。
カトリックへの復活を試みるチャールズ2世は議会と激しく対立し
議会は増税を認めない。よってチャールズ2世は1667年から1671年まで支払指示書を大量に発行した。これによって税収は激減し、利子の支払いだけでなく元本の支払いも出来なくなった。
1672年1月にチャールズ2世は支払指示書にて約束した支払いを停止すると発表、同年12月には、支払い停止は73年5月まで延長すると発表した
1685年 チャールズ2世が死去、弟のジェームス2世が即位
カトリックの復活を掲げていた
ホーリー党 王権を守る ホイッグ党 リベラル
両党は協議をして国王を交代させることにした
共に イングランド 王家 の 血 を 引く 人物、
オランダ 総督 ウィレム と、 妻 の メアリー でし た。
1687年 ニュートンの自然哲学の数学的原理 発行
1688年 名誉革命、 ジェームズ 2 世 は フランス に 亡命 し、 ウィリアム 3 世 と メアリー 2 世 の イングランド 王 即位 が 実現 し まし た。 流血 を 見 ず に 理性的 に 革命 が 達成 さ れ た こと から、 この 一件 は「 名誉革命」 と 称さ れ て い ます。 その 際、「 権利章典」 という 文書 が 議会 に 提出 さ れ、 両 王 も これ を 承認 し まし た( 32)。 同 文書 では、 先王 ジェームズ 2 世 が、 金銭 の 不当 な 徴収、 宗教 裁判所 の 設置、 議員 選挙 の 妨害、 残虐 な 刑罰 など によって、 国民 の 諸 権利 を 不当 に 侵害 し た こと が
大田俊寛. 一神教全史 下 中世社会の終焉と近代国家の誕生 (河出新書) (p.149). 河出書房新社. Kindle 版.
1689年 ジョンロック 統治2論出版
ピューリタン家庭で育って、議会擁護
原初 状態 において 人間 は、 すべて が 共有物 で ある 世界 の なか で、 自然 の 恵み を 享受 し て 生活 し ます が、 やがて は 自己 身体 を 用い て 労働 する よう になり、 私的 所有権 の 範囲 を 広げ て ゆき ます。 こうして、 牧畜 や 農耕 の 技術 が 進歩 する とともに、 私財 の 蓄積 や 交換 を 行う 道具 として、 貨幣 が 出現 した の です( 53)。 私的 所有 の システム が 発展 を 遂げ、 本格的 な 経済 活動 が 開始 さ れる と、 相互 の 権利 衝突 を 調停 し、 個々人 の 生命 と 財産 を 保護 する ため に、 国家( 政治的 共同体) という 共通 権力 が 求め られる よう になり ます。
大田俊寛. 一神教全史 下 中世社会の終焉と近代国家の誕生 (河出新書) (p.172). 河出書房新社. Kindle 版.
1688年 名誉革命。イングランド国王ジェームズ2世(スコットランド国王としてはジェームズ7世)が王位から追放され、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世)[注釈 1]がイングランド国王に即位した。これにより「権利の章典」が発布された。
イギリスにおけるカトリックの復権の可能性が完全に潰され、イングランド国教会の国教化が確定しただけでなく、権利の章典により国王の権限が制限され、イギリスにおける議会政治の基礎が築かれたからである。
1689年 権利章典
臣民の権利と自由を宣言し,王位の継承を定めるための法
一 議会の同意なくして国王の権限によって法律の効力を停止したり,その執行を停止したりするとされた権力は違法である.
四 議会の同意によらない国王大権による資金集めは違法である.
国王は税だけでなく歳出、歳入についても議会に依存する必要があり、
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